第25話 答え④
「落ち着きましたか?」
それから少しの間、俺達二人は再びベンチに腰掛け、彼女が泣き止むのを待った。
十分に彼女を宥めた後、俺がそう問いかけると、彼女は「ありがとう、もう大丈夫」と言って、手の甲で涙を拭った。
目は赤く腫れ、髪は乱れ。
彼女の表情は、姿形は、俺が今までで見てきた中で一番荒んでいたと思う。
けれど、なぜだろうか。
そんな彼女を、俺は綺麗だと思ってしまったのだ。
おそらく、気持ちの問題だと思う。
彼女は俺に本心を聞かせてくれた。
その事実が、気を許してもらっているという安心感が、俺にそのような感情を持たせたのだろう。
彼女の顔をまじまじと見つめる。
すると、彼女は俺の視線に気が付いたのか、
「……恥ずかしいから、あんまり見ないで」
と、自分の顔を両手で隠しながら言った。
「す、すいません」
彼女に指摘され、俺も慌てて視線を外す。
年頃の乙女にとって、人に泣き顔を見られるのがどれほど嫌なことなのかを考えていなかった。
家族や友達の前ならまだしも、年下のクソガキの前ならなおさらだろう。
迂闊だった。
もし俺ができる男だったのなら、もっとスマートにフォローできていたのだろうか。
何も言わずにシルクのハンカチとか渡たせたのだろう。
くそ……分からない……
これが経験の差というやつなのか……
家に帰ったら「イケメン 女の子 泣き止ませ方」で検索しなきゃ……
「そ、それでですね……」
コホン、と気を取り直すようにそう言って、顔をあまり見過ぎないように彼女に問いかける。
話を前に進める必要があったのだ。
先ほど、社会人サークルの演技を彼女に見せ、どんな場所でだって演技は続けられると彼女に意識させ、彼女の本音を引き出すことに成功した。
けれど、それはまだきっかけであって、土台に過ぎないのだ。
これから、具体的にどうするかを決めていかなければならない。
きっと、簡単には決められないのだろう。
彼女は悩むと思う。
彼女は迷うと思う。
しかし、それでも以前よりは前に進んでいるはずだ。
何もしないまま朽ちていくよりも、もがいて、苦しんで、ほんの少しだけでも前に進んだほうがまだマシ。
それに、俺だって考えなしに彼女をけしかけたわけではない。
勝算があったから、彼女の助けになれると思ったから、動いたのだ。
気まぐれで動いているわけではない。
彼女にはできなくて、俺にはできること。
俺が唯一彼女に教えてあげれること。
その答えは、確かに俺の中にあるはずなのだ。
「これから、どうしましょうか」
彼女に問いかける。
しかし、彼女は何も言わなかった。
いや、正確に言えば、何も言えなかったのだろう。
当たり前だ。
今まで数十年間悩んできた問の正解を、突然出せと言われてもそれは無理な話だろう。
そもそも、そんな簡単に答えが出せるのなら、彼女はとっくにそれを実践しているはずだ。
答えがないから進めずに、正解がないからあきらめた。
自分と、それを取り巻く環境の間で、彼女は雁字搦めになっているのだ。
また、沈黙が生まれる。
やはり、彼女に答えを出させるのは酷だ。
なら、俺がやるべきなのは一つだろう。
俺が、彼女を支える。
俺の、俺にしかできないやり方で。
「先輩」
沈黙を破るように、彼女を呼ぶ。
不意を突いてしまったのか、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「俺に、一つだけ考えがあります」
彼女の目を見て、優しい笑みを浮かべてそう言った。
当の本人は驚きと共に少しの期待と不安を抱いたような表情になり、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……ど、どんな?」
「それはですね……」
彼女が、固唾をのんで俺を見つめる。
彼女が不安にならないように、俺はより一層柔らかい発声を意識して、彼女にその方法を伝えた。
「先輩が、お母さんに直接“演技がしたい”と言ってしまうんです」
考えて、考えて、考えて。
結局出てきた答えはこれしかなかった。
格好つけておいて何だその有様はと笑われてしまうだろうが、仕方ないだろう。
他に、正解を見つけれなかったのだ。
彼女の中に、演じたいという気持ちは必ずあると、信じて疑わなかった。
あそこまで長く、深く、想いを込めた“演技”を、彼女がそう簡単にあきらめられるはずがない。
それは、それだけは、彼女との関係を解消した日から確信していた。
だから、俺はその気持ちだけを汲み取ろうと考えた。
彼女の事、母親の事、父親の事、演技の事、その全てを俺は知っていた。
だからこそ、俺はこの問題の解決に、行き着く結果に、円満なんてあり得ないと悟れたのだ。
誰もが傷つかず、誰もが幸せなやり方。
そんなものは、はなから存在していない。
なら、俺が救えるものだけ救ってしまおうと。
俺が一番救いたいものを救ってしまおうと。
そう、思ったのだ。
それが、俺が出した答えだった。
「ごめん……それは……」
すると、彼女は俺から目を反らして、俯きながら、
「お母さんは……裏切れない……」
目を伏せたまま、そう言った。
彼女の反応は至極全うだろう。
普通、彼女の話をしっかり聞いていたのなら、こんな考え方が出てくるはずがないのだ。
彼女は今まで、演技がしたいという気持ちも、一人で練習をしているという事実も、母親を苦しめないためにひた隠して、我慢と共に生きてきた。
俺の提案は、その努力の全てをぶち壊すようなもので、彼女の演技を続けたいという気持ちと、母親を裏切りたくはないという矛盾した感情の一方を容赦なく切り捨てろというものだった。
だから、彼女が嫌がるのも当然だろうし、そうなるのも分かっていた。
意思があるから行動ができるというわけではない。
周りの環境が、やむにやまれぬ事情が、時に自分の足を引っ張って、前にも後ろにも進めなくしてしまう時だってある。
今の彼女はその状態にあるのだろう。
相反する二つの願いの中で、身動きが取れなくなってしまっている。
俺は、その渦の中から彼女を救い上げたかったのだ。
彼女がどう動こうと、演劇を続けると決めた限りは、いつかは必ず、母親にその全てを知られてしまうことになる。
二つを天秤にかけられた時、おそらく、彼女はまた演技をあきらめることを選択するのだろう。
どれだけ望んでも叶わない夢なら、きっぱりとあきらめてしまったほうが楽になれるかもしれない。
彼女はきっと、そう考えるはずだ。
でも、俺はそれを許したくはなかった。
彼女の気持ちを、願いを、蔑ろにはしたくはなかったのだ。
本当に難しい問題だったと思う。
対極にある願望の選択ほど難しいものはないだろう。
どちらかを生かせば、どちらかは死ぬ。
一方を選べば、もう一方を切り捨てなければいけない。
それを考えるのは、まだまだ子供の俺には本当に困難で、面倒なことだった。
けれど、逆に、それだけがこの選択における唯一のアドバンテージでもあったのだ。
面倒事。
その事象について、その概念について、俺ほど詳しい人間はいないだろう。
それだけは、自信を持って言えた。
だから、それが、俺が彼女に教えてあげられる唯一の道しるべとなった。
面倒な事を嫌い、面倒な事を避けて生きてきた人間が、面倒な事に直面した時、そいつは一体どのように立ち振舞うのか。
それは…
「先輩は……」
言おうとして、少しためらった。
これは、彼女の生き方の全てを否定するような言葉だ。
言ってしまえば、彼女を傷つけてしまうかもしれない。
彼女が立ち直れなくなってしまうかもしれない。
そうなってしまう可能性があるからこそ、伝えてよいのか、ダメなのか、葛藤する。
でも、ここで言わなければ解決はあり得ないし、彼女とこの話をする機会も二度とは来ないのだろう。
ならもう、言うしかない。
覚悟を決めて、俺は彼女に告げようとする。
彼女は呆れるのだろうか、それとも、失望するのだろうか。
漠然とした不安が、俺の中にはあった。
けれど、今は俺が彼女にどう思われるのかなんてどうでもいい。
ただ、これ以上彼女が理不尽な扱いを受けるのだけは食い止めたかったのだ。
嫌われたっていい。
蔑まれたっていい。
彼女の根本を変えなければ、彼女が演劇を続ける道は絶たれてしまう。
それを阻止するためなら、たとえ彼女を傷つけようが、嫌われてしまおうが、仕方がないのだろう。
俺の独りよがりかもしれないけど、それが、俺が選んだ道だった。
彼女を救うために、俺は。
彼女を、否定する。
「先輩は……欲張り過ぎなんだと思います」
俺がそう言うと、彼女は驚いた様子でこちらに振り返り、俺の顔を見た。
その瞳の中には、動揺だとか、疑心だとか、様々なマイナスの感情が内在しているように見えた。
分かっていた。
分かっていたけれど、それでも、彼女にそう思われるのは辛かった。
そのまま、俺は謝るわけでもなく、彼女と同じように、彼女の瞳を見つめ返した。
俺が彼女と過ごしていく中で、彼女に抱いていったイメージは「優しい人」というものだった。
俺が演劇に興味がないと知った時、彼女は練習に付き合わせたのを自ら詫びて、あっさりとその関係を解消しようとした。
俺が本当に嫌がる素振りを見せた時は、必ず自分から引こうとした。
演劇だって、母親を思い、我慢するほどだ。
彼女は誰かを思い、気遣え、身を寄り添え合える人間だと、そう思っていた。
けれど、俺は気づいてしまったのだ。
彼女の優しさは、褒められたものではないのだと。
彼女のそれは、“優しさ”ではなく、ただの“自己犠牲”なのだと。
様々な現実に立ち向かうために、様々な感情を切り捨てる。
全てを救う代償に、自分の全てを蔑ろにする。
彼女の優しさの土台には、必ずその自己犠牲の考えがあった。
それが、彼女の行動の共通点だ。
おそらく、彼女は恐れていたのだろう。
父親が消えた時のように、存在していたはずのものが消えてなくなってしまうのを。
大切なものを、自分の手の内にあったものを失うのは怖い。
だから、そう思っているから、彼女は我慢して、自分の本音を抑えてまで、誰かのために行動しているのではないのだろうか。
これは、あくまで俺の想像だ。
しかし、そう思われる片鱗はいくつもあったと思う。
もしそうならば、その根本を変えなければ、彼女はこれからも自分の身を切り続けるのだろう。
だから、俺はそれを変えてしまおうと思った。
彼女を否定して、彼女の生き方を無視して、俺にしかできないやり方で。
「先輩」
彼女を見つめたまま、俺は言葉を紡いだ。
彼女は臆した様子で俺を見る。
「俺は、今まで逃げるばかりの人生を送ってきました」
夏目隼人。
その人間の生き方は、九条凪という人間の生き方とはまったくの別物だった。
「勉強も、運動も、人付き合いも、何だって面倒くさいと思ったら、それに向き合わずに逃げて、逃げて、逃げてばかりの人生でした」
そうするのは楽で、安全だから。
立ち向かってしまえば、俺も、他の誰かも傷つけてしまうかもしれないから。
だから、俺は逃げて、逃げ続けてきた。
「でも、そればっかりじゃダメなんだって、今回の件で気づかされました」
けれど、それでは前に進めない。
後ろに下がるか、良くて停滞するだけだ。
俺は彼女と過ごしていく中で、それを知ってしまったのだ。
「逃げてばかりじゃ、肝心な時に何もできない」
逃げてばかりじゃ、前には進めない。
逃げてばかりじゃ、経験は伴なわない。
それが、真実だった。
彼女を救おうと考えた俺の前に、その壁は立ちふさがった。
何もできない俺に、彼女は救えない。
何もできない人間に、大切なものは守れない。
無力な自分を恨んでしまうほどに、その真実を痛感した。
「先輩は真逆です。いつも、どんな時でも、何事にだって立ち向かって、自分を犠牲にしてまで自分以外のものを守ってる」
彼女は真逆。
何事からも逃げないで、何事にだって立ち向かう。
「でも、それじゃあ、いつか必ず先輩は壊れてしまう」
けれど、必ずしもそれが正解であるという訳ではなかった。
何事にも立ち向かい過ぎるあまりに。
周りを気にし過ぎるあまりに。
自分を抑えて、雁字搦めになって、結局、彼女は前には進めなかった。
「俺達は、ダメダメなんだと思います」
決して相容れぬはずの二人の人間の結末は、奇妙にも同質の終着点へとたどり着いた。
逃げたから、前に進めない。
立ち向かったから、前に進めない。
酷い矛盾だ。
それが事実であるのなら、この世に正解なんてあるわけがない。
「だから……」
だから、俺は迷い、悩んだ。
答えのない問いに正解を出すなんて不可能だ。
元からないものを創造するなんて、神かそれ以上の存在の所業だろう。
ならば、人間の、ましてや劣等種の俺なんかに、そんな大それたことができるはずがないと、そう考えていた。
しかし、それでは彼女は救えない。
答えが存在しなくとも、答えを無理やり作り上げなければいけなかった。
たとえそれがでっち上げの詭弁だとしても。
たとえそれが何の役にも立たない机上の空論だったとしても。
俺は、結論を出さずにはいられなかった。
これは正解ではないのかもしれない。
これは間違ったやり方なのかもしれない。
けれど、これしかなかった。
彼女と俺が前に進む道は、これしかなかったのだ。
それは、俺が彼女に唯一教えてあげれることでもあった。
同時に、俺が彼女から学んだ一つのことでもあった。
選択肢は一つしかなかった。
絵空事の、おとぎ話のような幻想。
それは……
「……だから、俺と一緒に変わりませんか」
それが、俺の出した答えだった。
「逃げてもダメ、立ち向かってもダメ。それなら、その間を取りましょう」
俺が教えてあげられる唯一の事。
それは、逃げる事だった。
物心ついた時から続けてきた習慣。
苦しい事や、面倒な事から目を反らし、意地でも無関心、無関係を貫き通す。
それが夏目隼人という人間の、誰にも負けない唯一の特技だった。
だから今回、俺は彼女に上手な逃げ方を教えようと思ったのだ。
手に入らないものは切り捨てる。
叶わないものはあきらめる。
そうすることで楽になれると知っていたからこそ、俺は彼女にその考え方を勧めようとしていた。
けれど結局、その考えは答えにはならなかった。
気づいてしまったのだ。
それではダメだと。
彼女に教えられたのだ。
逃げるのは、ただ問題を先送りにしているだけだと。
だから、俺は彼女にそれを教えない。
失敗の前例があるのに、わざわざ二度も再現するのは無駄だろう。
それは彼女にも言えることだ。
逃げ続けて行き着く場所と、立ち向かい続けて行き着く場所は、どちらも等しくバットエンド。
なら、それ以外の歩き方を探すしか、俺達が前進する方法はない。
「本当に大事な事からは逃げないで、それ以外の事からは逃げちゃいましょう」
それが、俺が出した結論だった。
「先輩は演技がしたい、それだけを考える。だから、それ以外の事は考えちゃだめです」
大事な事にはとことん向き合って、それ以外の事からは目を背ける。
俺の失敗と、彼女の失敗が作り上げた結論だ。
過去とか、未来とか。
それらを一切考えずに、自分の叶えたい目的のためだけにひた走る。
そうすれば、俺達は必ず前に進めるはずだ。
常識とか、道徳とか、一般論は関係ない。
それほどの貪欲さが、俺達には必要だった。
何かを得れば、何かを失う。
それがこの世界の真実だ。
全てを求めて全てを失うくらいなら、何かを切り捨てて何かを守ったほうがいい。
彼女の場合、それは演技なのだろう。
彼女がその気持ちを優先してくれるというのなら、俺は……
「俺も、その想いには逃げずに立ち向かおうと思うので」
その気持ちから逃げはしないだろう。
俺にとって、それは本当に大切な事だから。
協力だって、何だってする。
彼女の迷いが晴れるのなら、俺は自分の信条を捨てたって構わない。
彼女が笑える未来があるのなら、俺は変われる自信があった。
彼女を見た。
迷ったような、困ったような表情をしていた。
彼女の反応は正常だろう。
突然、こんな訳の分からない詭弁を、出会ってからそれほど時間の経っていない訳の分からない人間に言われてしまえばだんまりを決め込みたくもなる。
ましてや、俺は彼女の今までの全てを否定した。
たとえ嫌われてしまったとしても文句を言える立場ではない。
無言のまま、彼女を見ていた。
彼女は俯いたままで、俺は居た堪れなくなり、彼女から目を反らそうとする。
その時だった。
彼女が頭を上げて、こちら側に体を向けたのだ。
俺は反らした視線をもう一度元の場所へと戻し、彼女と向き合う。
「それは、私に必要な事なのかもしれないね……」
開口一番に、彼女はそう言った。
その言葉に、俺は思わず息を吐く。
嫌われなかった、俺が言いたいことは彼女に伝わったんだと、そう解釈して安堵したのだ。
しかし、彼女の様子は俺の内心とは打って変わって、依然として薄暗いまま。
「でもさ……お母さんはどう思うかな……」
彼女は途切れ途切れの言葉で言う。
彼女の瞳の奥底に、大きな不安と、漠然とした恐怖を感じた。
「もし、私がお母さんに演技をしたいって気持ちを打ち明けたとして、受け入れてもらえなかったら、失敗しちゃったら、どうなるんだろう。お母さんはおかしくなっちゃうのかな。もう口も聞いてくれなくなっちゃうのかな。私は一人になっちゃうのかな。それを考えると……すごく……怖い……」
膝を覆うように掴んでいる彼女の手は、震えていた。
正直、彼女の中にある恐怖が、ここまで大きなものだとは思っていなかった。
しかし、それが妥当なのだろう。
彼女はずっと、その恐怖に向かい合ってきた。
ずっと、その苦悩と共に生きてきていた。
それを突然捨てるのは、彼女にとって難しく、恐ろしいことなのだろう。
人は簡単には変われない。
過去の自分が、積み重ねてきたものが、必ず自分の足を掴んであるべき姿へと引きずり戻そうとする。
意図的な変化とは、容易なものではない。
けれど、俺達は変わらなければならなかった。
前に進むために、変化が、変容が必要だった。
彼女の母を思う気持ちは立派だろう。
しかし、それが、それこそが彼女の歩みを止める足枷だ。
“本当に大事な事からは逃げないで、それ以外の事からは逃げてしまう”
本当に大事な事と言うのが演技であるのなら、それの実現を阻止する類のものは全てそれ以外の事になるはず。
それを示したのは、俺だ。
なら、それを教えてあげるのもまた俺でなければいけないだろう。
「もし失敗したら……そうですね……」
彼女の問いに対する返答は決まっていた。
本当に大事な事からは逃げないと自分で決めたなら、その逆もまた然り、提示した条件を本人が守らなければ、彼女に示しが付かない。
だから、俺が彼女に返す言葉は一つだけ。
演技を続ける、それ以外の事に直面した場合、俺達が選ぶべき選択肢は……
「もし失敗しちゃったら、二人でどこかに逃げちゃいましょうか。生憎、俺は逃げるのだけは得意なんで」
それ以外には存在しない。
彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
当たり前だろう。
俺の言葉は詭弁だ。
高校生の俺達に、そんなことができるはずもないのだから。
けれど、今はそれでいい。
ようは気の持ちようだ。
誰だって失敗するのは怖いし、できるならしたくはないだろう。
それを恐れるのは当然だ。
けれど、失敗するかしないかは物事の事後にしか判明しない。
なら、その失敗するかもしれない未来を考えるのは大事なことではないはずだ。
大事なことではないのなら、その不安さえからも逃げてしまえばいい。
俺が彼女にかけるべき言葉は、正論ではなく支えとなる言葉だ。
逃げ道がなければ、臆して進めず、停滞してしまう。
だから今は、たとえ間違っていたとしても逃げる場所はあるのだと、彼女に知って貰いたかった。
失敗しても、彼女は決して一人にはならない。
なぜなら、俺がいるからだ。
俺は何があっても彼女の傍を離れる気はない。
それを、彼女に理解してほしかった。
逃げ道があれば、体と心は鈍らない。
たとえそれが不可能な理想であっても、たとえそれが絵に描いた餅のような想像であっても、彼女が臆せず、負目を感じず進む理由になるなら、俺の口から出る言葉は何だっていい。
彼女はポカーンとしたままこちらを見ながら、口に指をつけて息を吐いた。
「何、それ」
俺がおかしなことを口走ってしまったからだろうか。
彼女はそう言って、小さく、それでいて少し嬉しそうに笑ったのだ。
久しぶりに彼女の笑った顔を見たような気がして、それが嬉しくて、俺も思わず笑みをこぼしてしまう。
彼女がこうして笑える未来を創れるように、彼女のこの綺麗な笑顔が損なわれないようにと、彼女の笑顔を見て願った。
怒った顔も、悲しんだ顔も、驚いた顔も。
どれも等しく彼女らしくあって、嫌いではないけれど。
やはり、それでも、彼女には。
笑った顔が一番似合うと。
そう、思うから。
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