第45話 change the destiny⑩

【七月三十日 月曜日】


 ついに“あの日”を、この学校の終業式がある、一度目の夏に彼女が死んでしまったあの日を明日に控えた今日、俺は屋上へと続く階段を上っていた。


 時刻は昼休み、いつもなら彼女、九条凪と演技の練習をするためにこの階段を上っていたのだろう。


 しかし、今日は違っていた。

 

 花火大会の日に、彼女が母親と話をするまでは、昼の演技の練習は一時中止にしようと決めていたのだ。


 だから、今、屋上へと続く階段を上っているのは、彼女と演技の練習をするためではなかった。


 なら、何故、誰もいるはずのない屋上に向かっているのか。


 答えは一つである。


 彼女に、会いたいから。

 

 彼女と、凪先輩と話がしたいから、屋上に向かっていた。


 何を言っているのか、今一つ自分でも分からないところがあるけれど、つまりはこうだ。


 凪先輩と屋上で会う約束はしてはいない。

 

 けれど、今日、俺には凪先輩に伝えておかなければならないことがあった。

 

 だから、屋上を目指していたのだ。

 

 凪先輩はどこにいるんだろうとそう考えた時、何故か彼女がいるはずの三年生の教室よりも先に、屋上の情景が、彼女が屋上でたそがれる姿が頭の中に浮かび上がった。


 “繋がり”というか、“縁”というか、言葉では言い表せない、直感的な何かを感じ取ったのだろう。


 だから、彼女がいる可能性が高い三年生の教室を訪れるよりも先に、この、俺たちのホームグラウンドである屋上を目指したのだ。


 不思議と自信はあった。


 彼女は絶対に屋上にいると、そう、根拠のない予測が頭の中を占めていた。


 だから、一寸の迷いもなく屋上へと続く階段を上れたのだろう。


 軽やかな足取りで、屋上のドアの前まで足を進めた。


 ドアノブを握ると、自信は確信へと変わる。


 あぁ、彼女は、この扉の先にいるんだと、そう思いながら勢いよくドアを開けた。










「………………誰も……いない……」










 見渡す限り人っ子一人の気配も感じられない屋上で、一人、そうポツリと呟いた。


 物陰に隠れたりしていないかを一応確認してみるも、彼女の姿は見当たらず、無言で屋上から室内へと戻り、八つ当たりするかのように勢いよくドアを閉めた。




 ……………………………………。




 もぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!


 なんでいないんだよぉぉぉぉぉぉ!


 あれほど、あれほど自身満々に言い切ったのに!


 言葉を交わさなくても、彼女のことは理解している感出してたのに!


 不思議な縁で繋がってる感演出してたのに!


 誰も、人っ子と一人、屋上にいねぇじゃねぇかよ!


 いい加減にしろ!


 


 心の中でそう叫びながら、先程までの自分の厨二感というか、そういった恥ずかしいノリに耐えきることができずに身悶えた。


 何が縁だ、何が繋がりだ、単なる思い付きにそれらしい理由をつけただけじゃなねぇか。


 直感になんて頼るもんじゃない。


 教訓を胸に刻み、急いで彼女の教室に向かおうと階段を下ったその数歩先。




「あれ? 隼人君?」




 凪先輩が、俺が探していたはずの彼女が、階段の踊り場からこちらを見ていた。




「どうしたの? 今日、会う約束してないよね?」




 驚いたような素振りを見せながら、階段を駆け上って俺の元に近づいてくる彼女。


 彼女のその問いに、「凪先輩に会いに来ました」と素直に言ってしまうのも何だか気が引けて、恥ずかしくて、伏し目がちに適当な言い訳を呟いた。




「いや……まぁ……昼寝でもしようかなって」




 俺がそう言うと、彼女は怪訝な表情でこちらを見つめた後、あごに手を当てながら少しだけ考えて、「あっ」と何かを閃いたような声を上げながら俺に聞き返した。




「もしかして……心配して来てくれた?」


「…………まぁ、そんなところです」




 彼女の言葉を否定できずに、遠慮がちに頷いた。


 彼女の言っていることは正しい。


 花火大会、そして俺が彼女の母親に会った先週から、母娘の関係はどうなったのか、問題に進展はあったのかが気になって、情報を、彼女から探りだしたかったのだ。


 もちろん、目的はもう一つあって、どちらかと言えばそちらのほうが理由としての比重は重かったのだけれど、今、それをわざわざ彼女に言う必要もなかったので黙っておいた。




「そっか……ありがとね」




 優しい目でそう言う彼女に対して、ふるふると首を横に振った。


 すると彼女は、ふふ、と軽く笑顔を見せた後、「行こ」と言って屋上のドアを開いた。


 屋上に進んでいく彼女の後姿は、心なしか寂しそうというか、元気がないように見えた。




「夏だね~」




 燦燦と降り注ぐ太陽の光を浴びて、眩しそうに彼女が呟いた。


 季節は夏真っ盛り。


 屋上は地獄の業火のような日差しに照らされ、とても演技の練習ができる状態ではなかった。


 彼女の都合、彼女の問題がどう進展しようとも、当分の間は昼休みの屋上演技練習は中止になりそうだ。


 夏休みにも入るし。




 ガチャガチャ、と鉄でできたフェンスを掴みながら外の様子を窺う彼女。


 グラウンドでサッカーをしている男子の集団を見て、「うぇ~、暑いのによくやるなぁ~」

 と舌を出しながら震えあがっている。




「お母さんと話せました?」


「あ……うん……えっと……」




 そんな彼女に、いきなり直球的な質問を投げかけた。


 予想外の俺の問いに彼女も驚いたようで、珍しく、本気で慌てるような素振りを見せている。




「実は……まだなんだよね……」


「そうですか……」




 弱々しく、申し訳なさそうに言う彼女。


 そんな彼女に対し、俺は無機質な表情を浮かべ、感情の籠っていない返答を返した。


 別に、怒っているからそのような態度を取ったわけではない。


 ただ、何というか、彼女が悩んでいることの結末を、行く末を知っている分、どんな表情をして彼女を見ればいいのか分からなくなっただけなのだ。




「ごめんね……ちゃんと向き合うって約束したのに……」


「謝らないでください。言い出すタイミングとかは……凪先輩が決めることですから」


「そうだけど……」




 けれど、彼女にはそう見えたようで、煮え切らない態度に俺が怒りを露わにしているように見えたようで、しゅんと肩を落として頭を下げた。


 それに俺も恐縮して、慌てて彼女を慰めた。


 けれど、それでも彼女は納得してないようで、表情は依然として暗いまま。


 自分の不甲斐なさに対する怒りと、失敗したらどうしようという不安が彼女の中で入り混じっているように見えた。




「やっぱり、まだ不安ですか?」


「……うん……覚悟は決めたはずなんだけどね、言い出すきっかけって言うか……勇気が出なくて……」




 俺がそう問いかけると、彼女は少しの間を空けて頷いた。


 自分の弱さを認めるのは、とても、とても難しいことなのだろう。


 ましてやそれを他人に見せる、さらけ出してしまうことの精神的な疲弊と損傷は計り知れない。


 けれど、それでも彼女は自分の弱さを認め、俺に伝えた。


 そして……




「ごめんね……情けない先輩で……」


「凪先輩……」




 また、申し訳なさそうに謝った。


 後輩との約束を守れていない自分を、夢と向き合えていない自分を、覚悟も、度胸もない自分を、卑下するように頭を下げた。


 そんな彼女を見て、胸が痛んだ。


 彼女と同じように、彼女に内緒で全てを把握しているくせに何もしてあげられない、しようとしない自分の卑怯さに腹が立った。


 俺は全てを知っている。


 彼女の悩みが杞憂に過ぎないということも、彼女の夢が、理想が母親によって断たれはしないということも、全てはお互いの勘違いによるものだということも、全部、全部知っている。


 自分でそう動いて、そう決断して、彼女に内緒で真実を知ろうとした。


 そして、求めた答えを手に入れた。


 だから、こうして心に余裕を持っていられるし、彼女の行く末に、彼女の演技に関する未来に何の不安も抱いていなかった。


 けれど、彼女は違う。


 彼女は知らないのだ。


 彼女の母親が、演技を嫌ってなどいないというのを。


 彼女は知らないのだ。


 彼女の母親が、ずっと彼女を想っていたのを。


 彼女は知らないのだ。


 彼女の母親が、彼女と同じように父の演じる姿を愛していたのを。


 だから、不安を感じる。


 だから、自信が持てない。


 だから、未来に希望を見いだせない。


 俺が数日前に役所を訪れた時に体感した焦りと不安を、彼女もまた、同じように感じていたのだろう。


 自分が演技を愛する気持ちを知れば、母はどんな気持ちになるのだろうか、どんな顔をするのだろうか。


 結末を知っている者からすれば、そんなに悩む必要はないと、そう思われてしまっても仕方ないのかもしれないけれど、結末を知らない者からすれば、それはとてつもなく大きな問題で、それは今まで積み上げてきたものの全てを壊してしまうかもしれない要因で。


 彼女が不安を感じてしまうのも、臆してしまうのも当たり前のことで、彼女が謝る必要なんてどこにもなかった。


 正直、そんな彼女の姿を見てしまうと、俺の知っている全てをこの場でぶちまけてしまいたい気持ちになった。


 けれどそれは、それだけは、できないし、するべきべきではなかった。


 どれだけお膳立てをしようとも、彼女が一人だけで立ち向かう問題ではないと手を差し出してたとしても、やっぱり、最後の最後は彼女自身が乗り越えるべきで、そう俺と約束して、彼女が決めたことで。


 今、真実を語ってしまうのは、彼女の決意を踏みにじる行為に等しく、彼女という一人の人間を見くびる行為に等しかった。




 これは、彼女にとって本当に大切なことだろう。


 夢を叶えるために、自力でその道を切り開く。


 それは、その最後の言葉は、誰からの干渉も受けず、彼女の口から、心から吐き出さなければならない。


 だから、俺には真実を伝えることはできなかった。


 最後の最後には、彼女自身の力で、この困難を乗り越えてほしかったからだ。




 じゃあ、今、自分にできることは何だろう。


 目の前の、困っている彼女にしてあげられることは何だろう。


 俺が今、彼女にかけてあげるべき言葉は……


 






「凪先輩!」


「は、はい!」


「夏休み、海に行きましょう!」


「………………はい?」




 俺がそう言うと、少しの沈黙を挟んだ後、彼女は低めの声でそう聞き返してきた。


 突然、今まで話していた事とは全く関係のない話題を持ち出した俺を見て驚いたのだろう。


「何を言っているんだろうこの人……」みたいな困ったような、呆れたような表情を浮かべている。


 彼女がそうなってしまうのも無理はない。


 なぜなら、そう言い出した俺自身ですら、会話の流れ的に頭がおかしいと、今海に行こうと誘うのはさすがにキツイものがあると、そう思っていたからだ。


 どっから海出てきたんだよ、マジで……


 


「先輩と、俺と……あっ! 先輩の友達誘ってもいいですね! ついでに俺の友達の西野ってヤツも荷物持ちとして呼んで……受験勉強で忙しいかもしれないけど、息抜きにどうですか?」


「きゅ、急にどうしたの?」


「映画も……カラオケもいいですね。演技では勝てないかもしれないけど、カラオケだったら俺も負けませんよ! あ、もちろん凪先輩が演技の練習したいって言うならそっちでもいいですけど」


「は、隼人君?」




 我ながらおかしなことを言っているなと、そう理解していた。


 慌てる彼女を見て、もう、彼女を困らせるようなことはするなとも思った。


 でも、それでも、言葉を止めなかった。


 すぅっと息を吸い込んで、頭の中に湧いてくる言葉を吐き出す準備をする。




「困ったり、落ち込んだりしたら、ぱあっと遊んで忘れちゃえばいいんですよ。ほんで、生きる活力を貯めて、また明日から頑張る。いのちだいじに作戦です」




 能天気に、柔らかい笑みを浮かべて彼女に言った。




「もし、先輩がお母さんを説得するのに失敗したとしても、その時はその時ですよ。落ち込んだ時は、面白くないかもしれないけど俺が先輩を笑顔にできるように頑張りますし、困った時は、頼りないかもしれないけど助けます。それで元気が出たら、また二人でどうするか考えましょう」




 失敗してもいいんだと、失敗の先にも道は続いているんだと、彼女に伝えたかった。


 逃げても、困っても、たとえ死にたくなったとしても、隣には俺が、夏目隼人がいるというのを知ってもらいたかった。


 何があっても、どんなことが起ころうとも、寄り添い、手を差し伸べるから、だから、彼女には恐れず、堂々と前を向いてほしかった。




「う、うん……でも、私にできるかな?」


「できますよ、先輩なら」


「そ、そうかな?」


「はい。というか、先輩があきらめても、俺があきらめませんから。説得が成功するまで何でもしますよ」


「何でも?」


「はい、何でもです。例えば……」




 絶対に彼女を見捨てないと、その想いを彼女に伝えたくて、得意気にそんな言葉を吐いた。


 俺にできることは、何でも。


 その言葉に嘘はなかったと思う。


 自分の身が千切れても、自分が不幸になろうとも、彼女が幸せになってくれるというのなら、何でも、どんなことでもやってやろうと、そう思っていた。


 たとえ…………



「たとえ、先輩が死んでしまったとしても、俺が何度も蘇らせて、説得が成功するまで、ちゃんと自分の気持ちに素直に生きれるようになるまで、支えます。絶対に逃がしません」




 それは、彼女に言った言葉であり、自分に言い聞かせた言葉でもあった。


 我ながら、よくぞここまで頑張ったと思う。


 自分一人だけが不可解な時間遡行現象に、過去の世界に連れ戻された恐怖にも負けずに、彼女を失うかもしれない未来が訪れる不安にも負けずに、よく、ここまで頑張ってきたと。


 だから、もう後には引けない、もうあきらめるわけにはいかない。


 彼女の命を救い、彼女の夢を救い、彼女が、そして自分が幸せになれる未来を掴むまでは、決して、それこそ何度蘇ってでもあきらめないと、そんな誓いを込めた言葉でもあった。




「えぇ……それはちょっとやだな……」




 割と真剣な表情でそんなことを言うと、彼女は苦笑いしながら俺の言葉を拒絶した。




「……なんで笑うんですか」


「いや、また訳の分からないこと言ってるなぁと思って」


「なっ!」


「君、生きるとか、死ぬとか好きだよね。ここではじめて会った時もそんなこと言ってたし」


「あ……いや……それは……と、とにかく! あんまり気負い過ぎないでくださいってことですよ! もし失敗したとしても、また一緒に打開策考えてあげますから。成功するまで、お母さんが呆れてあきらめてくれるまで、何度でも特攻しましょう。先輩の体が動く限り、俺も何度でも付き合ってあげますから」


「そんな何度も拒絶されたら私の精神が持たないよ…………あっ! この前言ってた「俺に考えがある」って、まさかそれのことじゃないよね?」


「……まぁ……だいたいこんな感じですね……」


「えぇ!?」




 本当は違うけれど、彼女に真実を伝えるわけにもいかず、適当に返答をはぐらかす。


 すると、彼女は信じられないといった表情で言葉を返してきた。




「そ、そんなの“考え”だなんて言わないよ!? 考えるどころか、どちらかと言えば考えること放棄しちゃってるよ!? 完全に脳死だよ!?」


「お、落ち着いてください! 大丈夫です、人間、根性があればなんだってできるはずですから……」


「根性論!?」


「はい……根性、見せましょう?」


「うぅ……正直、根性なさそうな隼人君に言われても説得力がないような……」


「…………うっ」


「え……あ……ごめん……落ち込まないで。隼人君が根性とか言うから、てっきり根性見せて言い返してくるのかなって思って……」


「凪先輩」


「な、何?」


「精神的に辛いので、今日は帰ってもいいですか?」


「この根性なし!」




 慌てて俺を慰めようとする彼女に、そんな軽口を返す。


 ぷりぷりと怒る彼女を、何も気にしてませんよと言わんばかりの態度でいなす。


 けれど、内心では“根性なし”と言われたのを結構気にしていた。


 やっぱり……俺ってそんな風に見えるのかな……


 頼りない男って思われたりしているのかな……


 やばい……メン〇ラになりそう……




「なんか、思いっきり叫んで笑ったら、色々吹っ切れたかも」




 ちょっとしたことで喧嘩して、くだらないことで大笑いしながら昼の時間を彼女と過ごした。


 それはとても無駄で、意味のない時間だったと思う。


 けれど、不思議と心は満たされて、高揚感を感じて。


 彼女は、憑き物が取れたような顔をしていた。




「明日、お母さんと話してみようと思う」


「そうですか……頑張ってください、応援してますから」


「うん、ありがとう」




 にっこりと笑う彼女に近づき、両手で彼女の肩を掴んだ。




「凪先輩」


「うん?」


「俺と、約束してくれませんか?」


「約束?」


「はい」


「なんの約束?」




 腑に落ちない表情をしている彼女の瞳を見つめる。


 そして、言った。




「明日の夜、何があったとしても自宅から出ないようにしてくれませんか?」


「……どうして?」


「すいません、詳しいわけは言えないんですけど……」




 諸悪の根源。


 全てを、彼女の夢も、俺のあがきも、今までの全てを無かったことにしてしまうかもしれない原因。


 絶望。


 その絶望を、彼女がこの世から消えてしまう“あの日”を阻止するために、拭うために今まで頑張ってきた。


 この約束を、この契りを失敗してしまえば、今までの苦労は全て水の泡だ。


 だから、彼女を失ってしまう恐怖や不安も相まって、言葉に余計力が入った。


 「明日、家から出たら死ぬかもしれない」だなんて言ってしまえば、冗談だと思われて、言葉の信憑性を失いかねない。


 だから、勢いで、この一ヶ月で築いた信頼関係だけで、約束を契るしか手段はなかった。



 

「家から出ないって、約束してくれませんか」




 ぐっと、彼女の肩を掴む両手に力が入る。


 頼むから、頼むから頷いてくれと、心の中で叫んだ。


 俺が彼女を見つめるように、彼女もまた俺の瞳を見つめていた。


 彼女の表情は先程までの緩んだものではなく、真剣なものへと変わっていた。


 そうして、そのまま少しの時間がたった後、彼女は肩を掴む俺の両手をそっと外し、何かを察しとった穏やかな表情で言った。



 

「……よくわからないけど、分かった。隼人君がそこまで言うなら、明日の夜は家から出ないよ」


「あ、ありがとうございます!」




 肩の力がガクリと抜けていく気がした。


 彼女のその返事を、その了承を聞いたことで、今まで背負っていた色々なものから解放されたからなのかもしれない。


 あっけなく解決し過ぎて、拍子抜けして、自分でも何だか良くわからない気持ちになった。




「その代わり……」




 唖然として、ポカンと口を開いたまま彼女を見ていると、彼女はもじもじとした様子で何かを言い出した。


 その代わり……その代わり?


 何だろう……一億用意しろとでも言うのだろか。


 思わず身構える。




「……その代わり、私とも約束してくれない?」


「約束……ですか?」


「う、うん……あのさ……もし……説得成功したらさ……」


「はい」


「………………」


「何ですか?」


「や、やっぱり何でもない!」


「えっ……言ってくださいよ」


「せ、説得成功した時に言うから!」


「……先輩がそう言うなら……別にいいですけど……」


「う、うん……ご、ごめんね!」




 顔を赤くしながら、やっぱりいいやと口を噤んだ彼女。




 ……ん?


 え……何だろう……と、豹変した彼女の態度も含めて違和感を覚えた。




 けれど、どうせくだらないことだろうと、明日、すなわち“あの日”に関わることではないだろうと思ってスルーする。


 まずは明日、彼女を失う未来を乗り越えなければならない。


 それ以外は、今は後回しでいい。




「じゃ、じゃあ明日、お母さんと話してみるから!」


「はい、頑張ってください。あんまり無理してもダメですからね?」


「う、うん、ありがとう、あはは」




 妙にぎこちなく、そそくさとこの場を立ち去ろうとする彼女に激励の言葉を掛けた。


 乾いた笑みを浮かべながら屋上を後にする彼女の背中を見る。


 思わず泣いてしまいそうになった。


 これで、これで全てが揃った。


 彼女の夢も、彼女の未来も、全てを守ることが出来る。


 それを思うと、涙を堪えるのが大変だった。




 何も、何も心配しなくていい。


 彼女の想いは伝わるし、彼女の夢は途絶えない。


 そうするために、そうなるために、俺は頑張ったし、彼女は頑張ってきたのだ。


 もう、報われていい。


 もう、幸せになっていい。


 それを拒もうとするものは、たとえ運命だとしても俺が許さない。


 彼女の幸せを阻もうとするものは、俺が何としてでも引き剥がす。


 だから、頑張れと。


 だから、迷わず前に進めと。


 熱を含んだ風の吹く屋上で、彼女見送った。

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