第9話 職場にて

【STUDIO BUZZ】

 そんな名前の美容室が俺の勤務先。

 何処でもそうだけど、来店されるお客は基本的にネットでも電話でもいいから予約して貰ってからの対応になる。


 勿論指名もあり、一番人気はオーナーだ。

今宿いまじゅく 涼平りょうへい』37歳、独身。

 身長は俺と同じ位、真っ黒の短めの髪で、顎髭を生やしていて、左耳にピアスをしている。


 涼平さんとは母親の繋がりで世話になった。

 随分と昔、涼平さんが新人だった頃、この辺りが地元ではなかった涼平さんは、自身が務めている店での検定試験に困り果てていた。


 ウイッグを使用してのカット検定には合格したものの、モデルを使っての検定に挑めないでいた。検定を受けるには、自身がモデルを連れてこなければいけなかったが、知り合いもいないし、技術の習得に全てを注いでいた涼平さんは、友達を作る暇もなかった。


 普段休みの時にも練習に明け暮れていた涼平さんは、ゼロからモデルを探す事になる。駅で女の人に話しかけ、傍から見ればナンパのように見られながらも連戦連敗。


 途方に暮れ、自宅近くにある公園のベンチで項垂れていると、公園前を疲れた顔をして歩いている女性を見かけた。


 地味な格好をしていて、髪も手入れをしている様子はなかったが、素材の良さに目を惹かれたと後で教えられた。


 最後のチャンスだと思い、声をかけた所、戸惑いながらも了承してくれたらしい。


 それが俺の亡くなった母親だった。


『だってさ、ただで髪切ってくれるんだよ?!断る理由がないよね?ウヒヒ。宗次郎の髪も切ってくれる約束しといたからね?』


 儲かったとでも言いたそうに、俺に話してくれた事を思い出す。


 ギャップだったのかもしれない。

 見た目に気を使っている暇などなく、俺を育てる事に必死だった母親は、涼平さんの会心の技術で、劇的に変わり、ホームページにアップすると、大きな反響があった。


 その後涼平さんは評価を上げ入店して10年を過ごした後、美容室を独立。

 今では全国の美容師が選ぶ、好きな美容師のランキングの上位にいることが当たり前の人になった。


 涼平さんとうちの母親は、ウマが合ったようで、その後も友人関係になり、良く家に来ては飲んでいた。

 指名もどんどん入り、ある程度の収入があるにも関わらず、金の無い我が家に来ては、母親の貧乏料理を味わい、楽しそうにしていた。

 因みに、家に来る時は、必ず食材と酒を持って来ていたから、家計の負担にはならなかったし、寧ろプラスになっていた。


 寂しい中、初めて出来た友達だったから、大事に付き合っていたらしい。付き合うとはいっても、男女の仲ではなく、本当に友人関係。


 疑う余地はない。

 何故ならば…


『おぉ、会う度に男前になっていくなぁ。将来は俺の店で働くか?』

『おい、涼平。いくらお前でも、息子に手を出したらちょん切るからな?』

『大丈夫だ。俺はウケだからな。』

『そうじゃないだろ!じゃあ火箸をケツに突っ込んでやる!』

『手は出しません!』


 そういう事だ。


 て言うか、俺がこのオッサンでは勃たねぇよ。


 奇妙な関係だ。

 母親の友達。俺の師匠。知り合いのオッサン。

 兄のような、親のような、俺が唯一身内だと思える相手。


 当然結婚の報告もした。

 その時は喜んでくれたが、半年で離婚届を出す事態になってしまった事が、言い難い。


「りょ…オーナー。」


 店の中では、涼平さんとは呼べない。

 私的なことだから、思わず名前を呼びそうになったけど。


 そんな俺を見て、涼平さんは苦笑いをする。


「お前が間違えそうになるなんて、何かあったか?」

「離婚する事になったから、証人を頼もうと思って。」


 離婚届には、二人の証人を記入押印する欄がある。


「は?えぇ?…早いな。どうしたんだ?」

「まぁ、夫婦の色々だよ。」

「それにしたって…どうにかならないのか?」

「う〜ん、難しいと思うよ?」


 眉を寄せて難しい顔をしている涼平さんに、離婚届を渡し、俺は店に出た。


 俺はオーナーの次に指名が多い。

 予約は埋まっているし、割と忙しいのだ。


 準備を整え、本日の予約状況を確認すると、午前中はギッチリと埋まっていた。

 午後は二時位から五時までは暇で、その後閉店までまた予約済みと。


「おはよう、宗次郎。」


 予約してくれている客のカルテを確認していると、話しかけられた。


 俺と同時に入社した二人のうち、辞めなかった方だ。


笹山ささやま 千花夏ちかげ


 アッシュ系の色を入れた髪は、ふわりとしたパーマをかけていて、仕事の邪魔にならないように、両サイドを後ろで留めて流している。

 ハーフのような顔をしている千花夏は色白で、ソバカスを隠すために化粧が上手くなったと笑っていた事があった。


「おはよう。どうした?」


 明らかに何かを言いたそうな表情をしている千花夏は、俺がカルテを確認していると分かると、何も言わずに傍に立っている。


「……ん?どうしたんだよ。」


 いつまで経っても何も言わずに突っ立っている千花夏が気になり、話を促す。


「どうしたって言うか…宗次郎、奥さんと上手くいってないの?」


 何故そんな事を聞くのか分からず、カルテから目を離し、千花夏を見た。


「あのさ、待合室に奥さんいるよ?」

「………は?」

「いや、だからさ、奥さん来てるって。何かね、夫の職場に挨拶に来たって雰囲気ではなさそうなんだけど?」

「え?ちょ…どうなってんだ?」


 こめかみを抑えそう呟くと、千花夏がため息をついた。


「行ってきなよ。喧嘩したなら謝ってきなさい。新婚早々離婚になっちゃうよ?」

「いや、まぁ離婚するんだけどな?」

「ええ?なんで?浮気でもした?」


 驚いている千花夏に、今度は俺がため息を吐き出した。


「色々な…ちょっと行ってくるわ。」


 話を聞きたそうにしている千花夏を置いて、俺は待合室に向かった。


 店内が見える待合室は、既に何人か客がいて、俺を見ると笑いかけてくる人もいる。

 そんな中、俯いている地味子がいた。


 俺の嫁だ。


「ミイコ、どうした?」


 話しかけると、驚いたように肩を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、今迄のミイコではなかった。頬を染め、目は潤み、真面に視線を合わすことすら恥じらっているような雰囲気。

 正直、欲情した。


 千花夏が言っていたのとは随分と違うが、どうなっているのやら。


「ねぇソウくん、話…出来ないかな?」


 とは言われても、仕事中だ。


「仕事終わってからでいいかな?後で連絡するから。」

「じゃ、じゃあ!私もカットして貰おうかな?」


 恥ずかしそうに言うけど、待合室の女性達はクスクスと笑いだした。

 そんな中の一人が、ミイコに話しかけた。


「志摩さんは売れっ子だから、予約しないといきなりは無理だと思いますよ〜?」


 そう言われて、ミイコは驚いている。


「え?そ、そうなの?」

「まぁ、そうなんだけど。」


 と、待合室に予約して来ている女性達に聞こえるように言ったあと、彼女達に聞かれないように耳元で囁いた。


「2時からなら大丈夫だよ。その頃またおいで?」


 ミイコは俺の吐息が耳にかかると、身体を震わせて小さく頷いた。



 午前中の予約をこなしていると、待合室にいるミイコが視線の端に写る。

 後でおいでと言ったのに、帰る様子を見せず、ずっと俺の姿を視線で追いかけていた。



 店販というものがある。

 店で売る商品で、毎月強化している物が違い、当たり前にシャンプーであったり、トリートメントであったりするのだが、今月は少し違う。


 何を思ったのか、オーナーの奴はハンドクリームを強化商品にしやがった。

 こんな物、髪を切りに来ている客には売りづらい。


 苦肉の策で、トリートメントの最中等で手が空いた時に、客の隣に座って話しながら、クリームを塗ってあげてハンドマッサージをする事にした。


「あっ…んん」


 女性達には概ね好評で、顔を赤くし息も荒くしながらも、気持ち良さそうに声を上げている。

 ヌルヌルとした感触で、普段人に触られない指と指の間、水かき部分を優しく揉みしだきながら、俺は女性達に優しく話しかける。


 保湿が〜、艶が〜、年齢は手に出る〜、美しい手ですね〜等々。


「是非いかがでしょう?」

「んんっ…も、貰います。」


 そんなこんなで店販も捌いていると、ミイコがそれを凝視してくる。

 半笑いでハァハァ言っているような気もするが大丈夫か?


 控え室に一旦戻ると、オーナーと千花夏がニヤニヤしながら、声を揃えて言った。


「「エロい!!」」

「はぁ?何言ってんだよ。」

「流石俺の見込んだ男だ。やると思ってた!」

「ズルいよねぇ〜、もうやり方が汚いよ。」


 心外だ。

 売れと言ったのはあんただろ?

 千花夏だって、汚いとかいいながらなんで嬉しそうなんだよ。


 まぁ、自覚はしてるんだけどな。


「うるせぇ。」


 そう言って俺は喫煙室に入った。



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