第19話 僕と彼女と彼女の秘密⑤

 彼女の話を聞き終えた俺の心の内は、形を保てないほどにぐちゃぐちゃに崩れていた。


 彼女を掴んで離さない足枷、彼女を取り巻く闇は、俺の想像を軽く飛び越えるほど深く、どす黒いものだったわけで。


 それを受け止めてすましていられる程、俺の心は大人ではなかったのだ。




「それからね、私の家ではお父さんの話も、演劇の話もすることはなくなったんだ」




 寂しいような、物悲しいような声で彼女は言う。




「むしろ、お母さんはできるだけ私をお父さんや演劇には関わらせないようになったかな。お父さんがいなくなった時、お母さんは私に何も言わなかったけど、たぶん、お父さんのことも、お父さんをおかしくした演劇のことも、嫌いになっちゃたんだと思う」




 彼女達を狂わせたもの、彼女達を壊したもの。


 それは演劇ではないのだろうと俺は思っていた。


 けれど、それは何も見てこなかった外野の人間だから言えることであって、当事者、つまり彼女の母と彼女にとってもそうであるとは限らない。


 最愛の、大事な人を奪ったもの。


 直接体験した者達からそれがどう見えるのか、馬鹿な俺でも大体の想像はついていた。




「代わりに、お母さんは私にいっぱい勉強して、いい大学に入って、ちゃんとした職業に就きなさいってたくさん言うようになったかな」




 彼女のその言動が、俺に彼女の全てを悟らせる。


 成績が良く、学年でも上位に入る優等生なのも、団体に属さず一人で演技を続けるのも。


 それらは自発的に行われていたものではなく、そうせざるを得えなかった状況に置かれていたということを。


 心に傷を負った母の期待に少しでも応えるために、彼女は本心を隠し、縛り付け、耐えて、たった一人で戦っていたのだ。


 もしも、演劇をやりたいなんて言ってしまえば、自分の下に残ってくれた母さえも壊れてしまうかもしれない。


 それを知っていたから。


 実際にそうなった人間を間近で見てきたから。


 彼女は母の期待通りの娘を演じてきたのだろう。


 自分の、本音でさえも飲み込んで。




「あはは、でも、お父さんもバカだよね。そんなになるまで続けないよ、普通」




 彼女は父を笑った。


 しかし、その笑みに蔑みの気持ちが含まれているようには見えなかった。




「……でも……でもさ……」




 ためらうように、戸惑うように。


 彼女は笑うのを止めて、やさしい声で自分の気持ちを露にする。




「お父さんの気持ち、分からない訳でもないんだよね」




 今の彼女の中には、父を咎める気持ちはあまりなかったのだと思う。


 当時の彼女が父をどう思っていたのかは分からない。


 けれど、少なくとも、今の彼女にはその気持ちはなかったはずなのだ。


 なぜなら、彼女も父と同じだから。


 彼女も父と同じく、演技に魅せられた一人なのだから。


 父に共感する部分もあったのだろう。




「私ね、まだ幼いころに一度だけ、お母さんに連れられてお父さんの舞台を見に行ったことがあるんだ。その時、どんな演目をやったとか、お父さんがどんな役をやっていたとかは覚えてないんだけど、劇中でお父さんが見せた、ほんの一瞬の表情が今でも忘れられないんだよね」




 彼女は悲しそうな声色を、一瞬だけ何かを懐かしむような声に変えて




「演じている時のお父さん、本当に楽しそうだった」




 そう、言ったのだ。




「お母さんが演劇を嫌がっていることは分かってるんだけど、それでも私は演じてみたいと思ったの。お父さんがあれほど入れ込んだ、演技ってものをね。だけど、養成所とか部活とかに入っちゃうとお母さんにバレちゃうから、こうして誰にも知られないように一人でこそこそと演技の練習を続けてきたんだ」




 彼女は逃げなかったのだろう。


 父の事も、母の事も、演技の事も。


 全てに向き合った結果が一人で演じていくというものであって。


 彼女が出した結論であって。


 それを知らずに彼女を不信視していた過去の自分に、どうしようもなく腹が立った。




「楽しかった。演じる自分が好きだった。だから、ここまで続けてこれたし、お父さんの気持ちも理解できたんだと思う」




 演技を好きな気持ち。


 ただそれだけが彼女を突き動かす原動力となり、支えとなった。




「でもね、やっぱり一人って寂しいものでさ、演劇部の子たちを羨ましがったこともあったし、最近は少し、あきらめかけてた部分もあったんだよね」




 彼女は暗い、苦しむような声でそう言った。


 しかし、それを言い終わる頃には声色を変えて、ほんのちょっぴりだけ明るい様子で、




「でもね、そんな時に……」




 ゆくっりと、右手の人差指を俺に向けて、




「夏目君に出会えた」




 そう、言ってくれた。




「最初は本当にびっくりした。私が演技をしてるの、絶対に誰にも言わないつもりだったから。夏目君と初めて会った日の昼休み、君に見られてしまってすごく驚いたし、恥ずかしかった。でも、それと同時に嬉しかったんだと思う。はじめて、私の演技を見てくれて、それを褒めてくれる人に出会ったから」




 彼女の飾らないまっすぐな言葉が、俺は少し照れくさかった。


 彼女も、俺と同じように驚いていた。


 俺の何気ない一言が、彼女を喜ばせていた。


 その事実が、何だかむずがゆいように思えた。




「だから、巻き込んじゃダメだって分かってたのに、こうやって無理やり昼休みの練習に付き合わせたりしちゃって」




 あの時、どうして初対面の俺にそこまで執着するのかが疑問だった。


 けれど、その疑問そのものが間違いだったということに気づく。


 彼女は俺だから粘り強く頼み込んだのではない。


 俺以外に頼れる人間がいなかったのだ。


 たまたま彼女の秘密を知った、まったくの赤の他人である俺にだけ。


 その事実は、彼女が誰かと共に演技をしたいという気持ちをどれだけ我慢していたかを物語っているようで、とても不憫に思えてしまった。




「多分、夏目君に甘えたかったんだろうね。ごめんね、迷惑かけて」




 彼女はそう言って俺に謝ると、寝転んでいる状態からすっと体を起こし、立ち上がってスカートの裾を払った。


 それを見て、俺も彼女と同様に立ち上がり、彼女を見つめる。




「あの……先輩……」


「はぁ~話した話した。こんな暗い話、長々と聞かせちゃって悪かったね」




 彼女を心配し、何か言葉を掛けようと必死に頭の中を回転させるも、何も言えずにただ地面を見つめるだけ。


 そんな俺の心中を察してか、彼女は無駄に明るい振る舞いで俺に声をかけてくれた。




「でも、夏目君に話してスッキリしたよ。こんな事、今まで誰にも言えなかったし、自分の中の悪いものを全部吐き出した気分。ありがとね」




 彼女のありがとうの言葉になんと返していいのか分からずに、俺たち二人の間には耐え難いような沈黙が生まれてしまう。


 屋上は彼女とはじめてまともに話した時のように、太陽が沈みかけ、オレンジ色の光が差し込み始めている。


 そんな幻想的な光景の中で、彼女はふと、校舎の外に視線を移した。


 そうして再び視線を元の場所へと戻し、彼女は自然な、作られたものではないと思わせる笑顔を俺に見せた。




「……もう、終わりにしよっか」




 俺の目を強く見つめ、優しい口調で彼女は言った。




「最初から分かってたんだ。一人で続けてたって、そんなものには意味はないって事。それに、この先私がお母さんを裏切ってまで演劇の道に進むなんてあり得ないと思うし、今までだってそうだったから。夏目君に話して改めて理解した。だから、演技に執着するのは今日で終わりにする」




 そう言う彼女の表情は、何だか憑きものが取れたように和やかで、まるで夕凪のような穏やかさが感じられた。




「受験もあるしね! 夢を見るのもここらが潮時ってことなのかも!」




 彼女が決めたことなら、俺がとやかく口を挟むべきではないのだろう。


 彼女が無理をしている様子はない。


 つまり、彼女がそれを自分で決めて、それに納得しているということだ。


 俺がどう思っているのかなんて、関係ない。




「だから、君とここで会うのも今日でおしまい。今まで私のわがままに付き合わせてごめんね」




 彼女はそう言いながら振り返り、屋上を後にしようとしていた。


 止めるなら、今しかない。


 俺の、自分が思っていることを言えるのは、今しかない。


 それを分かっていたのに。


 頭の中では理解していたのに。


 体は動かず、ただ彼女が去っていくのを見ているだけ。


 何も言わずに。


 何も言えずに。


 入り乱れる感情と理性の中で、彼女の背中だけを見つめていると、彼女は出口のドアに手を触れる直前に体を翻し、少しだけ潤んだ瞳でこちらを見た。




「でも、私は幸せだったのかもしれないね。少しの間だったけど、こうやって私の演技を見てくれる人に出会えて」




 目尻を細め、彼女は言う。




「夏目君」




 俺の名前を呼ぶ彼女の瞳の奥底に、どんな感情があったのかは分からない。


 けれど、そこに悲しみはなかったんだと思う。


 なぜなら、彼女の表情は今までに見たことのないくらいに穏やかで、優しさに満ちているように見えたからだ。




「私のために、色々してくれてありがとう。もし、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってよ。恩は返すからさ」




 最後は笑って、冗談交じりの感謝の言葉を残し、彼女は屋上を去っていった。







 誰もいなくなってしまった屋上で、一人、俺は物思いに暮れていた。


 彼女が抱えていた事情は、あまりにも深刻で、残酷で。


 俺ごときでは到底受け止められるものではないと、彼女との会話の中で勘付き始めていた。


 俺では彼女を救うことができない。


 俺では彼女に手を差し伸べることはできない。


 そう、心の深い部分では実感していたのだ。


 もし、これがもっと優れた人物であったのなら、彼女の事情を知ったのが俺ではない他の誰かであったのなら、その人物は彼女を救って上げることができたのだろうか。


 そうであるなら、今はただ、自分の無力さが憎かった。


 こういう時、普通の人ならどうするのだろうか。


 どうやって、暗闇の中にいる大切な人に手を差し伸べるのだろうか。


 生憎、俺にはそのやり方がわからない。


 彼女が今まで自分を縛り付けて、母親のために我慢して生きてきたように、俺にも自分の生き方というものがあった。


 面倒な事には極力関わらないように生きてきた。


 だから、こんな苦難を経験したことがない。


 俺は自分が今までやってきたことが間違っていたとは思わない。


 興味のないものには関わらない、好きではないものの前では取り繕ったりはしない。


 だって、それは嘘をついているのと同じだから。


 そんなこと、無駄になるだけだから。


 自分に正直に、自分の心に素直に、嫌なことや、おかしいと思ったことは一切やらない。


 それが正しいと思って生きてきた。


 けれど、今回に限ってはそれが仇となった。


 嫌なものには蓋をして、興味のないものからは目を逸して。


 たしかに、それは自分に正直に生きていることになるのだろう。


 でも、そうしているだけでは本当に救いたい、関りたい相手に出会った時に何もできなくなってしまうのではないのだろうか。


 手段が分からずに、ただ目を逸らすしことしかできなくなってしまうのではないのだろうか。


 認めたくないが、おそらくそうなのだろう。


 普段、好き勝手に生きていた分のツケが今になって回ってきた。


 それが、答えだった。


 現に、去り行く彼女に何と声を掛けていいのかさえ、俺には分からなかったのだから。

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