第18話 僕と彼女と彼女の秘密④
彼女は全てを語り終えた後もこちらを見ようとはせず、ただぼんやりと、無言で青空を見ているだけだった。
今、彼女はどんな顔をして、何を考えているのか。
俺には分からなかったけれど、決して愉快な気分ではないことだけは確かだった。
“父親がいない”
その言葉から、俺はあまり良いとは言えない連想を行った。
事故か、病死か、それとも……
勝手な妄想を膨らませ、勝手に彼女の境遇を憐れんだ。
それがどう、彼女が一人で演技の練習をする理由に繋がるのかは分からなかったけれど、こうも彼女を苦しめているのなら、十中八九陰には悲惨な事情が、人の生き死にが関わった悲劇が、存在しているに違いないと考えたのだ。
そう勘繰り、俺は悪い方向へと想像を膨らませ、彼女がこれから語るであろう真実に恐れを抱いた。
しかし、すぐに彼女が「まぁ、この世界のどこかにはいるとは思うんだけどね」と苦笑いをしながら付け加えたため、ホッと一息ついて自分の中の考えを改めた。
よかった、誰も死んではいないと。
この話は、俺が想像していた程酷いものではないと。
そう、安堵した。
けれど、その考えが、安堵の全てが間違いだったのを、彼女の話を聞き終えてから気づかされることになる。
父親が生きていると聞いて安心したことも。
誰も死んでいないのなら、それ以上の悲劇は襲い掛からないだろうと思ったことも。
彼女の父親が、ただ死んでくれていたのならどれだけ良かったのだろうということも――――――――
彼女、すなわち、九条凪の父親は、とある劇団に所属する舞台役者だったという。
高校時代、演劇部に所属した彼は、そこで演劇の魅力にどっぷりと魅せられた。
以降、毎日のように演劇の稽古に精を出し、時が過ぎるのを忘れるほどに演技にその全てを費やしていった。
最初は、上手くいかないこともあったという。
彼が持つのは平凡な才能だったのだ。
周りが、経験者や自分よりも遥かにセンスのある部員たちで溢れかえっていることだってあった。
けれど、それでも彼はあきらめず、好きだからこそ、好きなものこそ、その一心で練習を続けた。
結果、その努力は実を結び、三年の頃には部長として名のあるコンクールで成果を上げたこともあったそうだ。
誰もが彼を称賛し、誰もが彼を賛美した。
周りの人間たちは彼のその行為を美談とし、その本人だって認めていたのだ。
“努力は人を裏切らない”
誰もがそう思い、疑わなかった。
彼は大学でも演劇を続け、ひたすらに自分の技術を磨いた。
高校の部活道とは違い、より本格的に、より厳しく。
途中で脱落した者も多かったそうだ。
それでも、彼は演技をあきらめなかった。
“努力は人を裏切らない”
その成果が。
積み重ねてきたものが。
彼を突き動かす原動力となったのだと思う。
そうして、大学を卒業すると同時に受けた劇団員のオーディションには見事合格。
またもや彼の努力は身を結び、晴れてプロの役者の仲間入りを果たした。
とわいえ役者と言っても下っ端も下っ端。
知名度などは全くなく、脇役をもらえたらまだいいほうで、端役やセリフがないのは当たり前。
時には役にあぶれ、裏方に回されてしまうこともあったそうだ。
しかし、それでも彼女の父はいじけずに、頑張っていれば、いつかは自分も成功するだろうと信じ、ひたむきに演技の稽古に励んだという。
演技が好きであったから。
努力が実ることを知っていたから。
彼は、何があってもあきらめなかった。
そんな前向きで明るい男の姿に、大学時代に同じ演劇部に所属し、卒業後も深い親交を持っていた彼女の母親は徐々に惹かれていき、二人はやがて恋に落ちた。
お互いを尊重し、理解し合った二人の交際は順調に進み、めでたくも最後には結婚するにまで至ったらしい。
二人の生活は決して裕福なものではなかった。
けれど、確かにそこには幸福があったのだ。
献身的な妻は夫が見習いの劇団員であるために稼ぎが少ないのを気にも留めず、責めるどころか家計を支えようとまっとうに働き、夫は妻の支えもあり、演劇により集中してその腕を磨いた。
妻が働くことによって二人の生活を、夫が頑張る姿を見せることで二人の心を、二人は互いを支え合いながら生きていたのだ。
結婚から一年の月日がたった頃、そんな二人の関係には変化が生まれた。
妻の体に、新たな生命が宿ったのだ。
二人はたいそう喜び、この子の事を必ず立派に育て上げようと誓い合った。
ほどなくして子供は生まれ、夫は父に、妻は母になった。
その子には夕凪のごとく穏やかに育つようにと、「凪」という名前が付けられたそうだ。
二人は絶え間ない愛情を凪に注ぎ、そんな両親を見てきた凪は素直で優しい子供に育っていく。
三人は宝ともいえる家族といつも共にあり、日々の暮らしの中で笑顔が絶えることはなかった。
貧しいながらも幸せで、穏やかで、かけがえのない生活を、その家族は送っていたのだ。
おそらくそれが、三人の中での幸福の絶頂だったのだと思う。
けれど、その幸せは長くは続かなかった。
凪が六歳の頃、無残にも父の所属する劇団が解散してしまったのだ。
母はいい機会だからと、凪や今後の生活のことも考えて、父に安定した仕事に就くことを提案した。
しかし、父には夢を捨てることができなかったのだ。
縋り、執着し続けたその夢を。
いつかは自分にスポットライトが当たるかもしれないというその理想を。
自分で積み上げてきた“努力は人を裏切らない”という道しるべを。
父はすぐに次の劇団を探し、多くのオーディションを受け、なんとか今の生活をつなぎとめようとした。
だが、現実はそう甘くはなかった。
若さもなく、実績もない。
そんな男を求めてくれる場所など、もうどこにも存在していなかった。
努力では超えられない概念、そう言ったものがこの世には存在している。
それは、“才能”である。
確かに努力は素晴らしい。
賞賛すべき美徳だ。
同じ立場の者が競い合ったのなら、嫌が応にも努力をした者が優れていくのだろう。
それは当たり前の話である。
けれど、才能を持つ者と、持たない者。
両者が同じように努力をしたのなら、結果は言うまでもない。
彼は、九条凪の父は薄々それに勘付いていたのだろう。
“努力は必ず報われる”
それは、自分が見てきた幻想だということを。
ただ、運がよかっただけだということを。
しかし、それでも父はあきらめなかった。
あてもなく、自分が輝ける場所を探し続け、失敗し、それでも探し続け。
やがて、その挫折によって溜まった鬱憤はお酒によって発散されることが多くなった。
昼間から飲んだくれることもあったそうだ。
そんな父の姿を見た母は怒り悲しみ、凪は家で笑うことが少なくなったという。
幸せで満ち足りていた家族の姿はもうそこにはなく、彼女の家からは笑顔が消えてしまったのだ。
悲劇はそれでも終わらなかった。
結局、父は自分を求めてくれる居場所を見つけることができずに、とうとう演劇の夢をあきらめた。
けれど、その区切りは家族との関係を新しくスタートさせるためでもなければ、心を入れ替えてやり直そうとするためのものではなかったのだ。
父は、“努力は人を裏切らない”という言葉に裏切られた男は、とっくに壊れていた。
だから、あきらめるのと同時に逃げてしまった。
どこで出会ったかも知れない女と一緒に、自分が積み上げてきたもの、否定されてしまったものを捨てて、消えてしまったのだ。
いつも健気に支えてくれた妻と、まだ幼い凪を残して―――――――
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