ゆっくりと効く毒

「一号線まで出て右折。そのまま直進」

「先生──?」

 タクシーを拾ったわたしたちだが、先生が運転手さんに告げたのはわたしたちの帰るべき方向とは真逆の道だった。

 その行き先の言いぶりがやっぱり左脳派なんだなと感じさせるが、そんなことはどうでもいい。

「深夜手当を付けなきゃいけないかな」

 わたしを見ず、口の端を歪める。


 どこを目指しているのか、分かっている。

 先生は、きっちり住所を調べ、覚えてきていた。

 長谷川秀一。ユウの伯父さん。中小路さんの話では、興嬰会と繋がりがあるという。

 先生は、それを裁きにゆくのだ。

 丸呑みにするのか、はたまた毒牙にかけてゆっくりと溶かして殺すのか。それは、わからない。


 そういえば、先生と一緒のときはタクシーが多い。先生はマイカーを持たず、事務所でも車は用いない。

 わたし一人のときは、タクシーを乗り回せるほどリッチではないから、使わない。だから、タクシーに乗るということは、たいてい先生が一緒。

 長身の先生はいつも、車幅の狭いタクシーの中に詰め込まれるようにして猫背になり、乱暴とも言える振動に尻を委ねている。


 ふだん、先生との物理的距離がこれほど近くなることはないが、密室で接近していても、先生はほとんど気配を発しないからそれほど気にならない。

 ときおり、香水ではないやわらかいシャンプーのような香りを立てる以外、いないのと同じなのだ。


 しかし、今夜は、どうにも違う。すれ違うヘッドライトをときおり宿す汚れた眼鏡はフロントガラスの向こうしか見ていないはずなのに、ときおり横目でわたしを確認しているように感じる。

 わたしが考え、していることは、すでに先生にはお見通しなのではないか。そういう不安が、わたしを蛇に締め上げられて窒息する小動物にする。


 マングースなんて大したものじゃない。似ているだけの、ただのイタチ。

 それでも、中小路さんの役に立ちたい。その一心で、わたしはどうにかこの後部座席にしがみ付いている。

 同時に、先生を騙し、嘘をつくことに対しての後ろめたさが、荒っぽいブレーキの加重を不快にさせる。


 雨。フロントガラスを叩いている。それを拭うワイパーが、せわしなく仕事をしている。

 どれだけ焦っても、ガラスは濡れて。どれだけ拭っても、それは目の前のものを払いのけたにすぎなくて。次から、次から、雨は降る。


「──なにも、言わないね」

 背骨に鉄棒を差し込まれたような気がした。

 シートの上で跳ね上がるわたしにちらりと眼をやり、先生は口の端を苦く笑ませた。

「止めるかと思っていたけれど、案外、落ち着いているね」

「ユウの伯父さんのところに──」

「行く」

 先生は、はっきりと言った。

「行って、どうするんですか」

「決まってるだろう」

 裁かれざるものを裁く。そういう習性を持つ生き物が、わたしの隣にいる。そう感じた。


 だが、ユウの伯父さんは、一体何をしたというのだろう。

 中小路さんの情報では、興嬰会と繋がりを持ってはいるという。しかし、たとえば──わたしの見たことのある範囲で──これまで先生が相手にしてきたような人たちのようなことをしているとは思えず、わざわざ自ら乗り込んでまで手を下すような理由がないように感じる。

 あるとすれば、もし、理由があるとすれば。


 わたしの足りない脳がくるくると回転し、小さく煮立って泡を立てる音がする。

 先生は、どうやら、目に止まる悪い奴をやっつけるのではなく、自ら進んで相手を求めているらしい。それも、興嬰会に繋がる者を。

 ということは、ということは、先生のしていることは、悪を裁くことが目的なのではなく、たとえば、


 ──興嬰会への恨み。

 復讐心が、先生を衝き動かすのだろうか。それならば、先生の今夜の行動にも合点がいく。

 どちらにしろ、もうすぐ分かる。

 ユウが良く思っていないとはいえ、それでもユウの親戚だ。妙なことがあってはいけない。

 何かあったら、わたしが止めないと。

 そう思い、横目でまた先生を盗み見て、わたしで太刀打ちなどできようはずもない相手であることを思い返し、また不安になった。

 ──中小路さん。

 わたしは、一途な方だ。あの人の顔を思い浮かべただけで、ほら、力がわいてきた。



 雨からわたしを守るタクシーはビニール傘に代わり、水たまりを踏んで、足を止めた。

 街頭を照り返していることで、先生の靴もわたしのパンプスと同じように濡れているのが分かる。

 インターホン。すぐに、男性の声で応答。

「ああ、お待ちしてました。雨の中、すんませんなあ」

 何かを投げ捨てるような言い方。これがユウの伯父さんなんだと即座に分かった。


 わたしは、いつの間にか、わけもわからぬまま、立派な調度の並ぶ応接間に座っていた。ここに案内してくれてすぐに引っ込んだ綺麗な女性は、奥さんなんだろう。

 ユウの家を出てからの記憶が、なにか昼寝のときに見る夢みたいにぱちぱちと明滅しているようにはっきりしない。

 応接間に近づいてくる足音。

 一度、深呼吸。先生は、落ち着いている。


「ああ、すんませんなあ、先生。遅い時間に、お願いしてしもて」

「いえ。先約があったのは、こちらですから。お伝えした通り、弟さんにお会いしてきました」

「ああ、そうでっか」

 で、どうだったのか。そういう響きが、言葉にある。

 奥さんがまた応接間に入ってきて、お茶を出してくれた。ユウの伯父さんはそれを一息に飲み干し、先生とわたしにも、どうぞ、と勧めた。


「やはり、弟さんは、お父様の資産を承継、継承するご意志は薄いようです」

 退室してゆく奥さんに会釈をし、ドアが閉まるのを確認してから、先生が口を開いた。

「そうですか、そうですか。昔からね、あいつは──」

「ちょっと待ってください」

 思わず、口を挟んでしまった。

「先生、もしかして──」

 すでに、ユウの伯父さんと、いや、この長谷川秀一氏と接触を終えている。そして、ユウのお父さんの考えを伝え、なにか味方をするようなことを。


「分割協議書は、ご依頼のとおり、すでに司法書士に依頼して作成しております。概ね、その内容通りで問題ないかと思います。お改めを」

 先生は、青ざめるわたしを無視し、淡々と書類を提示した。それをろくに見もせず、長谷川秀一氏は放り投げるように言う。

「わかった、ほなこの通りにしといてください」

 そのまま、記名のある欄に実印を捺した。


「しかし、長谷川さんほどの資産があるお宅ならば、お抱えの士業の者がいてもおかしくないはず。どうして、私に?」

 先生の眼鏡が、また曇った光を放つ。

「ああ、まあね。いろいろ、ややこしいんですわ。持ってることを知られると、あちこちに」

「お察しします」

 先生は、わざと味方のようなふりをして、興嬰会の情報を聞き出そうとしているのかもしれない。そう思うことが、わたしが先生に対して譲歩的立場を取れる唯一の方法だった。


「国も、何もかんも、おんなじや。持ってると分かった途端、手ぇ伸ばしてきよる」

「納めなければならないものを逃れれば、脱税。納めなくてよいものを避けるのは、節税。ある程度の回避はしたとしても、税を徴収されるのは致し方ないことです」

「そらそうやけどな、先生。そっちはええねや。いろいろとな、身の周りにうるさい連中がおるねん」

 やっぱり、そうなのかもしれない。先生は、興嬰会の情報を引き出そうとしている。


 長谷川秀一氏はおそらく興嬰会に借金があるか、あるいは弱みを握られていて、その状態で資産を継いだことを知られたくないと思っているのかもしれない。

 お抱えの税理士に声をかけなかったということは、おそらく、その税理士も興嬰会と繋がっているのだろう。

 だから、あくまで秘密裏にことを進めるため、先生に依頼をした。おそらく、先生の方から接触を持ったのだろう。


「では、仰るとおりに。重ねてお訊ねしますが、ほんとうに試算はしなくともよいのですね?」

「なんや。あんたが、どうもない言うたんやんか」

「しっかりと試算をし、その数字の根拠をもとに納税のシミュレーションをし、そのうえで分割協議書の内容を決定されてもよいのでは」

 先生は、もう話題を仕事のことに戻している。あまり詮索しすぎて怪しまれるのを嫌ったのかもしれない。

「かまへん、かまへん。こっちは、早よ金が欲しいねや」

「そうですか。そこまで、仰るなら」


 正式に税計算と申告の依頼を受けた。先生は、どうするつもりなのだろう。

 ユウからの依頼はあくまで相談の範疇であり、それは一旦完遂しているから、秀一氏が長谷川家の唯一の依頼人ということになる。


 ユウのお父さんは、多くは望まないと言っていた。

 だけど、秀一氏の専横を許していいのか。今後、ユウのお父さんはずっと秀一氏の顔色を気にして過ごしてゆくのか。

 もやもやとした、形のないものが胸の中でマーブル柄を描いている。それを無視し、先生は立ち上がり、わたしを促した。

「では、申告書の作成は進めさせていただきます。弟さんにもこの協議書をお見せし、押印いただければ、またお知らせします」

「よろしゅうな、先生」


 面談が終わった気配を察した奥さんもどこからともなくやってきて、秀一氏と二人で玄関まで見送りに出てくれた。

 傘を開き、振り返って礼をするときに見た、少し疲れたような表情が、妙に印象に残った。

 そういえば、玄関には若い趣味の――高校生くらいの――わたしくらいのサイズの靴が複数置かれていた。奥さんのものと思われる靴はどれもシックで、きちんと揃えて隅に並べられていたから、娘さんのものだろう。

 ぱっと見、奥さんは四十代半ばくらいだから、秀一氏はユウのお父さんより結婚が遅かったのかもしれない。


「どういうことなんですか」

 じっとりと、それでいて鋭く刺すように放つわたしの言葉には答えず、先生は別のことを言った。

「あれも欲しい、これも欲しい。それ自体は罪ではないけどね」

「先生は、いったい、何をしようとしてるんですか」

「なにも。依頼された税計算をし、申告書を作るだけさ」

 雨の音が、わたしたちを叩いている。きっと、明日まで鳴り止まないだろう。その音の中に、なにか少しでもわたしにとって安心材料になるようなものが隠れていないか探したけれど、先生の言葉は言葉としての機能しか持たなかった。

「あの、ユウの――」

「万さんの友達の件なら、心配しなくてもいいと伝えてくれていい」

 わたしが思わず作った訝しい顔は、傘に隠れて先生には見えないだろう。だけど、それを引き取るようにして、続けた。

「秀一氏の要望どおりに遺産を分割した場合、彼の納付すべき相続税額は、一億円やそこらの話じゃない」

「そんなに――」

 京都の土地は高い。ただでさえ高いのに、ユウのおじいさんは京都駅前の駐車場なども所有していたから、なおのこと高く評価される。


「さらに、債務控除もない」

 債務控除というのは、被相続人、つまり、亡くなった人が生前に借金をしていて、かつ、相続人がそれを継承する場合、債務の額が遺産額から差し引かれるという仕組みである。

「秀一氏は、現金主義のようだ。債務控除の有用性すら理解せず、被相続人に借り入れを起こさせなかったようだ」

 資産家に相続税がかかるのは当然だから、多くの資産家はこの債務控除というのを利用して生前に相続対策をしておく。たとえば所有する不動産に銀行から借り入れを受けて建物を建てたりするのがそうだ。

 かつ、それを賃貸すれば事業用、居住用によって軽減率は違うにせよ土地の評価も下げられる。

 大きな借り入れを作ることに変わりはないので、次代の者が借り入れを引き継ぐことを嫌がり、結局何もできぬまま相続を迎え、多額の税を徴収されるという話はよくある。

「秀一氏は、多くを求めすぎた。立地のよい不動産はもちろん、自宅近隣の農地まで。おそらく、彼は、農地も相続の際は宅地並で評価されることを知らない」


 先生は、嘲りの色をわずかに滲ませながら言った。それは、敵意のようにも見えた。

「土地を、売却するつもりなんでしょうか」

「よほどの預金があれば別だが、資産を活かすことができるような性格なら、な地主の息子としてほとんど無職の状態で、反社の使い走りなんてしないさ」

 たしかに、そうだ。先生は、秀一氏の性格を、気が弱いのさ、と端的にまとめた。

「さらに、累進課税」

 相続税の税率は、取得する資産の価額が多いほど高くなる。

「秀一氏の取得する額における税率は、最高の五十五パーセント。半分以上、税金で持っていかれる」

 アシスタントとしてよく目にする国税庁の速算表を思い浮かべた。あの分かりづらいタックスアンサーというホームページのことを思い返そうとするわたしの思考を、先生の言葉が引き戻す。


「ちなみに、もう少し取り分が少なかったら、もう一段階下の税率に潜れたんだけどね」

「先生、もしかして――」

「分割協議の内容まで、一任された。今日、そのとおりでいいと正式に承認ももらった」

 じゃあ、先生は、秀一氏が相続税を支払う能力がないことを見越し、あえて高い税率になるよう分割協議書の内容を調整したということか。

「思い入れもない場所だからいらない、継げるなら売るまでだが、別に弟にくれてやると言っていた土地。それも、一筆加えておいたのさ」

 先生は、わたしの思考をよく読む。わたしが中小路さんと連絡を取っていることも気付いているのでは、と不安になることがあるが、今のところその心配はないだろう。


「さて。明日から、取りかかるよ」

 わっと開ける世界。国道に出た。この時間だからか、待っても来ないからアプリでタクシーを呼び、それに乗った。

 その間、わたしが何かを話しかけても、先生は喉をひくく鳴らすばかりで答えない。


 資格なんて夢のまた夢とはいえ、わたしも税理士事務所のアシスタントだ。だから、分かる。

 秀一氏は、破滅するだろう。

 せっかく得た資産のうちの半分以上は相続税で持っていかれ、土地を売って納税しようにも、売却益の二割程度はいわゆる譲渡所得税という複数の税の集合体のようなものにより削られる。

 そうして、欲したものの多くを手放さなければならず、残るものは知れているだろう。

 ほとんど仕事をせず家の資産で食っているような秀一氏の今後は、真っ暗になった。

 なおかつ、想像するように、たとえば興嬰会に多額の借金があったりするならば、ほんとうに破滅するしかないだろう。


 どうやら、毒とは、噛みつき、ただちに死ぬものばかりではない。ゆっくりと身体を溶かし、破滅に向かって歩ませてゆくようなものもあるらしい。


 今夜のことを、中小路さんにどうやって報告しようか。

 自然と、わたしの脳内はそちらに向いた。

 実は、次の土曜、会う約束をしてもいる。スパイ活動ではない。見たい映画がある、と誘われたのだ。


 デート。揺れるタクシーの中、その三文字に頼り、わたしはどうにか平衡を保っている。

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