第一章 税のことなら羽布税理士事務所へ

あなたの街の税理士さん

「いや、先生。ほんまにありがとうございました。まさかこんな税金が軽くなるなんて」

 近くで染物工場を経営する五十代の顧客が、わたしが淹れたお茶を熱そうに啜り、顔全部で笑っている。

「ずっと個人事業主でやってきましたさかい。税金なんか、国から取られるもんやしとしか思てへんかったんですけどね。まさか、親父から受け継いだ駐車場やら借家やらが役に立つことがあるなんて。いや、ほんますごいわ」

「ものは試し、です。実際、前年度の税の総額と本年度では、大きく申告額が違ったでしょう?」

「あんた、ほんま凄いわ。ただ、俺には難しすぎて何が何やらわけ分からんけどな。なんやったかいな、工場を法人化して、個人で持っとった不動産も全部法人のもんにして、ほんで――」

「借家の修繕にかかる経費なども全て赤字計上してあります。さらに小規模企業共済を利用して」

 月十五万円で借りている老朽木造家屋。それを改装して、先生は事務所にしている。京都市上京区にある西陣地域には、わりあいこういう建物が多く残っていて、道路も建築基準法四二条二項に定められる昔から存在するままの道幅の道路であり、この細道に乗り入れてくる車も少なく、静かだ。しかし、たまに指先で押せば破れそうな薄ガラスの窓の向こうにそれが通ると、夷川の家具店で購入してきた古い革張りの椅子に座る先生のくぐもった声はかき消されてしまう。


「いや、もう先生に任すさかい、ええようにしてくれたらええわ。こないだもらった資料もよう読んどきます。あんまり凄腕やから、こっちも勉強せんと失礼やわ」

「ほどほどに。税というのは、誰にでも関わりのあることです。しかしながら、あまりに複雑です。我々税理士とは、誰でもできるが誰にでもできることではないことのお手伝いをして、報酬をいただく者ですから」

「いや、ほんま、頭が上がらんわ」

 染物屋の男は、危うげな音を立てて椅子を鳴らし、立ち上がった。

「それでは、申告額に基づく税理士報酬、その他各種手続きの手数料等を記載した請求書をお持ちします。火曜日の十時でいかがでしょう」

「かまへん。どうせ、店は仕舞屋しもたやになってるし。いつでもええよ」

「わかりました、それでは、火曜日の十時に」


 これまで、染物屋の男は個人事業主としてありのままの収入を申告し、それに応じた税をただ支払っていた。事業所得税だけではなく、固定資産税なども容赦なく請求が来るから、ただでさえ経営の怪しい昔ながらの工場はただ税を納めるために稼動しているようなものだった。

 先生は、その経営について税務的な観点からアドバイスを施し、不動産取得法人を立ち上げさせ、そこに個人が相続によって取得した駐車場や借家などを組み込んだ。ちょうど昨年の台風による修繕などもあって屋根や設備などを修繕したところだから、その修繕費も経費として計上し、さらに社長の奥さんと長女さんを役員にして――と、それはともかくとして、わたしは事務所の扉に軽く手をかける社長の見送りのためその後を追った。


「しかし、あんたも悪いなあ」

 京都の人は、ときどきこういう意地の悪い冗談を言う。この西陣というのは商人と職人が混在している街で、同志社大学に通っているときにこの街を知り、なんとなくこの雰囲気が好きになったけど、うちのお客さんとしてやって来る人の中には露骨に京都人、というような感じの人も多く、ちょっと対応に困る。

 先生は、そういう人々の扱いも上手だ。悪代官のような顔をことさらに作ってみせる社長に向かってオシャレでも何でもない丸眼鏡を光らせ、

「なにを仰います。払わなければならない税を逃れれば、脱税。払わなくてもよい税を払わずに済むようにするのは、節税と言います」

 と決め台詞のようなことを言ってのけた。正直、死ぬほど寒い。先生の経歴はよく知らないけれど、決め台詞を聞いて爆笑しながら帰ってゆく社長の言う通り凄腕だ。ボサボサの髪と汚れたままの丸眼鏡と、皺だらけのスーツがなければ、もっとお客さんも集まってくるかもしれない。

「ありがとうございました」

 せめて、わたしは愛想を良くしていなければ。お姉ちゃん、かわいいな、とよく言われるわたしの存在で、この事務所はこの世に繋ぎ止められていると言ってもバチは当たらないだろう。

よろずさん」

 と、先生はわたしのことを呼ぶ。あんまり気に入っている苗字ではないから、できれば下の名前である睦美むつみちゃん、と呼んでくれる方がいいと言ったこともあるのだが、先生は、

「ああ、そう」

 と言ったきり、わたしを苗字にさん付けで呼ぶスタイルを変えることはなかった。

「六時だ。今日はもう、上がっていいよ」

「え、いいんですか」

「花金だよ。友達と遊びに行ったりするんじゃないのか」

 花金、なんて言い方、実家のお父さんが昔していたのをお母さんが死語だと言って非難していた記憶しかない。先生はまだ三十過ぎのくせに、なに時代の人だと思うようなセンスをぶち撒けてくることがある。

「先生も、もう上がられますか?」

 わたしは早速帰り支度をしながら、先生のデスクの方に顔を覗かせて声をかけた。

「ああ、もう出る。看板の電気、頼むよ」

 あ、と声が出そうになった。いつも毛の禿げかけた鼠みたいなグレーか、お爺ちゃんが入院していたときに着ていたパジャマみたいに太いストライプの入った紺のスーツしか着ない先生がたまに着る、黒いスーツ。

 それだけ、やけに生地感もよく、締まって見える。どこか、よそ行きのスーツであることは間違いない。

「花金だからね」

 わたしの視線を目ざとく拾い上げ、そう呟く。どうせ、こっそりどこかに飲みに行くんだろうと思い、聴こえるように鼻を鳴らしてやった。パッと祇園といきたいところだろうが、先生はケチだからどうせ木屋町あたりだろう。

 のろのろと荷物をまとめる先生に退勤を告げ、わたしは入り口のドア脇にあるスイッチに手をやった。

 羽布税理士事務所。

 そう書かれた看板の電灯が消え、西陣の街を染めるオレンジと同じ色になった。

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