第44話 change the destiny⑨


「凪の……友達?」




 夜の風が、何かを包み込むかのように優しく俺達二人の間を吹き抜ける。


 街灯が、今、俺の目の前にいる大人の女性の姿をくっきりと照らす。


 慣れ浸しんだ、見慣れた顔の作りと少しだけ違う彼女の姿は、俺に緊張と混乱をもたらした。



「……はい」


「そうなの、いつも娘がお世話になってます」


「い、いえ……こちらこそ……」




 彼女の問いかけに返事をすると、彼女はそう言って頭を下げたので、恐縮して、彼女に連動するように俺も頭を下げた。




「それで、こんな時間にどうしたの?」




 挨拶が終わると、彼女は表情をキリっとした大人の物へと戻し、心配そうな声音で俺に聞いてきた。


 そうだった。


 彼女は、高校生である俺がこんな夜中にこんな場所で項垂れているのを心配して声を掛けてくれたのだった。




「えっと……実は、九条さんに話したいことがあって……」


「凪に? そうなの……でも、ならどうしてこんなところに……」




 怪訝そうな顔をして、彼女が聞き返す。


 確かにそうだろう。


 今のニュアンスでは、俺が彼女の娘、“九条凪”と話したいことがあったのだと、そう思われても仕方がない。


 そして、“九条凪”と話がしたいのであれば、どうしてその母親の職場を訪れ待ちぼうけていたのだろうと。


 もしかしたら、目の前にいるこの少年はとても厄介な思想の持ち主で、危険な奴なのではないのだろうかと。


 そう、彼女が思って不審がるのは当然と言っても過言ではない。


 けれど、違う。


 彼女は、決定的な勘違いをしていた。




「いや、話がしたいのは……」




 不思議なものを見るような目で見つめる彼女に、俺は言う。




「お母さんの方で……」


「私?」




 そう言うと、彼女は先にもましてその表情を曇らせ、右手の人差指で自らを指しながら首を傾げた。


 彼女の反応は至極全うなものだった。


 娘と同じ学校に通う面識のない男子生徒が、夜更けに自分の職場を訪ねてきて、突然“お母さんと話がしたい”と言ってきたのである。


 普通に考えたら、驚く、不思議に思う云々以前に、気持ち悪い。


 身構えたり、警戒したりするのは当たり前だ。


 場合によっては、逃げられてしまったり、人を呼ばれたりする可能性もあるかもしれない。




「……そう、何の話?」


「えっと……」




 しかし、俺の予想とは裏腹に、次の瞬間には、彼女はその曇った表情を飲み込み、凛とした面持ちで俺にそう聞き返してきた。


 あまりの切り替えの早さに舌を巻いた。


 これが、大人の余裕というヤツなのだろか。


 凪先輩と同じような顔をしているけれど、やっぱり中身は別物のようで、数々の経験と、年の功を重ねた精神の強さを目の前にいる彼女から感じた。


 伊達に女手一つで娘をあそこまで立派な人間に育て上げたわけではないらしい。


 肝が据わっていると、そう思った。


 そして、そう思うと同時に、俺は戸惑った。


 この場所で、何の前ぶりなく突然、あのことについて、凪先輩の未来について話し始めてもいいのか、今更迷ってしまったのだ。


 それに、何から話していいのかもまだ決まってないし、まとまってもいない。


 しどろもどろになりながら、内心では「どどどどうしよう」と思いながら頭を掻いた。


 このコミュ障ぷっり、伊達に長年陰キャをやっていないようだ。


 我ながら全く肝が据わっていないと、そう思った。




「……長くなる?」


「た、多分……」




 俺の様子がおかしいことに気が付いたのか、彼女がそっと助け舟を出してくれた。


 キョドっている俺を見て、人を傷つけられるような器の持ち主じゃないことを悟ったのだろう。


 彼女の瞳には、もう完全に警戒心など宿っておらず、俺に不憫さすら感じているように見えた。


 そして、俺がそう言葉を返すと、彼女は一度浅い溜息をついて言った。


 

「……じゃあ、場所を変えてもいいかしら? ここだと、人目につくから」


「は、はい!」




 彼女のその提案に、二つ返事で頷いた。


 すると、彼女は少しだけ頬を緩め、右手でついておいでと二回手招きし、くるりと踵を返して歩き出した。


 徐々に遠ざかっていく彼女の背中を慌てて追いかける。




 彼女の背中を追いかけながら、考えた。


 たしかに、こちらとしても腰を据えてじっくりと話したいと思っていたので、正直、彼女のその提案には助かった。


 けれど、彼女の温情に素直に甘えて良かったのかとも思っていた。


 目の前を歩く彼女と俺とでは、決して分かり合えない。


 俺が望む未来と、彼女の望む未来は違う。


 今から対立するような関係性であるのに、究極的に言えば“敵”である彼女の提案に、こうも簡単に賛同してしまっていいのだろうかと葛藤する。


 けれど、そう思っても、今の状況では何をすることも、何を言うことも出来ない。


 色々と納得できないまま、ただ、黙って彼女の後をついて行った。




 ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×




 役所から歩いて、数分。


 俺と彼女の母親は、駅から少し離れたところにある喫茶店を訪れていた。


 この場所には見覚えがある。


 というか、一度訪れたことがあった。


 以前、というか、一度目の夏。


 凪先輩と映画を見た後に、この喫茶店でお互いに感想を語り合ったのだ。


 木目調のテーブルを撫でながら、遠い記憶を懐かしむ。


 淡い光を照らすシーリングファン、本棚に立てかけられた古い匂いのする紙の本、所々に設置された観葉植物。


 それらを見ていると、不意に凪先輩の笑っている顔を思い出して、少しだけ緊張していた気分が和らいだ。


 たしか、一度目にこの場所を訪れた時も凪先輩に連れて来られたはず。


 二度目となる今回も、同じ九条家の人間にこの場所に連れて来られたため、デジャブのような、何とも言えない感慨深さを味わった。


 もしかしたら、この店は九条家の行きつけなのかもしれない。


 母娘二人でよく利用するのだろうか?




 勘ぐっていると、彼女、すなわち凪先輩の母親である静香さんが、メニューを俺に手渡しながら言った。




「あなたは何にする?」


「あ……それじゃあアイスコーヒーを……一つ……」


「了解」




 そう言うと、彼女は素早く手を挙げて店員さんを呼んだ。




「アイスコーヒーのブラック一つと……あなた、砂糖は?」


「あ……大丈夫です……」


「…………無理しなくてもいいのよ?」


「…………すいません、やっぱり砂糖ありでお願いします」




 ふふ、と笑いながら、彼女は店員さんに「それと加糖の物を一つ」と注文した。


 一連の会話を聞いて、女子大生のアルバイト風の店員も畏まりましたと言いながら伝票を持つ左手とは別の手を使って口回りを覆い、クスクスと、隠れるように笑っていた。


 見透かされたような、子供扱いされたような気がして、何だか恥ずかしくなって下を向いて俯いてみる。


 年下の男をからかうようなこの感じ、凪先輩にそっくりだと、そう思った。


 けれど、今、目の前にいる彼女は、凪先輩よりも数段格上。


 凪先輩なら、人をからかおうとしても詰めが甘く、ドジを踏んで、結局自分も痛い目に遭うというのが御愛嬌というか、多々あるというか、それが平常運転なところがあるのだが、その母親からは一切そんな隙が見られない。


 余裕と、落ち着きと、包容力。


 彼女はそれら全てを兼ね備えているようで、たとえ俺がからかわれることがあったとしても、俺が彼女をからかうようなことは決してないというのを直感で理解した。


 有無を言わさぬ圧倒的ラスボス感に、戦う前から敗北宣言。


 心の中にいる自分が、必死に白旗を掲げていた。




「どうかした?」




 先輩の母親と二人で喫茶店を訪れるという慣れない状況を前にそわそわしてしていた俺に対して、彼女が聞いた。


 あまりの挙動の不審さを不思議に思ったのだろう。


 彼女がそう思うくらいに、俺は緊張して、動揺を隠しきれずにいた。


 特別な気持ちを抱いている人の母親と話すのだけでも精神的に来るというのに、これから、その人物とお互いの理想をぶつけ合わなければならないというこの状況は、覚悟を決めて彼女を訪ねた身であっても荷が重く、緊張、そして動揺せずにはいられず、何だか試されているような感覚があった。




「い、いえ、何でもないです」


「そう? ……あなた、凪の同級生……ではないわよね?」


「あ、はい、後輩です。凪さんより一つ下の……二年です」


「やっぱり! 何だか凪より若々しいと思ってたのよね。まぁ、あの子が少し落ち着き過ぎてるってのもあるんだろうけど……」




 まるで難解なクイズに正解したかのように笑顔を浮かべてそう言う彼女。


 凪先輩とは違い、最初から俺が自分の娘よりも年下だと言うのを見抜いていたようで、彼女の洞察力の高さが窺えた。


 “子供のことは何でもお見通し”。


 これが世の母親というものだろう。


 母である彼女は、娘が子供らしくないというのを知っているご様子で、半分子供で、半分大人、それが彼女の中にある凪先輩のイメージであることを彼女の言葉から感じ取った。


 凪先輩の子供の部分は理解しているけれど、凪先輩の大人の部分は理解しているわけではなくて、だからこそ、二人の間にすれ違いが起こっているわけで……いやちょっと待て、つまり何だ、この人、俺が子供っぽいって言いたいのか?


 高校生ほど、自分を子供扱いされて面白くない人種はいない。


 むすっとしながら彼女を見ると、クエスチョンマークを浮かべるような様子で首を傾げていた。




 改めて、彼女の顔をしっかりと見つめると、分かる。


 彼女は、凪先輩の母親は、異常なまでに若々しかった。


 凪先輩と同じ、黒くて真っすぐな髪。


 透き通るような白い肌に、右目の下にある泣きぼくろ。


 凛とした雰囲気が、とても高校生の娘がいる母親とは思えなくて愕然とする。


 凪先輩の話から逆算すると、大学を卒業してから数年後、結婚と同時に凪先輩を生んだのだから、年齢はおそらく三十代後半から四十代前半くらいなのだろうけれど、今、目の前にいる彼女はとてもそうには見えず、二十代と言われても信じてしまう程に若さと美貌を保っていた。


 それに加えて、柔らかく、多くの人を包み込むような包容力と、優しい目。


 この親にして、この子ありを体現していて、この人に育てられたから、凪先輩はあんなに人の気持ちを想える人間になったんだろうと納得してしまった。


 俺の中での彼女の、凪先輩の母親のイメージはもっとこう、厳格で、きっちりした、気の強そうな女性だったのに。


 実際の、現実の彼女は全くの別物で、想像とかけ離れたその人物像に拍子抜けする。


 目の前にいるほんわかとした雰囲気の女性が、娘の進路を、夢を否定するような人間だとは到底思えなかった。




「それで、話って?」




 注文したアイスコーヒーが届き、それを一口含んだ後に、彼女が今日の本題について切り出した。




「はい、実は……」




 バクバクと鼓動が速まる心臓を抑えながら、小さく深呼吸をした。


 その一瞬に、また、色んなことを考えた。


 俺が関わるべきじゃない、失敗したらどうする、凪先輩も、凪先輩の母親も傷つける結末になるんじゃないのか。


 嫌な未来が、嫌な想像が、風船のように大きく膨らんだ。


 けれど、もう逃げることは出来なかった。

 

 言えば、立ち入れば、彼女の夢も未来も救える可能性はある。


 でも、言わなければその可能性はゼロだ。


 一度目の夏、一番大切なことから目を背けて、これは凪先輩の問題だと自分に言い聞かせて、無意識の内に逃げだした。


 “本当に大事な事からは逃げないで、それ以外の事からは逃げてしまう”


 そう、凪先輩と約束したはずなのに。


 結局、本当に大事なことから逃げて、彼女を失った。


 だから、今度は逃げるわけにはいかなかった。


 言えと、自分を鼓舞する。


 彼女を失うかもしれない原因を取り除けと、自分を叱咤する。


 もう、彼女を失うわけにはいかなかったのだ。


 だから、自分に言い聞かせた。

 

 立ち向かえと。


 逃げるなと。


 


 

「凪さんの進路について、話しておきたいことがあったんです」


「凪の進路?」




 覚悟を決めて、目の前にいる彼女に、凪先輩の母親にそう言った。


 すると、彼女は目を細めて怪訝な表情を浮かべた。


 自分の娘の進路について、赤の他人の俺が語りだしたのが心底不思議だったのだろう。


 確かにそうだろう。


 彼女が不思議に思うのは当然だ。





 


 俺が考えた、彼女が“あの日”消えてしまうことになった原因はこうだ。


 彼女と、彼女の母親の衝突。


 彼女の理想と、母親の理想の食い違い。


 説得の、失敗。


 それが、“あの日”、凪先輩が俺にあんなメッセージを送ること、彼女に迷いが生まれたこと、彼女が心あらずの状態で惨劇に巻き込まれることになった原因だと、そう考えていた。


 妄想かもしれない、妄言かもしれない。


 けれど、彼女が“あの日”、あんなメッセージを送ることになった原因はこれしか考えられず、彼女が“あの日”家を飛び出した理由、俺に会いに来ようとした訳を、そうするであろう可能性を、“あの日”が来る前に取り除いておきたかったのだ。


 それに、一度目でも、今回でも。


 それが、母娘の理想の対立が彼女の明るい未来を遮るというのであれば、逃げずに、目を背けずに、俺自身もしっかりと向き合うべきだった。


 一度目の夏に彼女が失敗したのなら、今度は俺が戦うべきだと、そう思ったのだ。


 


「はい……お母さ……九条さんは、凪さんがどのような進路を考えているのかご存じですか?」


「えっと……大学に行きたいとは聞いていたけれど、何を学びたいとか……詳しいことは分からないわね。本人も何も言わないし」


「そうですか……」




 お母さんと呼び掛けて、自分がそう呼ぶのはおかしいことに気づき、慌てて苗字に呼び直しながらそう言った。


 すると、彼女はそう答えた。


 予想通りの回答が返ってきた。


 花火大会の日に母親と向き合うことを約束してから数日が経った今日、どうやら凪先輩はまだ、その話を母親にしていないようだった。


 間に合って良かったと、そう思った。


 凪先輩が打ち砕かれる前に、俺が間に入れたことを幸運に思った。




「九条さんは……」




 この問題の根幹である部分に触れようとして、その言葉を言おうとして、飲み込んだ。


 躊躇ってしまったのだ。


 目の前にいる彼女の気持ちを考えて、それを聞いて、彼女がどう思うのかを考えて。


 凪先輩も気に掛けていた「お母さんはどう思うのだろうか」ということを。


 娘が、自分から全てを奪った“演技”に興味を持っているのを知ったら、どんな気持ちになるのだろうか。


 それを考えて、また迷ってしまったのだ。


 けれど、もう戻れない。


 彼女の気持ちも、自分の保身も、考えている余裕などもうなかった。


 ズキズキと痛む腹の中心を抑えて、凪先輩のことだけを考えろと、凪先輩のために悪役になれと、必死に自分に言い聞かせた。


 ふぅ、と深く息を吐く。


 背筋を伸ばす。


 そして、目の前にいる彼女の目をしっかりと見て、腹を括って、俺は言った。




「九条さんは、凪さんが演劇に興味を示しているのを知っていますか?」


「凪が……演劇?」




 俺がそう言うと、彼女は顔をしかめた。


 不信感というよりは、驚きの色を多く含んだ表情をしているように見えた。



「あの子が……言ってたの?」


「はい……」


「そう……」




 俺が肯定すると、彼女は腑に落ちないように弱々しくそう頷いて、テーブルの上に置いてあるアイスコーヒーを眺めた。




「あの……実は僕、凪さんからお父さんのことも聞いていて……」




 話の本筋に、問題の根本に踏み込むために俺がそう言うと、一瞬で、彼女の表情はより一層険しいものへと変わった。


 その言葉を、その一言を発しただけで、この場の空気が鋭く、重たいものになったような気がした。


 今、彼女が何を考えているかは分からないけれど、おそらく、心中穏やかではないはずだ。


 赤の他人に、高校生のガキに、自分の触れてほしくはない過去と、家族の未来に無断で踏み込まれるなんてたまったものではないだろう。


 彼女の気持ちを考えれば考える程、自分の醜さ、卑怯さが嫌になった。


 怒鳴られたって、罵倒されたって、殴られたって決して文句は言えないだろう。


 けれどそれは、俺にとって大事なことではなくて。


 目指すべき理想、目的を達成するために、大事じゃないことから逃げるのを決めて、約束して。


 だから、心が痛んでも、立ち向かわなければなくて。


 怯むなと、心の中で自分に言い聞かせた。



 

「凪さん、本当は演劇が好きで、演じるのが好きで、本格的にその道を学びたいみたいなんです。でも、凪さん、九条さんに気を遣ってるみたいで……」




 途切れ途切れになりながら、棘だらけの言葉を彼女に吐いた。


 これは、凪先輩を肯定すると同時に、今、目の前にいる彼女を否定する言葉でもあった。


 凪先輩の足枷になっているのはあなただ。

 

 凪先輩を阻んでいるのはあなただ。


 凪先輩の邪魔をしているのはあなただ。


 俺が今言っていることは、つまりはそういう意味の言葉達で、とても、これまで娘を大切に、必死に育ててきた母親に向かって放つような言葉ではなかった。

 

 彼女にだって思うところがあるから、娘の、凪先輩の進路を否定するのだろう。


 自分と同じ末路にたどり着いて欲しくはない。


 自分と同じ悲しい思いはさせたくない。


 そう思うから、凪先輩の幸せを願うから、演技を拒絶するのだろう。


 俺ごときが彼女に意見するなんて、とやかく言う権利がないことなんて、そんなの分かってる。


 たかだか一ヶ月、いや、二度体験しているから二か月。


 それでも、その程度の時間量しか凪先輩を知らない俺の願いが、十八年のも間凪先輩と暮らし、育ててきた彼女の想いの重さに敵わないことも、争う資格すらないことも知っている。


 


「他人の僕が意見するのはお門違いだし、おこがましいことだって分かってます。でも……でも」




 それでも、俺は、凪先輩のやりたいことを、凪先輩の想いを、凪先輩の夢を、叶えてあげたかった。


 この際、メッセージだ死の可能性だなんてことはもうどうでもよかった。


 “凪先輩の笑う顔が見たい、幸せな姿が見たい、だから、向き合う”


 俺の行動指針はたった一つだけだった。


 それを叶えるためなら何だってする。


 一度目の夏も、二度目の夏も、彼女が、凪先輩が演じる姿を見た。


 彼女は楽しそうに、幸せそうに誰かを演じるのだ。


 一人でも、どんな理由があっても、逃げない、ブレない、あきらめない。


 自分が好きなこと、やりたいことにひたむきに向き合う彼女。


 そんな彼女が、自分自身とは関係ない誰かのせいでその道をあきらめなければならないなんて、そんなの、あっていいわけない。


 これは自己満足かもしれない。


 傲慢なだけなのかもしれない。

 

 凪先輩だって、俺が母親にこんなことをしていると知ったらきっと怒ってしまうだろう。


 でも、それでも、俺は言いたかった、願わずにはいられなかった。

 

 凪先輩が笑っている未来、凪先輩が自分の好きなことに何の負目を感じず、全力で取り組むことができる未来。


 それが、俺は欲しかった。


 俺にとって、命よりも大切なことだった。


“本当に大事な事からは、逃げない”


 だから、俺は……




 逃げない。




「凪さんが演技の道に進むこと、どうか許してもらえないでしょうか」




 そう言って、深々と頭を下げて床のタイルを見つめた。


 今、目の前にいる、凪先輩の母親である彼女は一体どんな顔をしているのだろうか。


 怒っているのだろうか、それとも、呆れかえっているのだろうか、はたまた、心を痛めて泣きそうになっているのだろうか。


 どんな顔をしていても、俺がこれ以上言えることは何もなくて、ただ、彼女がこれから発するであろう言葉を受けとめることしかできなかった。


 何を言われたって、文句は言えない。


 俺はそれくらい彼女に失礼なことを言ったのだから、たとえ自分が同じことをされたとしても仕方がないだろう。


 甘んじて、彼女の言葉を受け入れるしかない。


 


 膝の上で両こぶしを握り、心臓をバクバクと鳴らしながら彼女の返答を待つ。


 けれど、待てど暮らせど彼女からは何の言葉も返ってこないので、おかしいなと思いながら、恐る恐る、ゆっくりと顔を上げてみる。


 彼女を見た。

 

 目を細め、右手を顎に当て、何かを考えるような、思い出すような素振りをしていた。


 な、何をしているんだ……と訝しむような視線を彼女に送ってみると、その視線に気がついたのか、慌てたように俺に聞いた。



 

「ちょ、ちょっと待って?」


「はい?」


「凪が私に気を遣うって、どういう意味かしら?」




 そう聞き返されて、俺も戸惑ってしまう。


 どういう意味って……それは、当事者であるあなたが一番分かっているんじゃ……


 もしかしたら、俺の言い方が曖昧過ぎて真意が伝わってなかったのかもしれない。


 そうだったのなら、それは由々しき事態だろう。


 勇気を出して、覚悟を決めて、心を痛めてひねり出した言葉が相手に届いていなかったなんて、これまでの苦労の全てが水の泡になる。


 もう一度、今度はもっと直接的な言葉で言おう。


 そう決めて、彼女に言葉を返した。


 


「お父さんのことがあったから、演技に興味を持つのは、お母さんに対する裏切りだって凪さんが……」


「そんなこと、思ってないわよ?」


「…………へ?」




 彼女のその返答に、体のどこから出したのかも分からない素っ頓狂な声を上げた。


 そんなこと……思ってない……?


 え…………え?




「いや……でも……お父さ……凪さんのお父さんがいなくなってから、九条さん、演劇に関する話はしなくなったって……」


「うーん? …………たしかにそうだったかもしれないけど……別に演技が嫌いになったからってわけじゃなくて、あの子に悪いかなって思って……あの人のこと、トラウマにでもなってたら思い出させてしまうでしょう?」


「い、いい大学に行って、いい就職先に勤めてほしいって言ってたのは?」


「……それもやりたいことがないならそうしなさいって意味で、別に絶対にそうでなければならないって意味で言ったわけじゃ……」


「………………つ、つまり、九条さんは凪さんが演技に興味を持ってることも知らなかったし、演技に興味を持つことを否定する気もないってことですか?」


「まぁ、そうなるわね」


「じゃ、じゃあ、凪さんが演技の道に進むのは?」


「それが本当にやりたいことならいいんじゃないかしら? あの子の人生だし、応援はするわよ」




 ……………………


 待て、待て待て待て。


 どういうことだ?


 彼女は、凪先輩が演技に興味を持つのを許さないんじゃなかったのか?


 少なくとも俺はそう思っていたし、凪先輩からもそう聞いていたはずだ。


 彼女は、凪先輩の母親は、父親が姿をくらましてから演技に関する話をしなくなった。


 それは、彼女が自分から全てを奪った演技を憎んでいたから、嫌いになったから。


 だから、凪先輩は母親に気を遣い、自分が演技に興味があるのをひた隠してきた。


 凪先輩の家族を想う気持ちは素晴らしい。


 けれど、それは間違っていると、誰かのために自分を犠牲にするのは正しくないと、立ち向かうのは大切だけど、立ち向かい過ぎるのは良くないと、だから、俺は逃げないことを、凪先輩は逃げることを、互いに決意し、約束した。


 けれど、蓋を開けてみれば、彼女の、対立するはずの凪先輩の母親の言い分はこうだ。


“父親に関係すること、演技に関することは凪のトラウマを呼び起こすかも知れないから黙っていた。”


“凪が本当にやりたいことなら、否定もしないし、応援もする”


 そう、言ったのだ。


 つまり、つまりは何だ。


 はじめから、二人は衝突していたわけではなく、すれ違っていただけなんじゃないのか。


 互いに違う理想を持っていたわけではなく、違うどころか全く同じ“相手のために”という想いを抱いていただけじゃないのか。


 凪先輩が母親を想うように、彼女もまた娘を想って、その想いがたまたま良くない方向に別れてしまっただけじゃないのか。


 お互いに気を遣い過ぎて、気を遣い過ぎるあまりに、心が繋がってなかっただけじゃないのか。


 無数に散らばっていた点が、一つの線となって頭の中で連結する。










 ……馬鹿だ。


 凪先輩も、目の前にいる彼女も、正真正銘の馬鹿だ。


 家族なら、そんな気を使わなくてもいいじゃないか。


 そうせざる負えないような出来事が二人の間に起こったことは知っている。


 そうならざる負えなかった全ての原因を俺は知っている。


 だから、二人の気持ちを理解できないわけではないけれど、それでも、二人のことを馬鹿だと思ってしまった。


 これじゃあ、娘を想う優しい母親に敵意を向けていた俺まで馬鹿みたいじゃ……




 

「す、すいませんでした! てっきり、九条さんは凪さんが演技に興味を持つこと反対してるとばかり……完全に俺の早とちりでした!」




 考えている途中で、今まで自分がしてきた失礼な物言いの全てを思い出し、非難される謂れもなく敵意を向けられた彼女に対し、自らの非礼を詫びた。




「あ、謝らないで。元々は私と凪のコミュニケーション不足が原因だし、それに、私も意図的に演技とか、あの人に関わる話とか、気を遣ってしないようにしてたから……」


 


 額がテーブルに擦り着くほどに頭を下げていると、彼女が顔を上げてくれと、自分にも非があったと、そう言ってくれた。


 けれど、それでも申し訳ない気持ちが収まらずに頭を下げ続けた。


「もういいから」という彼女の言葉に、やっとの思いで顔を上げ、彼女を見た。




「でも……そっか……あの子も、演技か」




 すると、彼女は少しだけ何かを考えた後にそう言って、感傷に浸るように窓の外に視線を向けた。


 憂いを含んだ表情。


 気にしていない、否定する気はないと言葉では、外面的にはそう言っていたとしても、本当は、心のどこかでは、手塩にかけて育てた娘が自分を裏切った人が愛したものに興味を持っていることが、何だか裏切られたみたいで寂しくなってしまったのではないのだろうかと、勝手に彼女の心中を勘ぐった。




「凪さんは……」




 結果論で言えば、今日、俺は余計なことしかしていない。


 彼女が、凪先輩の母親が、演技に興味を持つのを否定しないというのであれば、彼女の夢を否定しないというのであれば、俺がでしゃばらずとも、凪先輩が勇気を出して話し合えばそれで済むはずだった。


 それでは、今日ここに来た意味がない。


 だから、今、俺にしかできないことを、俺にしか言えないことを伝えておこうと、そう思った。


 凪先輩には悪いけれど、言おう。


 凪先輩の口からは出るはずがない、凪先輩の本音を。




「凪さんは、演じている時のお父さんが好きだと言っていました。でも、それと同じくらい、九条さ……お母さんも大事だって言っていました。だから、悩んでたんだと思います。」


「……そっか」




 そう言うと、彼女はこちらを向いて、優しい瞳で微笑みかけた。


 彼女がそれを聞いてどんな気持ちになったのかは分からないけれど、少なくとも、モヤモヤとした浮かない表情を取り除くことには成功したらしい。


 


「ふふ、やっぱり親子って似るものね。私も、昔は演劇部に所属してたのよ? だから、演技が好きだっていう所もそうだし……」




 遠い昔を懐かしむように、彼女が俺に語り掛ける。


 そうか、そういえば彼女と、彼女の元夫は同じ大学の演劇部で出会ったのだ。


 彼女自身も演技を愛していたし、思うところがあったのかもしれない。




「演じている時の、あの人が好きだったってことも」




 彼女が続けて呟いたその一言に、俺は驚いた。


 てっきり、彼女は元夫、凪先輩の父親を恨んでいると、そうだとばかり思っていたのに。


 でも、本当はそうじゃなくて。


 彼女の優しい声のトーンが、穏やかな、安らぎを感じる声のトーンが、彼女の中に残っている感情が、憎しみだけではないのだということを物語っていた。


 “好きだった”という曖昧なニュアンスの言葉に、どんな想いが込められているのかは俺には分からなかった。


 でも、その言葉には、俺の知らない色々な思い出が、様々な感情が詰め込まれていて、俺がどんなに頑張ったところで理解するのは難しかったのだろう。


 本当に、大人の考えることはよく分からない。







「夏目君……だっけ?」


「はい」


「今日はありがとね。おかげで助かっちゃった、凪の本心も知れたし」


「いえ……こちらこそ、突然お尋ねして、失礼な物言いをしてしまい申し訳ありませんでした……」




 少しの間を挟んだ後、彼女が俺の名前を呼び、そう言って頭を下げたので、こちらこそ失礼なことをしてすまなかったと、彼女のお礼に重ねて謝った。




「今日帰ったら、凪と話してみようと思うわ」


「あ……」


「ん?」




 彼女のその言葉に、俺が微妙な表情を浮かべると、それに連動するように彼女も怪訝な表情になった。



「あの……今日のことは、凪さんには内緒にしてもらえないでしょうか? 凪さん、近いうちに自分の口から九条さんに本心を伝えたいって言ってて、それに……」




 それに、凪先輩に内緒で母親のもとを訪れ、進路に関する話をしていたのがバレてしまうのも、俺的によろしくなかった。


 凪先輩はきっと怒るだろうし、自分で向き合うと決めた問題の解決に、他の誰かが関わっていたというのを知ったなら、万が一にでも傷つく可能性があったからだ。


 それが原因で、また母娘の関係に亀裂が入っても困る。


 ずるいと、卑怯だと自分でも思うけど、凪先輩を救うために、手段を選んではいられなかった。


 だから、母親である彼女には、俺が一枚噛んでいるのを黙ってもらい、凪先輩が自ら話し出すのを待ってもらいたかったのだが……




「そうなの! 分かったわ!」


「……すいません、よろしくお願いします」




 俺が頼む前に、彼女が何かを察したような表情でそう言ってくれたため、俺が言わんとしていることを分かってくれたのだと信頼して、無粋なことは言わずに、ただ、深々と頭を下げた。




「凪は、いい友達を持ったのね」


「いえ……そんなことは……」




 穏やかな、安心したような表情で俺を見ながら、彼女がそう言った。


 恐縮して、彼女の言葉を否定する。


 俺は、そんな褒められたような人間ではない。


 ただ、自分がやりたいように、自分が望む未来を、自分勝手に、周りを考えずに求めているだけだ。



 

「…………」


「…………」




 突如として訪れる、謎の沈黙。


 訝しむように、品定めをするように、目の前にいる彼女は無言で俺を見つめていた。


 何か気に食わないことでもあったのだろうか。


 折角褒めてやったのに、子供なら素直に喜んでおけとでも言いたいのだろうか。


 俺、何かしちゃったかな…………


 そう冷や汗をかきながら彼女の様子を窺っていると、彼女は依然として訝しむような表情のまま俺に聞いた。




「……夏目君は、本当に凪の友達?」


「そ、そうですけど……」




 彼女のその質問の意図が分からないまま、素直に頷いた。


 役所の前で、そう告げたはずだ。


 どうしてまた同じことを聞いてきたのだろうと、困りながら首をかしげる。


 彼女は「嘘だ」と言わんばかりに、腑に落ちないような表情で俺を見つめている。




「いや、普通、友達のためにここまでするかなって思って……もしかして、実は彼氏だったりして」


「ち、違います!」


「本当~?」




 彼女が唐突に放ったその言葉に、面を食らって慌てて否定する。


 おかしそうに、口元を緩めながらそう返す彼女。


 その目には俺の悪友である西野光汰と同じ、人をからかうようないたずら心が、凪先輩と同じ、おちょくるような感情が、文字通り目一杯詰まっているように見えた。




「あ! 彼氏ではないけど、凪のこと好きとか?」


「……っ」




 彼女が次いで放った一言に、俺は固まってしまう。


 すぐにでも否定すべきだったのに、何故かそうできずに、よりによって一番悟られたくない“親”に自分の気持ちの全てを見透かされてしまった。


 体を硬直させて、酢イカのように赤くなる俺を見て、彼女はプッと噴き出した。




「かわい~! 若いっていいわね!」


「………………」




 満面の笑みを浮かべ、少し興奮したように喜ぶ彼女。


 対照的に、恥ずかしくて、たまらず下を向いてしまう俺。


 二人の光景は、男子高校生が見たら必ず“地獄だ”と表現するに違いないほどに地獄だった。

 

 し、死にたい……


 そう思ってしまうくらいに、この状況は思春期真っ盛りの自分にはきつかった。




「頑張ってね! お母さん、応援してるから!」


「は、はい…………」




 嬉しそうにそう言う彼女。


 何となく、逆らえないような気がして一応頷いておいたけれど、心の中では「頼むから放っておいてくれ……」と、そう叫んでいたのは彼女には内緒である。




×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×


 


 会計を済ませて喫茶店を出ると、夜はすっかり深まっていて、空を見上げると、無数に散らばる星たちが煌びやかな光を放っていた。


 本当は、自分の分は自分で払おうと思っていたのだけれど、彼女、凪先輩の母親に「子供が大人に気を遣うものじゃない」と止められ、言い返すこともできず、結局彼女に奢ってもらってしまった。


 彼女にも大人としての矜持が、子供にお金を出させるなんてというプライドがあったのだろう。


 けれど、それでも、無理やり俺の戯言に付き合ってもらった手前、ご馳走になるのには抵抗があった。


 罪悪感が、胸の内に広がる。




「夏目君、気をつけて帰るのよ?」




 そう言う彼女に頷き返し、「今日はありがとうございました」と目一杯頭を下げた。


 「いいえ」と笑顔を浮かべ、踵を返して歩きだす彼女の後姿を見つめる。


 見えなくなるまで見送ると、ふぅ…と長く、大きな溜息が出て、全身に籠っていた力が抜けていった。


 何とか、なったな……と、心の中でそう思ったのだ。


 これで、凪先輩の夢を遮るものも、“あの日”、凪先輩が迷ってしまう理由も、凪先輩を死に至らしめるであろう多くの可能性も、大方取り除くことができたと安堵していた。


 はじめは不可能にすら思えた計画も、終わってみると意外とあっけないもので、俺が思い描いていた最悪のシナリオ、凪先輩の信頼を得られず、凪先輩の家庭のイザコザを解消できず、何もできずに“あの日”を迎えてしまうということだけは何とか回避できたようで、現実は、世界は、俺が思っていたよりも俺と凪先輩に優しかったみたいで、正直、拍子抜けしていた。


 そもそも、凪先輩も凪先輩だ。


 凪先輩の話だと、九条家の家庭環境はもっと凄惨で、根が深い問題だったはずなのに。


 実際はそうではなくて、たった一言を、“演技が好きだ”というその一言をお互いに言えなかっただけの、ちょっとしたすれ違いだったわけで……まったく、本当に紛らわしい女である。


 全てが丸く収まったのなら軽くボディブローでも決めてやろうかと、そう思うほどに、彼女と、彼女の母親の勘違いに、俺も、彼女自身も振り回されてしまった。


 まぁ、変に周りに気を遣ってしまうというのは、彼女の性格上仕方がないことなのかもしれないけれど、それでも、何だかこう、腑に落ちないというか……




 今までの苦労とそれに対する結末の落差が激しく、気持ちの整理がつかずに小声で愚痴を溢しながら歩いていると、不意に、何か可笑しなことがあったわけでもないのににやりと笑みがこぼれた。


 立ち止まり、右手で頬を撫でながら考える。


 どうして笑ってしまったのだろうと考えてみるも、はじめから答えは決まっていて。


 結局、ぐちぐち言いながらも、心の奥底では今回の事の顛末に関して“本当に良かった”と思っていたからなのだろう。


 だから、自然と笑みがこぼれてしまったのだろう。


 彼女の未来を遮るものなんて、はじめから存在しない。


 彼女の母親は、彼女が演技に興味を持つのを否定しない。


 その事実は、“あの日”を間近に控えた俺に、とてつもなく大きな希望を与えてくれた。


 彼女と、彼女の母親の衝突だと思っていたものが単なる勘違いによるものならば、二人が腹を割って話し合えば、そのすれ違いは解消することができるだろう。


 数日前の花火大会の日、俺と彼女はもう一度、彼女が母親と向き合うことを、自分の本心を隠さず伝えることを約束したのだから、母娘のすれ違いが解消されるのは時間の問題。


 母娘の問題が解決されれば、これから訪れるであろう“あの日”に、彼女が血迷うことも、心ここにあらずのまま事故に遭うこともなくなるはず。


 何だったら、明日にでも「七月三十一日は何があっても家から出ないください」と彼女に釘を刺してやってもいい。


 そうさえすれば、“あの日”に彼女が消えてなくなってしまうことも、俺が彼女を失うことも、あの悲しみを、苦しみを、虚無感を再度味わう可能性も全てなくなり、非業の最後を遂げる彼女の運命を変えることができるのだ。


 涙が出そうだった。


 彼女を、救える。


 それだけでも十分なのに、彼女の夢を叶え、彼女が笑える未来を作り、二人の約束さえも守れるという、俺が望むものを全て揃えるのに成功した、完璧とも言える結末を迎えられそうなのだ。


 幸せと言うよりも、むしろ出来過ぎて怖いくらいだった。


 一生分の運を使い果たしてしまったと言われても不思議じゃない。


 でも、まだだ。


 最後まで気を抜くなと、緩んだ心に意思の鎖を掛けた。


 “あの日”を、彼女と二人で無事に乗り越えるその時までは、神も仏も信じるなと自分に言い聞かせた。


 浮かれるな。


 最後の最後まで全てを疑って彼女を守れと、彼女に降りかかる災難の全てを振り払えと、彼女を救えるのは俺だけなんだと、何度も何度も暗示を掛けた。


 一度目の夏、彼女を失った時の恐怖を思い出した。


 もう、あんな思いは絶対にしたくない。


 だから立ち向かえと、最後の一瞬一秒まで彼女を救うための策を練れと、自分を追い込む。

 

 “逃げるな”、そう彼女と約束したのを、今一度、心に刻んだ。

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