第13話 九条凪⑥
【七月十一日 水曜日】
徐々に彼女と打ち解けはじめ、息が詰まるような気まずさも、他人行儀な関係性も薄れてきていた今日この頃。
昼休み、俺は彼女と演技の練習をするために、屋上に向かって……いなかった。
一昨日、ご機嫌な下校時間を邪魔され、昨日、まどろみの昼休みを無にされ、今日も今日とて貴重な昼休みの時間を彼女に害されるのだと、そう思っていたはずなのに。
何故か。
それは、彼女の都合が合わなかったからである。
どうやら今日の昼休みは彼女に用事があるらしく、思いがけない仮初の自由を手に入れてしまったのだ。
人の予定は一切考慮しないくせに、自分の予定は滞りなく遂行するのはいかがなものか。
まぁ、そもそも俺に予定なんてものが存在しないから、こうして彼女に振り回されてしまっているわけなのだが、それでも、彼女の意外とわがままというか、頑固な性格にはうんざりしてしまう。
はぁ……と溜息を吐きながら、廊下を歩く。
やめだやめだ、今日くらい、彼女のことは考えずに自分のことを考えよう。
そう踏ん切りをつけて、普段は滅多に訪れることのない教室のドアを開いた。
古びた紙の匂いが、鼻腔をくすぐる。
教室の中には二・三組の生徒と、一人の女性教員がいた。
扉を開く音に反応した数人の生徒と目が合う。
けれど、特に言葉を交わすわけでもなく、すぐに目を逸らして、また、各々の目的のために体を動かした。
ここは、この学校の図書室である。
何故、小説どころから漫画すらもあまり読まない、活字を見ただけで鳥肌を立たせるような俺がこの場所を訪れたのか。
原因は、例の夢にあった。
幼い頃から見続けた、ぼやけた、何もない世界の、あの夢だ。
変わらないはずのあの夢に、変化が生じた。
その事実に、その変化に違和感を覚えて不安に思っていたのだけれど、ここ最近は彼女、九条凪に振り回され過ぎて、あの夢について悩むこと、考えることを疎かにしてしまっていた。
所詮は夢だからとお茶を濁していたけれど、気になることには気になるし、調べておいて損はない。
だから、不意に訪れた暇、もとい自由な昼の時間を使って、あの夢について調べてやろう、不安を解消してやろうと思ったのだ。
それが、図書室を訪れた魂胆である。
一応、スマホを使って調べてみたものの、碌な資料は見当たらなかった。
インターネットは浅い知識の検索には便利だが、物事の真理を知るには少し役不足だったようだ。
大学生の従弟も「Wi〇ipe〇iaコピペしたレポート提出したら単位落とした……」と言っていたので、やっぱりネットに頼りすぎるのはあまり良くないのだろう。
書物こそが、人類が積み重ねてきた英知の集結なのであると、スマホのニュースアプリにも書いてあったような気もする。
やっぱり読書がナンバーワンなのだろう、普段、全く本読まないけど。
適当にぶらつきながら、お目当ての本を探す。
本来なら、カウンターで係の生徒か教員に申し出て探してもらうのが最も手っ取り早く本を見つけ出す手段なのだろうけれど、やめておく。
だって、いかにも根暗な、黒魔術を嗜んでいそうな風貌をした俺が、突然「あ、あの……夢占いの本とか……ありますか……デュフフw」だなんて尋ねてきたら、それはもう事件だもの。
絶対にオカルトマニアだと思われるもの。
誰かを呪い殺すんだろうなとか思われそうだもの。
無駄な恥は、かきたくない。
それに、先程から妙な視線をカウンターの方から感じるような気もする。
おそらく、俺という人間が、この紙に覆われた神聖な書物の世界に不釣り合いなのだろう。
普段、本に興味を持っていないのがバレているのだろう、浮いているのだろう、不審に思われているのだろう。
異物として敵視されていると、そんな気がしたのだ。
だから、極力目立たずに目的を達成したかった。
本棚の上に掲示されている「文学」「経済」などの分類を目で追いながら、「夢」に関する資料を探す。
そうして数分後、「占い」と分類された本棚の中に、その本を見つけた。
上の段には「催眠術」関連の本、下の段には「手相占い」の本が並べられており、読む前からどことなく胡散臭さを感じてしまう。
大丈夫かこれ……と呆れながら、数冊の本を手に取る。
『心理学における夢』『夢占い・入門』『サルでも分かる夢占い・夢について』。
その三冊の中から、比較的簡単そうな『サルでも分かる夢占い・夢について』という本を手元に残し、他の本達を棚に戻す。
表紙を見る。
カラフルな文字で印刷されたタイトルの下に、「超簡単」、「バカでも分かる!」といったセリフを発する、デフォルメされた豚が一匹……
……いや、そこはサルじゃねーのかよ! しかも、読者のことバカとか言っちゃってるよ! 本当に大丈夫かこの本……
そう、不安になりながら紙をめくり、最初のページに目を通した。
【夢】
夢とは、睡眠中に持つ幻覚のこと、あるいは将来実現させたいと思っている願望、願いのことを指す。本書では前者の概念における夢について解説していく。
はじめに、という見出しに続いて、夢についての概略、この本で描かれる題材についての説明がなされている。
えぇ……中身は結構真面目なのか……絶対に表紙で損してるよ……なんだよあの豚……
と、動揺しながら続くページをめくった。
【特徴】
視覚像として現れることが多いものの、聴覚、触覚などの五感を伴うこともある。通常、睡眠中はそれが夢だとは認識しておらず、覚醒後に自分が見ていたものが夢だったと認識することが多い。また、夢の中では“痛み”すなわち“痛覚”を感じないのが一般的である。
次のページには“夢”の具体的かつ世間一般的な認識が記されていた。
記されてある内容と、自分が体験したあの世界の内容を照らし合わせてみる。
あの夢の中には、何もない。
ぼやけた世界の中には、確かに景色は存在しない。
しかし、“景色がない”という事を“視認”しているのだから、“視覚”はあるという事になるのだろう。
アイツという存在も確認しているため、視覚があるという事実は揺るがない。
なら、聴覚、触覚はどうだろう。
味覚は? 嗅覚は?
分からなかった。
そもそも、あの世界ではそれらの感覚があるのどうかを確かめる機会がなかった。
聞こえ“無”い、触れ“無”い、味わな“無”い、匂わ“無”い。
あのぼやけた世界は“無”に近い代物だ。
だから、それらを感じることは不可能。
あの世界でその感覚を、その五感を俺にもたらしてくれる可能性を持つものはたった一つだけ、いや、一人だけ。
その存在をよく把握しきれていないのだから、確かめようがない。
なら、あの世界は夢ではないのだろうか?
答えはノーだ。
あの世界は、俺が眠りにつき、目覚めるまでに現れる世界だ。
俺があの世界にいるとき、夢だ、という認識はないし、目が覚めた時、またあの夢か、と思ってしまっている。
それは、あの世界が夢であることを裏付けるには充分過ぎる事実になるのだろう。
自分がそう思っているわけだし、本にもそう書いてある。
本を読んで、迷いが晴れた。
あの世界は、ぼやけた世界は、俺が見ている夢の世界なんだというのを確信できたような気がした。
自分の身に巻き起こる怪現象の種類を確定させ、ふぅ、と息を吐いた。
いや、何も疲れるようなことはしていないのだけれど、それでも、前提を、認識を確かなものにしておくのは大切で。
これがもし、夢ではなく、生霊の仕業だと後から判明しようものならたまったものではない。
推理の入口を誤ってしまえば、真相という出口にはいつまでたってもたどり着けない。
慎重になってしまうのも仕方がないだろう。
“真実はい〇も一つ!”
という言葉を多くの人に送りたい。
“夢の中では、痛みを感じない”
という記述の部分は軽く読み飛ばしておいた。
触覚の存在が曖昧なのに、痛覚もくそもないだろう。
俺の夢には関係ない。
導入の部分を読み終わり、さらに細かな夢の種類について読み進めていく。
夢にはどんな種類があり、俺が見た夢はどれに当てはまるのか。
そしてその夢にはどのような意味があり、どのような解決方法があるのか。
それらを知れたら御の字だと、微かな期待を抱いてページをめくった。
【過去夢】
過去夢とは、脳内を整理するために、過去の記憶が夢となって現れる現象である。
【明晰夢】
明晰夢とは、夢の中で「これは夢である」と気づく夢である。
【願望夢】
願望夢とは、現実では叶えられない理想を実現し、欲求不満を解消する夢である。好きなアイドルとデートをする、億万長者になって贅の限りを尽くす夢などがこれにあたる。
三つの夢についての記述に目を通す。
これは……俺の夢には関係ないなと、そう思った。
あの夢は、過去の記憶なんかじゃない。
なぜなら、俺の頭と体の中には、覚醒した意識の中には、あのようなぼやけた世界でたそがれた経験や、あの世界をこの目で見た記憶が存在しないからだ。
あの夢は、明晰な夢なんかじゃない。
なぜなら、あのぼやけた世界の中で俺は、これは夢だという認識を持っていないからだ。
あの夢は、己の願望なんかじゃない。
なぜなら、何もない世界で、意味不明な物体・存在と過ごしたいだなんて、これぽっちも望んでなんかいないから……いや、逆に望んでたらヤベーだろ。
とりあえずこの三つの夢ではないと、そう仮定して次のページに進む。
【前世夢】
前世夢とは、前世の記憶が出てくる夢である。夢の世界をひどく懐かしく思ってしまうらしい。
この夢については、正直何とも言えなかった。
あの世界が、俺の前世の記憶だと言われても否定はできない。
なぜなら、俺は自分の前世を知らないからだ。
あのぼやけた風景が、あの未知の存在が、自分の前世に関係あるのかもしれないし、関係ないのかもしれない。
肯定も、否定もできなかった。
ただ、一つ。
あの夢、あの世界、あの風景を見た時に、懐かしいだなんて思ったことは一度もない。
それは、確かだった。
あの存在を、アイツを見た時に感じる想いはある。
けれどそれは、懐かしいなんて暖かみのある感情ではなく、もっと薄暗くて、排他的な感情だ。
そういった観点から考えると、あの夢は、あの世界は、俺の前世の記憶なんかじゃないと、そう思えた。
そう思うことを、どこかで納得している自分がいた。
【予知夢】
予知夢とは、未来に訪れる危機を予知する夢である。災害が発生する夢をみた数日後、本当に災害が起きた、という夢がこれにあたる。警告夢と似通ったところがある。
【警告夢】
警告夢とは、これから起きるであろう悪い事、そしてすでに起きてしまった悪い事へ警告を表す夢である。夢主、すなわち、夢を見た本人は行動を変えることが望ましい。“悪夢”とも呼ばれている。
次のページをめくり、その項目を目にした瞬間、妙な胸騒ぎを覚えた。
あの夢は、あの世界は、俺にこれから降りかかるであろう危険を予言し、そして警告しているのではないのだろうか。
可能性は十分にある。
あの夢の禍々しい世界観、そして幼少期から同じ夢が繰り返されるという異常性。
どこをとっても、何かを警告し、危険を仄めかしているような気がしてならなかった。
じゃあ、あの夢は何を警告している? 何を仄めかしている?
頭を捻らせた。
あのぼやけた景色は、あの何もない空間は、何を俺に警告し、何を俺に仄めかしている。
不透明なまま思考は停滞してしまい、何か、手掛かりはないかと次のページをめくった。
【魂の共鳴】
魂の共鳴とは、他者からのメッセージが夢の中に紛れ込む現象である。
その文字と共に、あるものの、いや、ある者の存在が、イメージが頭の中心を占めた。
アイツは、影で覆われた、得体のしれないアイツは、俺に何かのメッセージを送ろうとしているんじゃないのか?
アイツは、何かを警告しようと、俺の夢の中に現れたんじゃないのか?
そう考えると、心臓の鼓動が速まるような、そんな気がした。
嫌な汗が、全身を伝う。
じゃあ、アイツは何を警告しようと俺の夢の中に現れた?
アイツは誰だ?
いや、そもそもアイツは誰かなのか?
意思を持った何かなのか?
稚魚のように疑問が生まれて、頭の中を膨らませていく。
考えても、分からなかった。
当たり前だろう。
気紛れに図書館を訪れて、気紛れに調べて、気紛れに疑問を抱いただけなのだ。
そう簡単に全てを把握できたら苦労はしない。
けれど、それでも知りたくて。
答えをこの手で掴み取りたくて、続くページをめくった。
そこに、真実があるような気がして。
真理に、到達できるような気がして。
【ストレス夢】
現実世界でのストレスが夢に反映されてしまう現象。ストレスが大きいほど、見る夢は禍々しく残酷なものになる。
…………………………あっ。
こ、これだぁぁぁぁ!
今までの全てを、あの夢を、あの世界を説明する、全ての辻褄を合わせてくれる言葉がそこにはあった。
全て、全てはストレスが原因で起こった現象なのだと、あの夢はストレスによって作り出された妄想世界なのだと、そう納得してしまった。
確かに、面倒事が大嫌いな俺は生きているだけで日々ストレスをため込んでしまう質だ。
そんな習性が、体質が、この夢の発生原因だったなんて文字通り夢にも思わなかった。
ストレスが原因というのなら、あの禍々しい世界観にも納得できる。
夢を見る頻度が増えたのもそうだ。
頻度が増えたあたりに、俺はとんでもないストレス原と巡り会ってしまっているではないか。
名前を言ってはいけないあの人、つまりは屋上の殺人鬼、つまりは彼女、つまりは九条凪との出会いこそが、俺の夢を狂わせた原因であり、答えだったのだ。
かぁー! バカバカしい!
結局、今回も彼女が一枚噛んでいたじゃないか。
彼女はどこまで俺を振り回せば気が済むのだろうか。
某青春アニメのヒロインもびっくりのからかいっぷりである。
俺は苗字を〇方に改名すべきなのだろうか。
勢いよく本を閉じ、はぁ……と溜息をつく。
悩んでいたのを、心の底から後悔した。
どっと疲れが体を襲う。
今日はもう、頭を使うのはやめておこう。
そうだ、午後の授業は西野に具合が悪いからとでも嘘をついてサボってやろう。
サボって、屋上で昼寝でもしよう。
そうしようと思いながら、本を棚に戻そうとしたその時、トントンと左の肩を叩かれた。
え、誰だ?
そう思って後ろに振り返る。
「ぶっ……」
「あっ、引っかかった!」
白く細い人差指が、頬に突き刺さる。
突然の出来事に混乱しながら、頬に突き刺さった指の先へと視線を向けた。
…………彼女だ、九条凪である。
どこから湧いたんだろう、この人は。
俺の行く先々に現れて、俺の邪魔をして、馬鹿にする。
まさか発信機でも付けられてるんじゃないだろうな。
何だそのメン〇ラ彼女みたいなやり口。
付き合ってもいないのにそんなことをされたら堪ったもんじゃない。
「…………」
「そ、そんなに睨まなくても……」
「こういうの、やめてくださいって言ったじゃないですか」
「うん、だから今回は突進するのはやめて、もっと可愛げのある感じに……」
「そういう問題じゃない!」
「きゃー!」
悲鳴、いや、悲鳴と呼ぶにはあまりにもふざけた、まるで喜んでいるような棒読みの叫び声を彼女が上げる。
表情は笑顔、完全に俺をからかって楽しんでいるように見えた。
あ、これは教育が必要なようですね。
たまにはガツンと言ってやらないと、彼女は分からないみたいだ。
なら、言ってやろうじゃないか。
見せてやる、陰キャはキレると怖いということを。
キレると記憶がなくなって、見境なく周囲を攻撃し、「殺すよ?」とか言いだしちゃう凶暴性を、そして、それをツイッ〇ーで自慢しちゃうような自己顕示欲の浅はかさを、見せつけてやる。
今日から俺は、イキリ夏太郎である。
「だいたい九条先輩は……九条さんは……」
…………………
あ、やべ、無意識に九条先輩って呼んじゃった。
一昨日彼女に言われた「これからは先輩と呼ぶように」という約束、うっかり守ちゃった。
なんで忠実に従ってんだよ、俺。
これじゃあ、まるで彼女に懐いてしまっているみたいじゃ……
彼女を見る。
ニンマリと、引っ叩きなるくらい嬉しそうな、光悦とした表情を浮かべている。
くそ! しくじった!
ガツンと言うどころか、これじゃあ却って彼女のいたずらを助長しかねないじゃないか。
「……ふふ、ごめんね、夏目君見ると、ついついちょっかい掛けたくなっちゃって……それより、図書室にくるなんてどうしたの? 何か調べもの? 夏目君が入ってきた時、びっくりしちゃったよ」
猫を愛でるように俺を見ながら、彼女が言う。
どうやら、先程から感じていた視線の正体は彼女のものだったらしい。
人を悩ませる天才か? と、そう思った。
俺の身の回りに起きる悩み、全部こいつのせいなんじゃね? とも思った。
もしかしたら、彼女は俺にとっての疫病神みたいなものなのかもしれない……
疫病神を見る。
しかし、疫病神……もとい彼女はこちらを見てはいなかった。
俺の右手、いや、厳密に言えば右手の中にあるそれを見ていた。
まずいと、そう思って急いでそれを本棚に戻そうとするけれど、時すでに遅し。
彼女は素早く俺の手からそれを盗み取り、両手で持って表紙を凝視した。
「えーっとなになに? 『サルでも分かる夢占い』? 夏目君、占いとか興味あるの?」
「いや、これは……」
うわぁ……最悪だ。
まるで、コンビニでエロ本を立ち読みしていたら、後ろから同級生、しかも女子に話しかけられた時のような絶望感。
いや、それよりもひどいかもしれない。
占いを信じる男ほど女々しいものはない。
本当の理由、よく見る夢について悩んでいたというのもそれはそれで女々しくて言えないし、完全に詰んだ。
彼女の中で、俺のあだ名が夏目・乙女チック・隼人になっていてもおかしくはないだろう。
また、バカにされる。
というか、この人はプライバシーというものを知らないのか?
人が読んでいた本を許可もなく奪いとるなんて……この、ガサツ女が!
「…………最近、昼休みに変な女の人に絡まれるから、どうにかその悪夢を解決する方法を調べようと思って」
「私、悪夢扱い!?」
何とか誤魔化そうと、頭を捻って精一杯の皮肉を彼女に送る。
軽く笑い飛ばされると思いきや、意外と効いたようで彼女はショックを受けたような表情をしながら後ずさりした。
「いや、冗談ですよ」
「ほ、本当?」
「はい」
「はぁ~よかった」
気にしているような素振りを見せた彼女が何だか可哀想になって、こちらからフォローの言葉を投げかける。
すると、彼女はほっと一息ついて、安堵の表情を浮かべながらこちらに近づいてきた。
そうだよな、いくら何でも悪夢だなんて言葉が悪すぎる。
反省、反省……
「悪夢って言うより、地獄に近いです」
「もっとひどいよ!」
……するとでも思ったかぁ?
残念! 反省じゃなくて反撃でしたぁ!
こちとらそれ以上に迷惑かけられぱなっしなんじゃ!
たまには、俺の気持ちを、俺の屈辱を、体感しろ!
まさに外道。
「冗談はさておき、九条先輩は図書室で何をしてたんですか?」
「うぅ……冗談に聞こえないんだけど……えっとね……あ、そうそう、夏目君をね、着けてきたん……」
「そうですか、じゃあ続きは法廷で聞きますんで」
「え!? ま、待って! 冗談だから!」
「知ってます」
「え?」
「俺をつけてきたっていうのは嘘なんですよね、知ってます」
「……むぅ……可愛くない」
「それはお互い様です」
「なっ……女の子に可愛くないとか……良くないと思う」
「じゃあ、可愛いです」
「えっ!?」
「すいません、嘘です」
「も、もう! からかわないで!」
高度な心理戦? が続くも、俺の方が一枚上手だったようで、何とか彼女に競り勝った。
一昨日、一緒に帰った時から思っていたが、この人、真面目で頭が良さそうに見えて案外チョロいのではないのだろうか?
そう思うと、目の前で顔を赤くして頬を膨らませてる彼女が少し可愛く思えてきた。
年上なのに、ちょろい。
男はギャップに弱いの生き物なのである。
「私、図書委員だから、今日の昼休みはカウンターの当番なんだよね」
「あぁ、なるほど、九条先輩が図書委員やるなんて意外……ではないですね。いかにも図書委員やってそう」
「それ、褒めてるの?」
「褒めるって言うか、そういうイメージって言うか」
「ふーん」
「どうしたんですか?」
「どうせ、私は馬鹿真面目な地味女ですよ~」
「い、いや、そういう意味で言ったわけじゃなくて……ほら九条先輩本好きそうだから……」
あ……まずい、地雷踏んだ。
自分では悪気なく、何気なく言った言葉であっても、その言葉が相手にとってもそうであるとは限らない。
俺にとっての「図書委員」の認識が、必ずしも彼女にとっての「図書委員」の認識と一緒であるわけではないのだ。
現に、何となく言ったその発言で、彼女は不機嫌になってしまっている。
あぁ、コミュニケーションって、いや、人間関係ってむずかしい。
「お、おすすめの本とかあるんですか?」
嘆いてばかりいても仕方がないと、そう思ってご機嫌を取るような、話題を強制的に変えてしまうような言葉を彼女に投げかける。
すると、彼女は薄目でこちらを一瞥し、プイッと後ろに振り返って、新刊コーナーと記載されている本棚に向かって歩きはじめた。
うひゃ~怖ぇ~これだから女は苦手なんだよ~なんて思いながら、黙って彼女についていく。
「これと、これ、あとこれとかも今人気があるかな」
本棚の前にたどり着くと、彼女はうーん……と唸りながら本を吟味し、数十秒後、五冊ほどの本を棚から取り出して俺に手渡した。
おぉ、すごい、さすが図書委員、と関心してしまう。
普段から図書委員の仕事をきっちりとこなしているから、咄嗟の質問にもこうして対応できるわけで、とても不真面目な人間にできる芸当ではない。
真面目だからこそ、本が好きだからこそ、できる芸当なのだ。
まぁ、彼女はその“真面目”という部分がお気に召さないらしいのだけど、それでも、すごいなと、そう思った。
もし、俺がそんな質問をされたらかいけつゾ〇リとかおすすめしちゃいそう。
いや、かいけつゾ〇リ面白いけどね、うん。
「詳しいですね、すごい」
「……ウチはお母さんが本読むの好きだからね」
「へぇーお母さんが。すごい」
「……うん、だから、流行りの本とかは大体揃ってるんだ」
「お母さん、何やってる人なんですか? 司書さんとか? すごい」
「ううん、普通に公務員。駅の近くにある役所で働いてるよ」
「公務員ですか、すごいですね」
「いや、そんな……えへへ」
素直な気持ちを、尊敬する気持ちを、すごいなという気持ちを、彼女に伝え続けてみた。
すると、彼女の機嫌は徐々に回復していき、最終的にはニヘラとだらしのない笑みを浮かべて、照れ隠しでもするかのように本棚の本を整理し始めた。
………………チョロ!
チョロいよ! ビックリする程のチョロさだよ! 行く末が心配になるレベルのチョロさ!
どうやら、俺の予想は当たっていたらしい。
彼女は、超がつく程の甘ちょろ人間だ。
普段の真面目で凛とした、とっつきにくいような見た目からは想像できないそのチョロさ、取るに足りなさを目の当たりにして、何だか複雑な気持ちになる。
え、これ大丈夫なのか?
この感じじゃ、今まで相当な数の人間に騙されてきたんじゃないのか?
あ、だから演技の練習なんかしているのだろうか?
人に騙される前に、人を騙せるように。
もしそうであるのなら、さすがに闇が深すぎる。
何だかいたたまれなくなって、彼女を直視できずに、彼女の弱点から目を背けるように手渡された本に視線を落とした。
掌の上に積み重ねられた本達に、順番に目を通していく。
五冊の確認を終えると、その本達の中に、ある一つの共通点を見出した。
「あれ、この本、似たようなタイトルが多いですね? どの本にも『君』、と『僕』って言葉が入ってる」
「あ~多いよね、そういうタイトルの本」
彼女に尋ねると、そんなタイトルの物語は世にありふれていると言わんばかりの様子でそう答えてくれた。
流行り、というよりも、もはや常套句みたいなものなのだろう。
現実で、日常で、現代の世の中で、自分の事を「僕」と言ったり、相手の事を「君」と読んだりする人物は、育ちの良い、高貴な生まれの人間、もしくは年老いた人間だけだと俺は思っている。
大体の人間が「俺」であったり、「私」であったりと、それらの言葉を一人称として利用している。
そして、誰かを呼ぶときには、その人物の名前であったり、「おい」だとか、「ねぇ」だとか、曖昧な言葉を使っているのが多いように感じる。
少なくとも、現実の世界では「僕」だなんて一人称を使う人間を、「君」だなんて呼び止める人間をあまり見たことがない。
若者だったら尚更だ。
けれど、物語の中では、フィクションの世界の中では、登場人物が「僕」であったり、「君」であったり、それらの言葉を普段使いの言葉として採用している場合が多いように思う。
あまり本を読まない俺ですらそういうイメージを持っているのだ、実際の数は、「僕」とか、「君」という言葉を使う登場人物の数は、かなり多いのだろう。
なぜだろう。
なぜ、現実とは相反した言葉を使うのだろう。
それは、物語の世界は虚構に満ちた世界だからだ。
と、自分で勝手に解釈した。
確かに、「僕」とか、「君」という言葉を使う登場人物はわりかし格好よく見えるし、色気が、儚さがあるようにも見える。
だから、みんな使うのだろうと、書き手は使ってしまうのだろうと、そう思った。
物語は作者の写し鏡であり、そして理想である。
と、国語の教師も言っていたような気がする。
理想の中では、格好をつけたいと思うのが人間の本心だ。
「僕」とか、「君」という言葉の方が格好いい。
だから、使う。
そう思うと、本の表紙に刻まれた「僕」と「君」という言葉が、背伸びをした子供のように見えて、少し可笑しくなってしまった。
「でも、私好きだな、そういう感じの言葉」
「『君』とか、『僕』とかがですか?」
「うん、タイトルとしても好きだけど、本以外でも、男の人の一人称が『僕』とかだったらかわいいなって思うし、『君』とか呼ばれたらドキッとしちゃうような気がする」
本の表紙を眺めていると、不意に彼女がそう言った。
そういえば、彼女もよく俺を「君」と呼んだりする。
違和感、というか、今時珍しいなと思っていたが、そういう嗜好があったのかと納得する。
「でも、男で『僕』とか言うやつ少なくないですか?」
「そうだけど……それがまたいいって言うか、特別感があるっていうか……身長高い人とかが「僕」って言ってると、いいなっていうか……」
「うわ、何ですかその特殊性癖」
「せ、性癖って……趣味趣向は人の勝手でしょ!」
「まぁ、自由だとは思いますけど……でも、男が、しかもガタイいいやつが『僕』って言うの、何だかなよなよした感じで気持ち悪いです」
「わかってないなー、ギャップがいいんだよ、ギャップが」
「変態だ……」
「ほ、放っておいて!」
彼女のマニアックな趣味は、あまり理解できなかった。
何だよ、ガタイのいい男が「僕」って言うのが好きって。
変態だよ、それはもう変態の趣味だよ。
いや、まて、俺がおかしいのか?
世の中の人々は、ガタイのいい男が「僕」と言うのを好むのか?
不安になって、想像してみた。
ガタイのいい男……あ、そういえば、西野は身長が高い。
世間一般的に見ても、西野はガタイがいい分類に入るだろう。
よし、じゃあ西野で想像してみよう。
そう思って、西野が「僕」という一人称を使うところを想像してみる。
…………うん、やっぱりアイツが僕とか言ってるの、気持ち悪いわ。
なよなよしてて、気持ち悪い。
つまり、俺はおかしくない。
彼女がおかしい。
彼女はやっぱり変態だ。
「あ、でも、それこそ夏目君とか身長高いから似合うかもね」
「俺がですか?」
「うん」
改めて彼女が変態であるというのを確信していると、彼女がそんなことを言い出した。
俺の身長は174センチしかなくて、男の中では平均的な、中肉中背な体型だなと自分では思っていたのだけれど、彼女にそう言われて少し嬉しくなった。
そうか、女子である彼女からすれば、俺は充分高身長なんだなとしみじみ思う。
あ、でも、俺も高身長にカテゴライズされるというのなら、彼女にとって俺は、「僕」という一人称を持つ男、略して「僕男子」の対象ということになってしまう。
それって、つまり……
「……ねぇ、一回言っ」
「嫌です」
彼女の目を見ず、即座に拒否。
ノールックパスならぬ、ノールック返答である。
「えぇ~」
「絶対に似合わない」
「そんなことないよ~」
「嫌ですよ」
「そこを何とか」
「嫌です」
「一生のお願い!」
「そこまで!?」
「『僕は君を愛している』でお願い」
「厚かましいな!?」
徐々に要求が大きくなっていく彼女に割と本気のツッコミを入れる。
けれど、彼女はちっとも折れる気配を見せず、いつもの、潤んだ瞳の上目遣いで拝んできた。
うっ……またか……。
「はぁ……もう、一回だけですよ……」
「ふふ、夏目君は優しいね」
してやったりと、彼女が不敵な笑みを浮かべている。
あぁ……またやってしまったと、彼女を甘やかしてしまったと自己嫌悪に陥ってしまう。
しかし、言ってしまったものは仕方がない。
それに、彼女は頑固なところがあるので一度言い出したことは絶対に譲らない。
抵抗したところで、最終的には彼女の思い通りになるんだ。
なら、あきらめてしまった方が楽だろう。
早々に腹を括り、彼女に背を向けて心の準備を整えた。
なに、前回の演技練習に比べれば大したことじゃない。
そのセリフを、その文章を読むだけだ、緊張する必要もないだろう。
ただ、「愛している」という単語だけは、中々敷居の高い言葉だなと思った。
けれど、気合で乗り切るしかない。
よし、行くぞ。
「僕は……君を……あ、愛して……あれ?」
目を閉じて振り返り、微かな羞恥心を抑えながら、ゆっくりと、そのセリフを言った。
しかし、「愛してる」の部分でどうしても恥ずかしくなって、目を開いて、彼女がどんな反応しているのかを確かめようとする。
けれど、目の前に彼女はいなかった。
あ、あれ?
無言のまま、周囲を見渡す。
すると、カウンターの前に彼女の姿を見つけた。
図書室を管理する教員と話をしている。
…………おい!
なんで聞いてないんだよ!
お前がやれって言ったんだろ!
叫び出したい気持ちを抑えて、舌を噛んだ。
しばらくすると、彼女はその教員との話を終わらせ、その教員から手渡された何冊かの本を持ってこちら側に歩いてきた。
「ご、ごめん夏目君、急に先生に手招きされて、仕事頼まれちゃった。また今度、ゆっくり聞かせて? 約束だよ?」
申し訳なさそうに、彼女が言った。
答えはもちろんノーである。
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