第8話 【四月十九日早朝~内藤省吾~】

「お兄ちゃん、おはよー。一緒に行こー」

朝食を食べていると、仁美ちゃんが玄関に現れた。屈託のない花のような笑みを携えている。

「ちょっと待って、トイレ行ってからね」

仁美ちゃんを玄関に待たせたまま、トイレに行く。今朝、二回目だ。お腹の調子が良くない。昨夜の寝不足のせいだ。一時間ほども上原家を眺めてしまった。なにもできないくせに。覗き魔と変わらない。

 便器に座って、腹をぐりぐりマッサージして調子を取り戻せないものかと頑張ってみる。

 あまり効果はなかった。

 しかたなく、そのまま家を出ることにする。

 まぁ、電車で二駅だ。そんなピンチなことにもなるまい。

「そーだよ!」

駅に向かう道すがら、仁美ちゃんが大発見という体で腕を振り上げる。

「なにが?」

ぼくは、半分寝ぼけて相槌。

「お兄ちゃんと同じ学校になったのに、なんで今まで一緒に行ってなかったんだろう。毎日、一緒に登下校するべきだよ!」

「そうだね」

「でしょー。でしょー。」

小柄な身体がひょこひょこ飛び跳ねる。まだ標準長さの膝下まであるスカートは安心だ。これが、しばらくすると妙に短くカスタマイズする連中も現れる。

 あと勝手な服を作って男子に着せる連中も現れる。

 都祭さんとか。

 夏実ちゃんが自分から喜んで着用している可能性も否定できない。似合うから、さらに怪しい。

「ところで、仁美ちゃん」

「はいっ。なんでしょーか。お兄ちゃん様!」

「香織は……休み?」

「あー。そーだ。それを言いにお兄ちゃんちに行ったんだった」

忘れるの早すぎだろう。道幅十メートル分しかないのに。これから心の中でニワトリと呼んでやろう。

「で、ニワトリさん。香織は休みなんだね」

早くも心の中が言葉になって出てしまった。

「こけこっこ。休みダヨー。こけっこー」

くそ。馬鹿にしたつもりが、かわいいぞ。ずるい。


◆◆◆◆


 学校に到着する。

 中等部とは玄関が違う。校門をくぐったところで仁美ちゃんと別れる。

「じゃーまたねー。おにーちゃんっ」

手をブンブンと振りながらスキップするように校庭を横切っていく仁美ちゃん。ロリコンさんが見たらたまらん状態だろう。

「内藤……うらやましすぎるぞ」

ほらな。

 振り返るとロリコンで名を馳せている神田和馬が、うらやま視線を俺にビーム照射していた。

「神田、こえーよ」

「貴様、うらやましすぎる!伝説の二人称を使われやがって!」

「伝説?」

「『お兄ちゃん』だ!この俺でもリアルに聞いたのは、初めてだ!リアルに『お兄ちゃん』という伝説二人称が使われるところを初めて聞いた!」

じりっ。

 ぼくの足元で砂が鳴く。気づかぬうちに一歩あとずさりしていた。神田から、なにか圧倒的な悪の波動が放出されている。

「しかも、なんだ!あの美少女は!ふくらみかけのおっぱい!丸顔!華奢な肩!腰つき!細くて長い脚!初々しい中等部の制服!ふくらみかけのおっぱい!あんな美少女に『お兄ちゃん!』ぐはぁっ!」

こいつにとって、大事なことだけはきっちり二回言っている。

「くっそぉ。貴様、妹もいないくせに、あんな美少女に『お兄ちゃん』だとぉ。ぎぎぎぎぎ」

食いしばった歯が見える。神田の犬歯がぺきりと音を立てて、小さく欠けた。

「俺なんて!俺なんて!リアル妹がいるのに!一度も伝説呼称を使ってもらったことがないんだぞぉ!」

知っている。こいつの妹は、お兄ちゃんなんて絶対に言わない。こいつの妹は兄を蛇蝎のごとく嫌っている。一度、神田があまりに不憫なので、妹さんに聞いた事がある。「なんで、そんなに兄貴が嫌いなんだ」と……そしたら「あいつ。わたしに五千円札差し出して、土下座しながら『お願いですから、お兄ちゃんって呼んで一緒にお風呂入ってください』って言ったから……」とゴキブリの話をするときと同じ表情で教えてくれた。そのとき、こいつはもう一生妹さんに口をきいてもらえないだろうと確信した。

 そして、ぼくもたぶんゴキブリを見るのと同じ目をしているだろう。

 唯一の違いは、目の前のこいつは丸めた新聞紙で叩き潰せないところだ。気持ち悪さは同じレベルなのに……。

「神田……」

「なんだ!」

「仁美ちゃんの半径十五メートル以内に近づいたり、隠し撮りしたりしたらウンコするぞ」

「なに?」

「お前の机の中とカバンの中にウンコすると言ったんだ。仁美ちゃんにちかづくんじゃねー」

「う……」

神田がたじろぐ。

 ぼくの本気が伝わっただろうか。

 神田の目をしっかり見て、もう一度本気を伝える。丁度、腹具合が悪くなってきて、腸がぎゅるぎゅる言い始めた。早くトイレに行きたい。

「仁美ちゃんに近づいたら」

言葉を切る。次の言葉が神田のロリコン脳にきっちり刻み込まれるように。

「お前のカバンに」

ぎゅるぎゅるる。腸が鳴る。あと余裕時間は二分といったところだろうか。早くこのロリコン野郎を片付けて、トイレに行かねば。

 下腹からの切迫した気合が、ぼくの脊髄神経を駆け上り、視神経を走る。瞳孔からウンコしたい精神波動を放出しながら、神田に迫る。

「うんこ」

「ひっ」

神田がぼくの精神波動に恐れの色を見せる。

「詰める!ダイレクトインジェクション!直糞!」

「……ッ!」

がくがくと頷く神田を見て、ぼくは背中を向ける。悠然と、しかし尻に力をこめながら校舎に歩く。校舎のトイレに突き進む。

 あと一分もたん。

 その朝、学校のトイレに入り、尻が便座に着地する一秒前から発射が始まった。

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