花金の先生

 せっかく早くに上がれたんだからと思って、わたしは友達に連絡をしてみた。新京極にいるということだったから、丸太町通りまでちょっと歩いて10系統のバスに乗る。

「カニの前で」

 カニの前、というのは寺町三条交差点のことで、有名なカニ料理店の巨大なモニュメントがあるからそう言っている。

 ふわふわと上下に頼りなく揺れるバスの中、スーツケースを引いた外国人観光客の話し声をなんとなく耳に入れ、これは中国語、これはきっとスペイン語、なんて想像する。窓の外は、いつまでも寒い京都の春。陽が落ちて紫色になった途端、急に冷える。わたしが高校卒業まで育ったのも内陸の街だったからとても寒いけれど、ここまで急に冷えるようなことがあったかといつも不思議に思う。


 河原町丸太町での右折という目に見えない力が、わたしをシートに押し付ける。京都の中では比較的高いビルの並ぶ河原町通りを南下する間、コンピューターで合成した音声が、次の停留所を告げる。

 いくつものヘッドライトがわたしを追い越し、いくつものテールランプがわたしを置き去りにした。

 なぜか、そういうセンチな気分になる。だからなのか、バスはあまり好きじゃない。地下鉄は学生の頃から使い慣れているから何ともないが、職場から地下鉄の駅まで歩くのは少し遠い。


 古い方がいいのか新しい方がいいのかよく分からない市役所を横目に歩き、暗くなった街の中でお化けが口を開いたみたいな寺町のアーケードの下へ。

 カニはもう目の前。

「睦美、久しぶり」

「ユウ」

 ユウは学生時代からの友人で、サークルもゼミも同じだった。ちょっとがさつなところがあるけれどとても明るく、一緒にいて気を張らずにいられるのがいい。

 人と会うと、ときおり京都の街が見せるもの寂しさは見えなくなる。生まれついての京都人よりもわたし達のような他県生まれ、あるいは国籍すら違う人々の方が多く行き交う、ニューヨークみたいな街だと思うことができる。それにはユウはうってつけの人選だ。


 カニの前から離れ、新京極通りを下がる。京都に来たころには、この上がる下がるという表現に戸惑いもしたが、今では全く気にならない。

 ウインドウショッピングをしながら新京極通りをゆき、ファンデーションとチークが残り少なくなっていたのを思い出してドラッグストアにも立ち寄り、四条の手前、こんなところにこんな道がとはじめは驚く細道にあるカフェに。


「あんた、オムライスばっかりね」

 ユウがチキンカレーにスプーンを突っ込みながら、呆れた声を向けてくる。外国の、綺麗な色の瓶のビールのよく似合う細い指が、いたずらっぽくわたしを指す。

「だって、美味しいんだもん」

「そりゃ、知ってるけどね。カレーでもロコモコでも、何でも美味しいわよ」

 ユウは来るたびに豊富なメニューのうちから今まで食べたことのないものを選び、わたしはいつも同じオムライス。デミグラスソースとかクリームソースとか色んなものがあるけれど、真っ赤なケチャップのかかったものしか頼まない。

 さらにユウはお酒が大好きで、ご飯に行くたびにいつもお酒を飲んでいるけれど、わたしはてんで駄目。そういえば、新歓コンパのときに先輩に無理矢理飲まされて気分が悪くなったのを助けてくれたのがユウで、そこから仲良くなったんだった。

 そのユウが可愛いと言ってくれる膨れっ面をこれ見よがしに作ってやり、ありったけの棘を唇から吐く。

「いいの。一途なの、わたしは。あなたと違って、ね」

「はいはい。それで浮気されて別れて以来、彼氏ナシ」

「うるさいなあ。古傷をえぐる、ってそういうことを言うのよ。ユウこそ、こないだのアキラ君はどうなったのよ」

「ああ、駄目駄目。あんなの、いつまで経っても子供みたいなもん。小学生を預かってるみたいで、話にならなかったわ」

「過去完了系なのね」

「うわ、一撃必殺」

 わたしたちは、仲がいい。いつもこんな調子で笑い合っている。かわいい、しか言い合わずに相手の顔よりSNSのための写真の画面を見つめている方が多い上辺だけの友達とは違う。


 カニの前、カフェ飯、そのあとはカラオケ。そうしなければならない法律はないけれど、わたし達の慣例というわけだ。

 レジでそれぞれの分の支払いを済ませ、店の外に出る。細道を駆け抜ける風がひとつ吹いて、わたしはそれを目で追った。

「──先生?」

 思わず、口に出していた。細道の向こう、ちらりと見えた人影。それは河原町通りへ抜ける方へと足を向けて、すぐにわたしの視界から消えた。

 先生であるはずがない。なぜなら、後ろ姿から見るに四十代くらいの女性と一緒だったからだ。

 わたしの思考は、混乱する。もしかすると、先生は歳上好みで、今から高級なクラブにでも一緒に出勤するのかもしれない。そうならば、何の問題もない。先生が花金にどこで何をしていようが、先生の勝手だからだ。

 そもそも、先生じゃないかもしれない。いや、でも、あの黒いスーツは。申し訳程度に掻き分けた、だらしない髪は。頭をほとんど動かさずに歩く、あの歩調は。

 なぜか、とても嫌な予感がして、わたしは駆け出していた。

「ちょっと、睦美。どうしたのよ」

「ごめんね、ユウ。急用。埋め合わせは、こんど」

 わたしは呆然とするユウを振り切るようにして、わざとらしい石畳風の舗装を踏み鳴らした。


 暗く沈み込んだ裏寺町通りを抜け、また人工の明かりで満たされた河原町へ。先生らしき男とその後ろを歩く女は、横断歩道で信号待ちをしていた。それを渡れば、歓楽街である木屋町。

 やっぱり、ただの同伴出勤なのだろうか。そう思うとふとよぎった理由のない嫌な予感というものが気のせいであるということになるから、追いかけるのをやめようかとも思った。だけど、どうせここまで来たのなら、二人が店に入るのを見届けて安心し、週明けに先生を思い切りからかってやればいい。そう考え直し、わたしは青に変わって歩行者を誘う横断歩道に、ほかの人に流されるような格好で足を踏み入れた。


 河原町通りは京都の中心部の東よりを南北に貫く大通りだが、三条から四条の間には木屋町へと抜ける細道が無数にあり、怪しげな店が立ち並び、怖そうなお兄さんが店の前に変な笑顔で立っていたりする。その一角で先生たちが足を止めたから、わたしは変なお兄さんに睨まれながら電柱の影に身を寄せた。

「それで、俺をどこに連れて行こうっつうの」

 よかった、とわたしは思った。先生と、まるで話し方が違う。あれが先生であるはずがないんだ。

「察しがええんやな」

 女が、なぜか勝ち誇ったように言うのが聞こえてくる。

「あんたのことだ。すっかり、バレちまってるらしいな」

「それでも動じひんのは、さすが先生やわ」

 そこで、男ははじめて振り返って女を見た。そうするとわたしにもその顔が安い蛍光灯の灯りの下に浮かぶのが見えた。

 また、わたしは声を上げそうになった。

 それは、紛れもなく先生だった。姿形と声が似ているだけの別人などではなく、紛れもなく先生だった。

 先生は鬱陶しそうな前髪の下の眼鏡を光らせ、不敵に笑っている。笑っているところを、はじめて見たかもしれない。

 なぜかは分からないけれど、わたしはそれをとても怖いと思った。

「で、どうする。あんたらの経営するモグリのJK喫茶に俺を連れ込んで、脅すか」

「やっぱり、さすが先生。察しがええわ」

「話し合いには、応じねえ」

「トガらんといてぇな。わたしらに噛み付いて、先生に何の得があるんよ」

「重加算税」

 先生は、まるでナイフでも突き刺すようにして言った。

「なんて?」

「国税通則法第六八条。所得がありながら申告せず、なおかつ意図的にそれを隠蔽したり仮装した場合、その基礎となるべき税額に百分の四十を加えた金額が重加算税として課税される。あんたらが上げた売り上げから算出した本来の申告額とその課税標準額は──」

「どえらいペナルティがある、言いたいんね。わかったわかった」

 それで、どうするつもりなのか。そういう響きが、女の言葉にはある。先生は眉一つ動かさず、まるでボールを足元に投げ捨てるような言い方でそれに答えた。

「選べ。お前らのやってる暗い商売を明るみにして重加算税を払うか、それとも風営法違反で摘発されて母体の組ごとガサ食らうか」

「あんた」

 女は、いきなり声の色を、この木屋町裏の夜にぴったりなものに染めて詰め寄った。

「わかってんねやろな。わたしを脅すようなことをして、どうなるんか。誰があんたを潰しに行くんか。わたしらを潰そう思てるんやったら、大間違いやで」

 それを、回答として受け取らせてもらう。

 先生は、女がキスをするんじゃないかと思うくらいに近い距離に詰め寄っても、なお微動だにせず、そう言った。

 そして、女からもう興味を失ったかのようにぷいと背を向け、木屋町の方へと歩き出した。

「今後は、わたしらがあんたの天敵になって、昼も夜もあんたをつけ狙うたげるわ」

 先生を追いかけるようにして放たれる、脅しの言葉。先生は高そうな靴でマンホールを踏んで、止まった。

「つけ狙うだけなら、ゴミ袋の上で鳴くカラスと一緒じゃねえか」

 先生の静かな声は、少し離れたところでそれを聞くわたしの背中をも震わせるほど、怖いものだった。


 女は怒りを隠せぬ様子でヒールを鳴らしながらわたしの側を通り過ぎ、わたしはそれを隠れて見送った。

 先生は、と思って細道の向こうに目をやったけれど、そこには電球の一部切れたスナックの看板や、いかがわしい店のネオンがうろついているだけだった。

「お姉さん、面接の人?」

 尋常ではない様子のわたしに、怖いお兄さんがおそるおそる声をかけてくる。はっと見上げると、女子大生専門、なんて書かれたピンク色の看板。

 わたしは驚き、ユウと待ち合わせをした店の生け簀で泡を吹くカニみたいになって慌てて早口でまくしたて、怖いお兄さんは首を傾げて去っていった。

 そのお兄さんが踏む階段の下の世界よりも、さっき見た先生の方が、よほど恐ろしかった。河原町の明かりの下に駆け戻って息をついてから、そう思った。

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