第26話 答え⑤
暗闇と言うの名の海を進んでいく現代人の船は、想像よりも騒々しく、風を切る音とレールの軋む音が耳につく。
普段あまり電車に乗らないせいか、その音やその揺れが何だか新鮮で、落ち着かないような気分だ。
昼間に乗った時はそんな風には感じなかったのに、今そう感じてしまうのは、ひとえに話し相手の不在が関係しているのだろう。
行きの電車では彼女と話していたから、余計な事をあまり考えなかった。
けれど、今、彼女は俺とは話してくれない。
だから、色々なことを思い、考え、感じてしまうのかもしれない。
あの後、演技について、俺たちの今後についての話は発展しなかった。
理由は簡単。
日が落ち、辺りが暗くなりはじめたので、時間的に彼女を家に帰さなければなかったからだ。
正直、もう少し話していたかったというか、彼女が今後どうしていくのかを聞いておきたかった節もあったのだけれど、さすがに帰宅が深夜になってしまうのもまずいので、仕方なく、その続きを話し合うのをあきらめた。
まぁ、大事な部分は伝えられたから、後は帰りの電車で少しでも話せればと、そう思って駅に向かい、現在こうして二人仲良く電車に揺られているのだが……
「すぅ……すぅ……」
現在、彼女の意識はない。
電車に乗って、二人並んでロングシートの座席に座ったまでは良かった。
少しだけスマートフォンの画面を確認し、いざ本題へと移ろうとしたらこれである。
気が付いた時には、すでに彼女は夢の中。
俺の肩を枕にして、深い眠りの世界へと落ちていってしまったのである。
おそらく、彼女は泣き疲れていたのだろう。
涙を流した後は、無駄に疲れる。
俺も子供の頃に体験したことがあるから、その気持ちが、泣いた後に眠くなってしまう気持ちが分からないわけでもなかった。
しかし、それでもこのイベントは、純粋な男子高校生の俺には少々刺激か強すぎたのかもしれない。
彼女のこの行動に、特別な意図など存在しない、という事も頭の中でしっかりと理解していた……していたはず……していたつもりなのに。
“生暖かい……”
“何か……いい匂いがする……”
“あ、あかん……これ……何かいけない気持ちに……”
そんな煩悩が、理解を超えて本能として頭の中を駆け回っていた。
これ、ホントにまずいぞ?
彼女が俺に寄りかかってきてから、かれこれ十分は過ぎたと思う。
幸い、俺達が乗っている車両は乗客が疎らで、それほど周囲の目が気にならないというのが救いだったのだが、その羞恥心を差し引いても、俺の心と体の限界は近かった。
理性が、張り裂けそうだった。
こうなってしまえばもう、彼女には悪いが無理矢理にでもたたき起こすしか手段はないのかもしれない。
いや、もうそれしかない。
変態になり果てるより、彼女に我慢してもらう方が何倍もマシだ。
ええい! 一思いに起こしてしまえ!
そう決心し、彼女が寄りかかっている右肩の反対、空いている左手を使って、彼女に触れようとしたその瞬間だった。
突然、ガタリと電車が揺れたのだ。
その衝撃に驚いて、俺は慌てて手を引いた。
ふぅ、危ない危ない。
危うく彼女に余分な衝撃を与えてしまうところだった。
せっかく気持ちよさそうに寝ているのを、俺の個人的な事情で邪魔するのだ。
彼女の気分を害することがあってはならないだろう。
起こすなら自然に、ゆっくりと。
これが最低条件だ。
そう、自分を律して再度挑戦しようと思ったのも束の間。
ズルズルと、彼女の体がさらにこちら側に傾いた。
多分、先ほどの衝撃で、寄りかかっていたはずの肩の位置がずれてしまったのだろう。
肩の脇にあったはずの彼女の頭は、位置を移してちょうど俺の目の前、鼻先が当たってしまうくらいのところまで動いて停止した。
それで、おしまい。
思考はフリーズ。
体は硬直。
微かに感じていた彼女の香りを、より鮮明に感じてしまった。
その瞬間に、俺の知性は爆散した。
そこにいたのは、九条凪という少女と、一本の柱だった。
俺はただの置物だと、ひたすら自分に言い聞かせた。
それは、一種の自己防衛だったのかもしれない。
自らの社会的信用と理性を保つために、無意識の内に無機物へと昇華する。
何も考えないように。
何も思わないように。
俺は、柱だ。
彼女を支える、一本の柱だ。
そう、自分に暗示をかけ続けた。
そうしてしばらくの時が経ち、身も心も柱になりかけた頃、先ほどお同じように電車が揺れた。
その衝撃で目が覚めたのだろう。
彼女は体を起こし、目を擦りながら俺の顔を見た。
「ご、ごめん!」
二人の距離、髪の乱れ具合、俺の仏頂面から、自分が何をしたのかに気づいたのだろう。
彼女は頬を染めながら、大慌てで謝った。
しかし、謝罪は無用。
むしろ、俺が彼女に感謝したいくらいだった。
あと、もう少しでも彼女の目覚めが遅かったのなら、俺は完全に柱へと成り果てていただろう。
『そうして、少年は少女を支える柱となったのでした。めでたしめでたし』
どこかの国の昔話にありそうだけど、全然めでたくねぇ……子供のトラウマになるぞ、これ……
まぁ、とにかく助かった。
危うく、精神が消し炭になるところだった。
元凶は彼女であるけれど、奇しくも彼女に救われたという事実を無視するわけにもいかなかったので、一応、彼女にお礼を言っておく。
「先輩……ありがとうございました……」
「な、何が!?」
何故か、彼女は少し引いていた。
そのまま、電車の中でこれと言った会話もできないまま、俺達は地元の駅へと戻ってきた。
閑静に包まれた駅のホームに降り立ち、二人並んで改札を目指す。
隣を歩く、彼女の視線を感じた。
何故か、見られている。
その事実を、俺は理解していた。
けれど、俺は決してそちらに振り返ろうとはしなかった。
彼女の顔を見てしまうと、先ほどの情景と言うか幽香と言うか、柑橘系のシャンプーと彼女の体臭が混ざった甘い香りを思い出してしまいそうで恥ずかしかったからだ。
だから、俺はその視線に気づかないふりをして、眼前の景色だけを見て歩いた。
そうして、俺達は改札をくぐり、地元の駅前の広場に出た。
近くに設置されている大きめの時計を見ると、時刻はすでに八時を過ぎていて、街は完全に夜の世界に反転している。
これ以上彼女を連れ回してしまえば、彼女の家族を心配させてしまう。
それを避けるため、今日のところはこれくらいにしておこうと、彼女にこれからどうするかを聞くのをあきらめた。
続きは、来週の昼休みにでも話そう。
そう思って、この場で解散か、家の近くまで送っていくかを決めて貰おうと、彼女の方に振り返る。
「夏目君」
すると、彼女が唐突に俺の名前を呼んだ。
「何ですか?」
もじもじと、何かを伝えようとしている年上の少女。
そんな彼女に、俺は尋ねた。
すると、彼女も覚悟を決めたのだろう。
頼りなさそうな雰囲気を改め、背筋を伸ばし、胸を張り、確かな決意が込められたような目で俺を見据え、その言葉を言った。
「……私、お母さんに話してみようと思う」
その一言に、俺は固唾を飲んだ。
彼女は失敗するのが怖いと言っていた。
母親を裏切る自分が恐ろしいとも言っていた。
けれど、今は、それを自分の意志でやると言っている。
それはつまり、その一言はつまり、そういうことのなのだろう。
彼女は、逃げることを選んでくれたと。
恐怖を感じてなお、自分の本心を貫くことを決めてくれたと。
そう、解釈した。
「演技がしたいって事」
続けて彼女はそう言った。
その目には、寸分の迷いもなかったと思う。
それで、十分だった。
それ以上の言葉はいらなかった。
彼女は自分の意志で、自分の本音を守ると決めてくれた。
逃げない事と、逃げる事を選んでくれた。
向き合うために、向き合わないことを理解してくれた。
そう思ってくれたことが、俺は嬉しかったのだ。
「何か、俺に手伝えることってありますか」
俺がそう聞くと、彼女は首を横に振った。
「これは、私にとって本当に大事な事だから、逃げずに、私自身が立ち向かってみようと思う」
そう、静かな声で放たれた彼女の言葉に、強固な意志を感じた。
同時に、俺が彼女に関われるのはここまでなのだと理解した。
俺が伝えたいことは、彼女にしっかりと伝わった。
そして彼女は、自分が笑える未来を選んでくれた。
それで、俺の役目は終了。
彼女がそれを望むのであれば、俺が余計な口出しをするべきではないのだろう。
彼女がこれから進もうとしている道は、長く、荒んだものなのかもしれない。
けれど、その道は、終わりの見える一本道だ。
変わらない意思は変わらない。
揺るがない覚悟は揺るがない。
彼女は、“演技を続ける”という名の大きな道しるべを得たのだ。
なら、もう道を見失う心配はない。
進めば、おのずと道は開けるはずなのだから。
だから、後は彼女次第。
少し寂しかったけれど、仕方ない。
その道の歩き方は、彼女に決めさせるべきだろう。
「わかりました。じゃあ、俺は……」
「で、でもね!」
俺が言いかけると、彼女は慌ててそう言葉を被せた。
「もし、私ひとりじゃどうしようもなくなったらさ。その時は……君のこと、頼ってもいいかな」
彼女は、気恥ずかしそうにそう言った。
「大事なことから逃げる気はないけど、他のことからは……逃げたくなるかもしれないから」
彼女の不安そうに返答を待つ表情に、俺は思わず吹き出してしまう。
「喜んで」
満面の笑みを浮かべて、俺は彼女にそう返した。
なんだ、俺の取り越し苦労じゃないか。
無駄に暗い気分になって損した気分だ。
彼女は、俺を頼ってくれている。
その事実が、彼女のその気持ちが、俺にはたまらなく嬉しかった。
当たり前だろう。
そう、彼女に言ってやりたかった。
ここまで来て、助けないなんて選択肢を選ぶはずがない。
俺は変わると決めたのだ。
彼女と、共に。
だからもう、大事なことから逃げようだなんて思わない。
「逃げたくなったら、真っ先に俺のとこに駆け込んできてください。いつでも夜逃げできるように準備しておきますから」
気持ちの昂ぶりからか、そんなブラックジョークを口にしてしまう。
あっ、まずい。
そう思った。
すかさず彼女を見る。
「…………」
案の定、ズーンと暗い顔になっていた。
そりゃそうだろうが。
これじゃあまるで、彼女が失敗するのが当たり前だと思っているみたいじゃないか。
「いや……あの……準備って言ってもそんな大げさなものじゃなくて……ホントに体験版みたいなもんですから。自転車と寝袋ぐらいですから。プチ家出的な。ホントに逃げることになるんだなんて一ミリも思ってませんからね」
「言い訳下手過ぎだよ! それに自転車と寝袋って何!? 野宿なの!?」
しどろもどろで俺が訂正すると、納得がいかなかったのか、彼女も強気でツッコミを入れてくる。
焦ったような、怒ったような彼女の表情を見て、少し楽しくなってきた俺は、そのまま白々しく話題を反らし、彼女をからかうように会話を続けた。
「今の時期なら、それもありかもしれませんね……」
「ダメだよ! お巡りさんに捕まるよ!」
「もしそうなったら俺は一人で逃げます。後のことは……先輩、よろしくお願いしますね?」
「私が捕まるのは大事なことじゃないの!?」
「はい」
「即答!?」
すごく、すごく、くだらない話をしていたと思う。
その言葉達に意味はなく、内容は空っぽ。
以前の俺なら、よくもそんな無駄で面倒なことができるなと笑っていただろう。
けれど、今はそれが心地よかった。
彼女も笑っていて、俺も笑っていて。
それだけで、この会話には価値があるのだと思えるように、俺は変わってしまった。
その変化が良いものなのか、はたまた悪いものなのか、俺には分からない。
けれど、その影響を彼女から受けたというのだけは分かっていた。
彼女と接すうちに、俺は変わったんだと思う。
そのまま他愛のない会話に興じ、それが落ち着いてきた頃、彼女は自分のスマートフォンを俺に差し出した。
「連絡先、交換しよう?」
お互い、何かあった時のためにと、彼女は照れくさそうに言った。
それに、俺もなるべく無関心を装って頷いた。
動揺しているのが、バレないように。
しかし、そんな甘酸っぱいような雰囲気も、ダメダメコンビの元ではすぐに崩壊してしまうようで。
数秒後には、俺のコミュニケーションアプリの友人数の少なさに彼女がドン引きしていた。
母、妹、西野と中学の友達の数人だけ。
引くというか、彼女の視線はもはや憐れみのものだったのかもしれない。
ちなみに、父はいまだにガラパゴスケータイの化石人間である。
そうして、おふざけが一段落したところで、俺は彼女に帰宅を促した。
そろそろ彼女を家に帰さないとまずいなと、そう思ったからだ。
「そろそろ帰りましょうか、いい時間ですし」
「そうだね」
「家の近くまで送りますよ」
「ううん、大丈夫。逆方向だし……それに、少し一人で歩きたい気分だから」
「……わかりました。それじゃあ、また学校で」
「うん、またね、夏……」
彼女に別れを言い、背を向け家路につこうとしたその時だった。
「……隼人君」
彼女が突然、いつもとは違う慣れない呼び方で、俺の名前を呼んだのだ。
「な、何ですか急に……」
当然俺は驚いて、彼女に問いただす。
すると、彼女は、
「そ、そろそろ苗字で呼ぶのも他人行儀かなって思って……ダメだったかな?」
余裕のなさそうな様子で、そう言った。
街灯の光のせいか、彼女の顔は少し赤く見えたような気がした。
「ダメでは……ないですけど……」
無理して呼ばなくてもと、そう心の中で思いながら、その呼び方を遠回しに受け入れた。
すると、彼女はご機嫌な様子で、
「えへへ、ありがとう。私のことも凪って呼んでくれていいんだよ、隼人君」
そう、俺に言った。
「馬鹿にしてます?」
「してないよ~。ほら、試しに呼んでみて? 凪先輩って!」
呼ぶか、呼ばないか、正直迷ったが、今のタイミングを逃して今後そう呼びにくくなってしまうのも嫌だったので、意を決して、彼女の名前を呼んだ。
「えっと…………な、凪先輩?」
うっ……これ……かなり恥ずかしいぞ。
そう思って、咄嗟に自分の口元を腕で隠した。
自分の体が熱くなっているのが分かる。
俺って結構繊細なのかなという疑問と、襲い掛かる羞恥心に悶えていると、彼女の方から笑い声が聞こえてくる。
「ぷっ! 何か変な感じ!」
「せ、先輩が呼べって言ったんじゃ……」
「あはは、それじゃあ凪先輩は帰ります!」
俺が不満を露わにすると、彼女はそれから逃れるように、彼女の家がある方向へと足を向けた。
「またね、隼人君」
彼女はまた俺の名前を呼んで、手を振った。
それに軽く会釈をして、彼女が歩いていく姿を見送る。
彼女が見えなくなった辺りで、不意に、笑みを溢してしまう。
うわっ……我ながら気持ち悪いな……と自己嫌悪に陥りつつ、どうして彼女が突然俺の下の名前を呼び出したのかを考えていた。
俺のこと、少しは認めてくれたのだろうかと、そんな都合の良い想像を頭の中で膨らませながら、またもや笑みをこぼす。
そうして自己嫌悪に陥って、また、その意味を考えるのを繰り返した。
自分の中で、彼女の存在がどんどん大きくなっているのが分かる。
けれど、今はまだ、その気持ちを表に出してはいけないのだろう。
彼女には大事な事がある、だから、それ以外の事には目を向けて欲しくなかった。
けれどいつか、彼女が笑える未来が訪れたのなら、俺も、この気持ちと、自分にとって大切なことに向き合ってみたいと、そう思った。
たとえ、彼女に受け入れてもらえなくても構わない。
この気持ちから、俺は逃げたくないのだと、そう思った、心地よい風が吹く夏の夜だった。
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