第30話【五月一日、五月二日~内藤省吾~】

 木曜日と金曜日は、穏やかな天気だった。暑くも寒くもない。五月の少し強い日差しも、半地下の部室の天窓を通すと、ちょうどいい明るさに弱められる。

 穏やかな日にふりそそぐ、穏やかな陽。

 ポメラに自作映画の脚本。隣に香織。テレビにゾンビ。

 最後のは、ちょっとなんか幸せの光景ではない。むしろ悪夢なんだけど、でも、ぼくには少し懐かしい。テレビにゾンビ。リズムもいい。

 肩に重さを感じる。

 見ると、香織が居眠りをしていた。

 昨日のプレイバックのような、同じ光景。昨日と同じ今日が来る。なんて幸せなことなんだろう。

 香織を見る。俯いた綺麗な鼻すじと長い睫毛に、少しどぎまぎする。香織は本当に綺麗だ。行動は多少エキセントリックだけど。

 天窓から差し込む光が、オレンジ色に変わる。

 一日の終わり。

 もしかしたら、映画研究会の…香織とぼくの部活動の…夕暮れ。


◆◆◆◆


 傾き始めた陽の中を香織と歩く。

 ぼくも香織もあまり話すほうではない。二人だけで帰るときは、家に帰りつくまで三十分ばかり、一言も話さないことも珍しくはない。無言の二人の前に、電車が滑り込み、ドアが開く。夕日が鉄橋の梁に明滅して、ぼくと香織の顔を交互に照らし出す。

「省吾」

最寄り駅で降りて、家まであと五分ばかりになったところで香織がようやく口を開く。

「うん」

「お願いがあるのだけど」

「香織、最近おかしいよ」

「おかしくないわ」

「おかしいよ。前はお願いなんてしなかったろ。命令はしたけど」

香織は、お願いなんてしない。ただ命令するだけだ。

「もう、省吾に命令なんてできないわ」

「?ぼくが香織を受け止めて、怪我をしたことを気に病んでいるの?」

「ちがうわ。そんなことじゃない」

ぼくらの足は自然と、昔よく遊んだ公園へと向かう。香織がペンキの剥げかけた馬の遊具にまたがる。ぼくは、隣のカメレオンに腰掛ける。ぼくらが子供のころから現役の遊具たちだ。

「省吾……わたし、カメレオンがいいわ」

「お願いって、それ?」

「ちがうわ」

カメレオンを香織に明け渡す。馬にまたがる。ひひーん。小さな児童公園。いるのは、ぼくら二人とカメレオンと馬だけ。

「お願いがあるの」

「それは、わかった。なに?」

「私、省吾と寝たいわ」

「なんとおっしゃいましたか?」

ちゃんと聞こえたけど、ラノベの主人公みたいな難聴になってみる。意味がわからない。

「省吾と同じベッドで寝たいわ」

たしか、ぼくの年齢は十七歳なはずだ。香織の方が少しだけ年上だけど、香織も十七歳なはずだ。香織の願いを聞いてしまうと、それは条例に触れる。なんだかその条例も、おめーはイスラム圏かよと言いたくなる条例だけど、決まってしまったものは仕方がない。

「それは、条例で禁止されていないだろうか?あと、香織のご両親が絶対に許さないと思う」

とくにお父さんにコロされると思う。

「省吾とセックスしたいということじゃないわ」

無表情で否定されて、ぼくの心の底の密かなエキサイトメントを見透かされたみたいだ。恥かしくて死にたい。公園のトイレとか、なんとなく首吊りする人が多そうな場所だと思う。

「そうですか」

目のハイライトを消去して、つぶやく。

「一緒に寝てくれるならしてもいいわ」

「まじでっ!?」

「一緒に寝てくれるならなんだってするわ」

ぶげぇっ。

 男子高校生に言ってはいけない台詞!

 しかも香織の顔にからかってる様子はない。

 まままままま。まじかー。

 ついに。まじかー。

 しかし、ちょっと待て。

 かすかに残った理性で踏みとどまる。

「か、香織…」

「毎晩一緒に寝てくれるなら、私の身体を好きにしていいわ」

ふんがぁーっ!

 かすかに残った理性が吹き飛んで、奥歯の虫歯になったところにひっかかっている。

「か、香織!ちょっと待った!」

「なに?」

虫歯の穴から、理性を回収して脳に戻す。あぶない。人間やめるところだったぞ。じょじょ。

「なにがあったの?なんで、そんなこと言い出すの?まず、それを聞かせて」

聞いた後どうするのか、選択肢を残すあたりが、下衆である。

「夜。いつも布団の上にしゃがんでいるわ。暗いのもいや。明るいのもいや。夜も、四角い部屋もいや。一人で音がないのがいや。ヘッドフォンで耳を塞ぐのも怖い。ベッドの上でしゃがんで、ドアを見てるわ」

「え?ね、寝てないの?」

「寝てるわ。そのまま、気がつくと寝ちゃってるわ。それに気づいて、寝てたことが怖くてたまらなくて、起きて、また気がつくと寝ちゃってって朝まで繰り返すわ。夜は、とても怖いのよ」

「眠るのがこわいの?」

さっきまで男子高校生ホルモンで酩酊していたぼくの脳に、氷水が流し込まれたみたいに覚醒する。これは冗談じゃない。男子高校生ホルモンに流されている場合でもない。

「起きてるのも寝てるのも怖いわ。起きていると、ドアが怖いわ。開いて、誰かが来そうで怖いわ。寝ると、そのドアが開く。怖いわ。怖い。そうなると、あそこに居るの。あの部屋に……」

「香織!」

香織の目が泳ぐ。バネで揺れるカメレオンの上で香織の身体がバランスを失くしていく。慌てて、両肩を掴んで支える。

 香織の両手がぼくの背中に回って、爪を立てる。

 あの晩と同じ力。

「しょうちゃん……」

「香織?」

「ん……大丈夫。省吾」

香織がぼくの胸に顔を押し当てて、言う。

「もう言わなくていいよ。ごめん。変なことを聞いて」

「聞いて欲しいわ」

香織がまた背中を伸ばす。

「夜、意識をなくすとドアが開いて何度もあの部屋に戻るのよ。だから眠るの怖いわ。何度も、何度あの部屋に戻っても、省吾は助けに来なかったわ」

「あ……」

都祭さんとの会話を思い出す。都祭さんは言った。

『もしかしたら『省吾、一度も助けに来ないくせに』かもしれないわよ』

そういうことだったのか。

 香織が、ぼくに『助けに来なかったくせに』と言っていたのは、十年前の一度のことじゃない。何度も、フラッシュバックのたびに助けを求めていたんだ。そのたびに、ぼくは助けに行かなかった。ぼくは『助けに来なかったくせに』だったのか。

「香織…ぼくは……」

カメレオンにまたがって、ぼくを見上げる香織の顔を見て言葉を失う。ぼくは何度香織を裏切って、傷つけていたんだろう。香織がぼくに横柄なのも当たり前だ。

「助けに来てくれたわ」

「え?」

「窓から逃げ出せたわ」

あの夜のことか。香織が窓から這い出て、ぼくが右足をくじいた夜。

「あれは、香織……」

「でも、窓に鉄格子がついちゃったわ」

柵がなかったら、また窓からダイブするのか。

「窓からのダイブは、ぼくが受け止めるのに失敗すると大変なことになるから」

香織の目が、すがりつくようにぼくを見るから照れる。

「知ってるわ。二階の窓から落ちると怪我するわ」

当たり前すぎる。なぜドヤ顔するの?

「省吾のベッドは怖くなかったわ」

「そういえば、ぼくのベッドでガン寝してたね」

「省吾のベッドは、省吾の匂いがして怖くなかったわ」

「匂いなのか……」

「毛布と枕もらったけど、だめだったわ。省吾の匂いついているのに」

香織……。

 香織は、十年、ずっとちゃんと寝てないんだろうか。十年、ずっと毎晩怯えながら過ごしているんだろうか。なんてことだ。

 みぞおちから、下腹部にかけて引き絞られる。

「香織……。いいよ。一緒に寝よう」

それでいいなら。香織が望むなら。それで、香織がゆっくりと眠れるなら。

 香織が無表情のまま、少しだけ目を細める。

「気に入ったわ。うちに来て妹をファックしていいわよ」

フルメタル・ジャケットのハートマン軍曹を真似したつもりかもしれないけど、それ、仁美ちゃんを差し出してる。鬼畜だ。

 香織の手をとって立ち上がらせる。

 カメレオンが少し軋んで、ゆれた。


◆◆◆◆


 香織が、ぼくの部屋にいる。ぼくはカーペットの上に置いたクッションの上に座って、香織はベッドの上にいる。ベッドの上に転がって、両足を伸ばしている。スカートから伸びる細い足に目が引き寄せられる。香織って、こんなに脚が長かったっけ?

「うれしいわ。本当に一緒に寝てくれるのね」

「う…うん。まぁ……」

あらためて言われると、照れる。

 というか、本当に今夜から香織と一緒に寝るのか?なんだか、動悸がしてめまいがしてきたぞ。頭蓋骨と頭皮の間がばっくんばっくんしてる。

「ひとつ問題があるわ」

香織が、枕に顔の下半分をうずめて言う。

「うちの父が阻止に動くわ」

「そりゃ、そうだろーよ」

当たり前だ。それに気づいていなかったぼくは、よほど冷静さを欠いていたのだろう。まぁ、欠いていたよ。まちがいない。

「先週末に粘り強く交渉したんだけど、どうしても省吾を私のベッドに招く許可が出なかったわ。おまけに言葉遣いに関して、極めて強く大音量で訂正を求められたわ。議題以外の部分に拘泥するとか、社会人失格よ」

粘り強い交渉がどのように行われたか、容易にイメージできた。お父様、よく失神しなかったな。

「それで考えたの。名づけて、オペレーション・バンパイアよ」

「朝まで遊んでいて、昼間寝に来るの?」

「よく分かったわね。まさか、敵も昼間に省吾の部屋に遊びに来るのを阻止は出来ないでしょう」

「なるほど……この間も、それだったのか」

「ちがうわ。ちゃんと省吾も付き合ってよ」

「ぼくも昼夜逆転させるの」

「させるの。だって、一人じゃ怖いもの。夜も昼も怖いもの」

「夜は、一緒にいられないんじゃないの?」

「だから、窓のところにいて」

「わかった」

ぼくがそう言うと香織がベッドの上で身体を起こす。細長い足をカーペットに下ろす。立ち上がる。ぼくを見下ろす角度でじっと見つめる。

 香織の指が制服のスカートの裾を摘む。

 え?

「お礼。前払いするわ。パンツ見たい?」

「は?」

な、なんだって?え?なにこれ?ここで見たいって言ったら、そのままたくし上げなの?なにこれ?なんてエロゲ!?

 血液が音を立てて、顔に昇ってくる。

「それとも、スカートはそのままでパンツだけ足に引っかかってる方がいい?」

それはそれでエロい!香織ちゃん天才!

 じゃねーよ。

「か、香織。だ、だめだよ。そういうのはいけないよ」

「イケナイことほど興奮するって言うわ」

「そ、その通りだけど!なんか、色々順番をすっ飛ばしすぎだよ!」

「……」

すとん。

 香織がカーペットの上に正座する。鳶色の瞳が距離十五センチ。

「じゃあ、キスしたい?」

うわぁっ!

 桜色の唇も距離十五センチだった!

「ちょ、ちょっと待って!こ、心の準備と言うか。うん……と、な、なんかおかしい!」

「順番ってABCだと理解しているわ」

「し、C!」

つーか、Bだってぼくの色んな許容範囲を超えている。

 だめだ。脳みそがパニックだ。文字で読んでいるだけだと分からないかも知れないが、香織だぞ。香織の顔とか瞳とか足とか肌とか、距離十五センチで見ながら、言われてみろ。誰だってパニックになるぞ。というかパニックにならないヤツは、反対方向でどうかしてる。

 まてまてまてまて。

 映画だ。人生に必要なことは全部映画が教えてくれているはずだ。映画を思い出せ。

「わかった。香織!」

「できれば、あんまり痛いのは勘弁して欲しいわ」

ふぎゃーっ。

 理性!どこだ。ぼくの理性!どこ行った?

「そうじゃない!ニューシネマパラダイスだ」

「それ、どんなプレイなの?」

「ニューシネマパラダイスは、プレイじゃないよ。トルナトーレ監督に謝れ!」

「トルナトーレ監督ごめんなさい。でも今、マレーナの気分なの」

知ってんじゃないか!マレーナなんて、ニューシネマパラダイスの半分くらいしか見てる人いないと思うぞ。映画研究会としてはグッジョブだけど、できればニューシネマパラダイスのほうでやって欲しかった。

「そうじゃないよ。言っておくけど、題名のない子守唄とか言い出したら泣くからな!」

「あれはニューシネマパラダイスを見て、同じ監督の映画だと思ってデートで観たクソリア充どもに、ざまぁ見やがれと思える素敵な映画よね。タイトルもいいトラップぶりだわ」

「まぁね。あれは騙されるよね」

「くっくっく。どうだリア充。これが現実だって感じよね。ファッキンスイーツどもが嫌そうな顔しているのが、ディ・モールトに爽快な映画だったわ」

イタリア映画だけにね…。香織の映画への理解と性根の歪みっぷりはガチだ。

「いや。だから、そうじゃなくて!もっと、ほら、香織は…その…」

自分でなにを言おうとしていたか気づいて、さっきより血が顔に上る。

 うわー。なんで、なんで、こんな展開になってんの?

 ぼくの人生に脚本があるとしたら、展開が急すぎて流れ悪いよ。もっとちゃんとプロットを緻密に積み上げて、大切なシーンにつなげようよ。素人かよ!

 言えない……。

「パンツ見たい?」

「今は見たくない!その……いつかでいいよ……」

可能性を残すあたりがゲスである。

「後払い?」

「支払いじゃなくて!」

「わかったわ」

香織が、少し距離を空けてくれる。ようやく、いつもの距離に戻る。ぼくの心臓はまだばっくんばっくん耳の奥に低音を鳴らしている。

 階下から、母さんが香織も食事をしていくのかと聞く声がする。

 それを聞いて、香織が立ち上がる。

「帰るわ」

「ん」

ぼくも立ち上がる。玄関まで送ろう。十メートルだけどね。

 香織が部屋のドアのところで、ぼくを押しとどめる。指先のかすかな圧力がワイシャツ越しに感じられる。

「送らなくていいわ。ご飯食べたらすぐ窓のところに来て……くださいね」

切りそろえたサラサラの髪を揺らしてうつむく。指先がまぶたの長さだけぼくの胸をすべって、離れる。

 部屋から、階段を降りていく香織の足音を聞く。規則正しい、確かな足音。

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