第14話③ 九条凪⑨
「面白かったぁ……」
興奮冷めやらぬまま、余韻を楽しむ様に、彼女はチーズケーキを頬張っている。
かつて、これほどまでに興奮した状態の彼女を見たことがあっただろうか。
いいや、ないだろう。
現在、俺達は少し休憩しようと駅の近くのカフェに入り、お茶を飲んでいた。
彼女はロイヤルミルクティーとチーズケーキ。
俺はカフェオレとミルクレープ。
甘い飲み物と甘い食べ物。
限りなく糖分を摂取して疲労を回復しようと思い、その組み合わせで注文した。
しかし、摂取したエネルギー量よりも多く彼女が話し続けるため、純粋なエネルギー補給で疲労を回復するのは今の俺達では不可能なのだと悟ってしまう。
どうしてこんな事態になっているかというと、それは先ほど鑑賞した映画『劇場版ビーバー、女帝になる。』がとんでもない超大作だったのが原因である。
完全に、舐めていた。
まさか、あれほど完成された映画だったとは………
ドラマ版『ビーバー、女帝になる。』
それについて、上映前に彼女が話したあらすじは、いつか俺が思い浮かべたような内容とほとんどが一致しており、予想通り、とある王国の幼い王女が、悪い魔女の魔法でその姿をビーバーに変えられ、それを治すため、仲間と協力し冒険の中で成長していくというようなお話だった。
何だ、やっぱりありきたりな内容なんじゃないか。
彼女の説明からそう思った俺は、上映前からこの映画に見切りをつけて、自分の座席で踏ん反り返っていた。
素人の俺でも先の展開を読めるんだから、どうせ劇場版も大したものじゃないのだろうと。
そうやって、高を括って映画の視聴に臨んだ俺は、数時間後、エンドロールの終了と共に、監督、脚本、その他諸々のスタッフの皆様に無条件降伏の白旗を掲げるハメになる。
俺の想像とは、真逆も真逆。
ビックスケールであり、ビックタイトルであり、ハートウォーミング。
エンターテインメントの神髄がここにあると思ってしまうほど、『劇場版ビーバー、女帝になる。』という作品は素晴らしかったのだ。
ドラマ版で平和になったはずの王国に迫る不穏な影。
仲間の裏切り。
魔女の復活。
再びビーバーと化す王女。
よくわからないタイミングで始まるダンス。
第三の勢力ラッコの登場。
どれもこれもが男心をくすぐる胸熱展開の目白押しで、笑いあり、涙あり、意味不明なダンスあり。
映画が終わってしまう頃には、凄まじい爽快感と、何とも言えない虚無感を味わったくらいである。
とりわけ何がすごいのかと言うと、動物なのに主演をこなしたビーバーの存在である。
中盤でビーバーがライフル銃を滅多撃ちにしたシーンにいたっては、危うく飲みかけのコーラを噴き出すところだった。
あのリアルビーバーに拍手の一言である。
「マジで面白かったですね」
いつもより三割増しほど明るい笑顔で映画の感想を話している彼女にそう言葉を返すと、彼女は嬉しそうに頷いて、チーズケーキを食べていたフォークをテーブルの上に置いた。
「夏目君はどのシーンが一番良かった?」
ミルクティーを啜りながら、彼女が聞いてくる。
そう聞かれると、結構泣き所が多かった分迷ってしまうが、一番と聞かれたら、やっぱりあのシーンが頭に思い浮かぶ。
逆にあのシーン以外はないと言っても過言ではない。
あのシーン以外をあげるやつがいるとすれば、それは邪道、もしくはミーハーと言うやつだろう。
俺自身もミーハーな人間ではあるのだが、この映画に関してだけは自信を持って言える。
あのシーン以外はあり得ないはずだ。
「やっぱり、あのシーンじゃないですかね」
「だよね、やっぱりあのシーンだよね」
やはり、彼女の意見も俺と同じみたいだ。
どうやら、昼休みなどの時間を共にしてきたせいか、俺と彼女の思考は徐々に似通ってきているらしい。
もしや、これが以心伝心というやつなのだろうか。
彼女とは短い付き合いではあるが、そんな上等なスキルをこんな短期間で習得できるとは思いもよらなかった。
彼女も俺と同じようなことを考えていたのか、ニヤニヤしながら「やっぱり君もか」などと喜んだ様子を見せている。
これが、複数人で行う映画鑑賞の醍醐味と言うやつなのだろう。
感動を、感想を、共感できる。
ソロプレイでは中々味わえない感覚だ。
「逆にあのシーン以外はあり得ないと思います」
「うんうん」
誰かに共感してもらう事。
それが嬉しかったのか、俺も思わず表情を緩めて彼女に言葉を返す。
「一番良かったシーンはやっぱり……」
『劇場版ビーバー、女帝になる。』
一番良かったシーンと言えばやはり………
「ラッコ大佐が仲間をかばって爆死するシーンですよね!」
「王女のビーバーの呪いが解けるシーンだよね!」
………前言撤回。
俺達は、ほんの一ミリたりとも分かり合えてなんかいなかった。
以心伝心?
そんなもの、夢のまた夢の話だ。
な、何でだ!
この映画で一番良かったシーンと言えば、冷徹無比なラッコ大佐が最後の最後で部下を庇って爆死するシーンじゃないのか?
たしかに、ラッコ大佐は序盤の方では救いようのないクズだった。
任務に失敗した部下の夕食のホタテに毒を仕込んで殺すだとか、権力を使って居酒屋のメニューをホタテのバター焼き一択にするだとか、ホッキ貝を迫害するだとか、畜生人間もとい畜生ラッコっぷりを見せていたこともあった。
でも、そんなラッコ大佐が最後の最後で人情、いやラッコ情を思い出し死んでいくのだから心を揺さぶられるんじゃないか。
敵なのに、何だか人間味、いやラッコ味がある。
だからこそ、美しくて、儚い。
その儚さに涙する。
はずなのに、彼女にとってはそうではないらしく、本当にありきたりな、既視感の強い王女の呪い解除の場面をベストシーンに上げてきたのだ。
おかしい、絶対におかしい。
彼女はこの映画の良さをこれっぽっちも理解していない。
もしかして、実は感性が乏しいんじゃないのか?
「本気で言ってるんですか?」
「夏目君こそ、本気なの?」
「え、いや、だって、どう考えたってラッコ大佐が死んだところが一番のピークじゃないですか」
「それだけは絶対にない」
「なっ……九条先輩おかしいですよ」
「そ、それはこっちのセリフだよ! 普通に考えて、あのシーンに泣く要素なんて一つもなかったし、それにラッコ大佐ってそもそも悪役じゃん」
二人の間に、ビキビキと音を立てて見えない亀裂が生まれていく。
彼女も納得できないのか、どうやら一歩も譲る気はないらしい。
悪役は悪いことをしたんだから成敗されて当然だという正論を持ってきたあたり、俺の意見を潰す気満々なのが分かる。
こうなってしまえば、もうお互いに退くわけにはいかないのだろう。
いつもは彼女の意見に俺が折れることが多いが、今回はそういうわけにもいかない。
なぜなら、俺には自分の意見以外にも背負わなければならないものがあったからだ。
ラッコ大佐の、敵役の、すなわち全世界全ての悪役達のプライドが、その生き様が、今、俺の背中に乗り合わせている。
だから、簡単には引き下がれない。
やるというならやってやろう、全面戦争だ。
俺を振り回すのはいいが、悪役の生き様まで振り回すのは許さない。
ちなみに俺は、守るものがある時ほど強い人間なのだ。
証拠と言ったら何だが、小学校の頃に良く見られる、じゃんけんで負けたやつが全員分のランドセルを持つという類のゲームでも、一度も負けたことがないほどにディフェンス時には強い。
悪役のプライドを背負った今、俺に死角なんてものは存在しない。
だからこそ、何としてでも彼女に、むやみに悪役を馬鹿にしてはいけないのを分からせなければならない。
「悪役だからって、全てが悪いと決めつけるのは良くないと思います」
「でも、ラッコ大佐は本当に悪いヤツだよ?」
「確かに悪いヤツでしたけど……」
「でしょ?」
「でも、それだけじゃないって言うか……悪役には悪役なりの美学があるって言うか…そういうところは認めてあげるべきですよ」
「どうしてそんなにラッコ大佐に肩入れするの……」
「悪役のプライドを守るためです」
「何それ……」
「とにかく! 部下を庇って爆死するような奴……いや、ラッコを貶すような発言は俺が許しません!」
「……え?」
俺が力を込めてそう主張すると、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を見せ、すぐに信じられないといったような様子で再度問いかけてきた。
「今、何て言った?」
「だから、部下を庇って死ぬような人間……ラッコがただの悪い人間……ラッコだとは思えないって……」
「ち、違うよ!」
彼女は身を乗り出して、少々荒っぽく否定の言葉を口にした。
「あれ、部下を庇ったんじゃなくて、自分だけ助かろうとして自爆したんだよ!」
…………はい?
いや、待て待て、そんなはずはない。
俺は確かに見たはずなのだ。
漢・ラッコ大佐が自己犠牲の精神のもとに自爆したところを。
この目に狂いはないはず……
「う、嘘だ! そんなはずあるわけ……」
にわかに信じがたい彼女の言葉を俺は認めなかった。
そうやって反抗し続けていると、不意に、彼女も重要な事を思い出したようで、突然その目を細め、訝しむ様に俺に聞いてくる。
「そういえば……ラッコ大佐が自爆する少し前くらいかな、夏目君の方から、気持ち良さそうな息遣いが聞こえてきたんだけど……」
疑うように、彼女はこちらをじぃっと見つめてくる。
「まさか……君……」
彼女は言葉と言葉の間を十分にためて、
「寝てたわけじゃないよね?」
俺を試すような口ぶりで、そう言った。
……………………
い、いや、誤解だ。
完全に彼女の誤解だ。
それは、俺の寝息なんかじゃない。
だって、そんな事をした覚えは俺の記憶の中にはないのだから。
記憶がないのなら、行動はない。
なので、俺の身の潔白は証明されたも同然……ん?
記憶がない?
いや、それはおかしい。
目覚めていたのなら、寝ていないという記憶は存在するはずだ。
それに、よくよく考えてみると、ラッコ大佐が死んだ前後の記憶も実は曖昧だったりする。
という事は何だ?
これは、つまり……
「そ、そうでした、そうでした! そういえば、ラッコ大佐って部下を身代わりにしようとしてましたよね。ハハ、やっぱ悪役ってろくなヤツいねーわ」
自分が映画そっちのけで居眠りしていたのを誤魔化すために、俺はいとも簡単にラッコ大佐を切り捨てた。
というか、アイツ自分が助かるために部下を見捨てたのか?
とんでもない下衆じゃねーか!
漢ラッコとは一体何だったのだろうか……
「………」
「ど、どうしました九条先輩」
「……あやしい」
「うっ……」
しかし、急に主張を変えてみたところで彼女を誤魔化しきれず。
「そ、そろそろ出ましょうか……」
依然として訝しむ様にこちらを見る彼女の視線に耐えきれなくなった俺は、この場を収めようと、そう彼女に伝えた。
すると、彼女は細めていた目を開いて、小さな声で「まぁ……今日のところは見逃してあげようか」と呟き、呟き終えると同時に、俺に向かって「そうだね」と言って、テーブルの上に置いてあった自分の荷物を整理し始めた。
た、助かった……そう心の中で静かに安堵しながら、俺も身支度を整えた。
別々に会計を済ませ、店の外に出る。
時刻は六時三十分を回っていたが、まだまだ外は明るくて、夕日はほんのりと赤く、優しく街を照らしていた。
夏が来る。
そう言わんばかりに最近は気温も高くなってきた。
二人並んでアスファルトの上を歩き、駅の方面を目指す。
「夏目君」
ふと、彼女が俺の名前を呼んだ。
「何ですか?」
「最近、昼休み以外にも私につき合わせちゃってるね」
「本当ですよ、まったくもう」
「あはは」
ふざけて、強気な態度で彼女にそう言った。
すると、彼女は力なく笑って、少しだけしゅんとして俺に尋ねてくる。
「迷惑……かな?」
「……いや、まぁ、別に、迷惑とかではないですけど」
いつもなら負けじと俺に突っかかってくるはずなのに、彼女が急にしおらしい態度を取るので、焦ってそれを否定する。
すると、彼女はとても柔らかい笑顔を向けて言った。
「君は、優しいんだね」
目と目が合う。
視線と視線がぶつかる。
そうやって、二人で見つめ合ったまま少しの時間が過ぎた。
結局、恥ずかしくなって最初に目を背けたのは俺の方で、そんな俺を見て、彼女はクスクスと笑っていた。
「私はこの映画、夏目君と見れて楽しかったよ」
「そ、そうですか……」
「うん! だから、誘って良かった。一緒に来てくれてありがとね」
「は、はぁ……」
彼女は続けてそう言った。
そんなセリフをそんな顔で言われてしまうと、何だかこう、むず痒くなってしまう。
あざといというか、何というか、その……ずるい。
照れた自分の顔を彼女に見せたくがないために、極力彼女の方を見ずに、そっぽを向いて歩いた。
そうして駅前に近づいていき、大きめの別れ道に差し掛かったところで彼女は足を止め、右側の道の方を指さして俺に言った。
「わたし、帰り道こっちの方なんだ」
「あぁ、じゃあここで……」
「そうだね」
彼女はそう頷いて、俺から離れていく。
華奢で、小さな後ろ姿を見送っていると、ちょうど三メートルくらいの距離が離れたところで彼女は突然こちらに振り返り、俺に言った。
「明日も、昼休みに屋上で待ってるね」
いつも通りなのに、分かっていたはずなのに、急に振り返ってそんな風に言うから、心臓がドキリと鼓動してしまって、気の利いたことも言えずに、俺はただ無言で彼女の言葉に頷いた。
いや、頷くことしかできなかった。
「またね、夏目君」
挙動不審な俺のことなどお構いなしに、彼女は笑顔で手を振り、くるりと進行方向に向き直ってこの場を去っていた。
「ふぅ……」
彼女が消えたその場所には、冴えない男子高校生と力のない溜息だけが残った。
最近、俺の中での彼女の認識は変わってきている。
少なくとも、今は「面倒くさい人」だなんて微塵も思っていない。
彼女には、色々な一面がある。
演技をしている時の楽しそうな表情。
自分が有利な時に見せる得意げな表情。
失敗した時のいじけたような表情。
たまに見せる冷たく、そして悲しげな表情。
以前の俺だったら、彼女のことなんてどうでもよかっただろうし、気にも留めず、興味も示さなかっただろう。
でも、なぜだろうか。
今はそれを知っているし、彼女をもっと知りたいとも思ってしまう。
おそらく、俺の中での彼女の認識が「面倒な人」から別のものへと変わり始めたからだろう。
こんなこと、今まではあり得なかった。
一緒にいてそう思える人物なんて家族と西野くらいしかいなかったのだから、彼女は俺にとって、家族や幼馴染と同じ、貴重で特別な人物なのかもしれない。
でも、彼女と接するのと、西野や家族と接するのとでは、何かが決定的に違う気もした。
気を張らない。
自然体でいれる。
言いたいことを言い合える。
そんなことを、彼女といる時には良く考える。
しかし、それは西野や家族といるときにだって言えることだ。
問題はそれ以外の感情。
彼女と話していると、『面倒が嫌い』という自分らしさが消えてしまう時が多々あるのだ。
彼女が悲しむ素振りを見せれば、ぶつくさ言いながらも自分の時間を投げうってまで協力したり、それほど他人に興味を持たない俺が、彼女のことになるともっと知りたいと思ってしまったり。
今日だって、彼女と出会う以前の俺なら問答無用で直帰、映画に付き合うだなんてあり得なかったはずだ。
確実に、彼女の前ではいつもの自分でいられなくなっている。
彼女に付き合う内に、決定的な何かが変わってしまったのだろうか。
今となっては、自分で自分がよくわからなかった。
彼女を考えると、モヤモヤする時だってある。
一体、この感情は何なのか。
体験したことがない分、それを理解するのは難しかった。
いや、本当に分からないわけではないのだろう。
人づてや、ドラマや、映画や、小説や、ゲームやらで、その類の感情については、ある程度の知識を持っている。
ただ、それが自分の身に巻き起こった時、簡単には信じられないだけで、自分の中では薄々勘付いていたのだろう。
たぶん……俺は……
頭の中でその単語を思い浮かべようとして、寸でのところで堰き止めた。
俺は、何を浮かれているのだろうか。
彼女からしたら、俺なんて「都合のいい後輩」程度にしか思われていないはずなのに、それに自惚れて、彼女に対してそんな感情を持ってしまうのははっきり言って気持ち悪いの一言だろう。
それに、出会ってまだ数週間。
夏の暑さにやられた俺の勘違いという可能性も否めない。
そんな不明確な、中途半端な気持ちで彼女に接したくはなかった。
だから、今はまだ、この感情を認めるわけにはいかない。
パン! と自分の頬を両手で叩いて、身を引き締める。
俺と彼女は、ただの先輩と後輩だ。
心の中にそう刻んで、俺は帰路への一歩を踏み出し、その場を後にした。
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