第12話② 九条凪⑤

【七月九日 月曜日】


 放課後、俺は軽やかな足取りで昇降口へと向かっていた。


 エネルギーが有り余っていて、体が軽い。


 体の調子がいいと、それに比例するかのごとく気分も良くなってくるようで、改めて休息の重要さを実感する。


 これもひとえに、本日の昼休みの演技練習が、彼女の都合によって中止になってくれたおかげだろう。


 先週の金曜日の昼、場合に応じた演じ分けの練習を終えた後、彼女から「月曜日は友達と約束があるから中止」という旨を伝えられ、今日の昼の練習は中止となったのだ。


 それを聞いた時、俺は心の中で静かに歓喜し、すぐにその申し出を快諾したのだが、言いだしの彼女の方は何だが申し訳なさそうな顔をしていて、俺に対して「一人で大丈夫?」とか「寂しくて死んだりしないよね?」だとか「私の友達と一緒にご飯食べる?」などと心配そうに聞いてきて、思わず青ざめてしまったのを今でも覚えている。


 もちろん、その誘いは断っておいたが、一体、彼女は俺を何だと思っているのだろうか。


 ぼっち、とでも思っているのか。


 いや、確かにぼっちみたいなものだけれども、孤独死を心配されるまでさびしい人間ではない。


 それに、もし俺が本当に寂しがっていたとしても、親しくもない上級生女子に囲まれて飯を食らうなんてことは絶対にしないだろう。


 実際にそれをやってしまったのなら、気まずさに耐えきれずその場で昼食用のパンを吐き出すまである。


 考えただけでも具合が悪くなってくる。


 彼女の行動は、いつも俺の予想を超えていく。


 本当に、読めない女だ。


 いつかはガツンと、俺の恐ろしさというか、威厳を見せつけたいものである。




 まぁ、それはおいおいどうにかするとして、今は自由な時間を楽しもうではないか。


 今日の昼休みは本当に良かった。


 誰もいない、誰にも気を遣わない、優雅で気ままな時間。


 それを過ごせたおかげで、午後の授業にも集中することができたし、今もこうして体が軽い。


 ありあまったエネルギーだって、学校が終わった後に有効活用できるのだ。


 やはり、休みには休むに限る。


 さて、家に帰って何をしてやろうか。


 そんな事を考えながら歩き、昇降口に到着する。


 靴を履き替え、まるで遠足前の小学生のごとく心躍らせながら出入り口の取っ手に手をかけると、突然、背後から俺より一回り小さいくらいの黒い塊がぶつかってきた。




「わっ!」


「ふわっ!」




 声を上げて驚き、すぐに後ろに振り返る。


 すると、そこには彼女、すなわち九条凪の姿があった。




「そんな驚かなくても……ちょっと傷つくな……」


「いや……いきなり突進されたらそりゃ驚きますよ……」




 お、驚かせやがって……。


 冷静を繕ってはいるが、現在進行形で心臓がバクバクしているのが分かる。


 なんせ、驚き過ぎて思わず変な声が出ちゃったくらいである。


 心臓にも、周りから見た俺の印象にも悪いので、今後はこういった行為をするのを遠慮していただきたい。




「夏目君、今帰り?」


「はい、そうですけど……」


「奇遇だね、私もなんだ」


「はぁ……」


「どっちの方面に帰るの?」


「駅の方ですね」


「ホント?」


「はい」


「またまた奇遇だね、私も駅の方なんだ、帰り道」


「そうなんですか……」




 彼女の言い草だと、偶然が何度も奇跡的に重なてしまっているように聞こえてしまうが、実際のところ、どれもこれも同じ学校に通っていれば高確率で被りうることである。


 帰宅時間が同じになってしまうのも、部活や用事がない生徒なら被ってしまって当たり前。


 帰り道が同じ方向なのも、学区が同じなら当たり前。


 奇遇なことなど一つもありはしない。


 それを指摘してやろうと思ったが、話が長くなりそうなのであえて何も言わない。


 今日は俺の中では休肝日、いや、休演日なのだ。


 演技にも、彼女にも、積極的には関わらず、とにかく家に帰りたい。


 そう思い、白けた顔で彼女を見ていると、彼女は一度、ニヤリと笑ったような表情を見せ、俺に言った。




「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうよ」


「えっ」


 


 ……………えっ、うそ……だ……ろ。


 この人は昼休みだけでなく、俺の放課後の時間まで奪い去ろうとしているのか。


 嫌だ、今日は早く帰ると決めていたのだ。


 このまま彼女について行けば、また何かしらの面倒事に巻き込まれるのは目に見えている。


 これ以上、俺の日常に浸食されては困るのだ。


 断ろう、そう決め、彼女を見る。


 すると、彼女は期待と不安を半分ずつ混ぜたような表情をしていた。


 それを直視してしまうと、何だか後ろめたい気持ちになるため、できるだけ見ないように、俺は彼女に断りを入れようとする。




「ダメ……かな……」




 しかし、俺が言おうとする前に、先に彼女が消えそうな声でそう言ったため、先を越された俺は何も言えなくなってしまう。


 何度も言うが、そんな言い方をされると、こちらにも罪悪感というかなんというか、そういったものが芽生えてしまって断りづらくなるのだ。


 あぁもう……本当にやめてくれ……それ……




「わかりましたよ……一緒に帰ればいいんでしょ……」




 抵抗するのをあきらめて、俺は渋々彼女の要求を飲んだ。


 すると、彼女は一度だけ頬を緩めると、「行こっか」と言って俺の隣に並んできた。




 二人で校門を出て、少し歩いたくらいの所で彼女が俺に聞いてくる。




「そういえば夏目君、進路希望ってもう決めた?」




 どうしてそんなことを聞くのか、不思議に思ってしまったが、深い意味はないのだろうと勝手に判断して、ありのままの真実を彼女に告げた。




「いや、まだですね」


「そうなんだ、進学希望? 就職希望?」


「それもまだ決めてないですね」


「えっ」




 彼女の問いに正直に答えていると、不意に彼女は驚いた声を上げ、すぐに俺の方へと向き直った。




「それって、大丈夫なの?」




 彼女が随分深刻そうに聞いてくるので、俺も一瞬不安になって、もう一度真面目に考えてみるも、やっぱり、特に問題は見当たらなかった。


 そもそも、高二の夏の時点で自分の将来を考えているヤツなど存在するのだろうか。


 まぁ、レベルも目標も高い奴なら考えていても不思議ではないだろうが、あいにく俺はそのようなエリートではない。


 それに、大体の大学でも就職先でも、勉強さえできていれば、高三になってから進路を決めたとしても十分に巻き返せるはずだ。


 だから、今の時点で進路が決まってなくてもそんなに深刻ではないだろうし、ほとんどの高校二年生が俺と同じはず。


 なのに、彼女はどうしてそんなに今の時期に進路が決まっていないのを危惧するのだろうか。


 それが、不思議でならなかった。




「まだ大丈夫だと思いますけど」


「で、でも、進路希望調査の紙って、今月末までに提出だったはずだよ」


「えっ、そうなんですか?」




 初耳である。


 もしや、俺が気づかぬうちにクラスで配られていたのだろうか。


 いや、でもそれなら西野が教えてくれるはず。


 一体、どこで配られたんだ……




「そうなんですかって……夏目君も貰ったでしょ?」


「俺、貰ってませんよ?」


「ホント?」


「はい」


「おかしいな……三年生は全員配られたはずなのに……」




 三年生は全員配られた? 


 それなら話は変わってくるだろう。


 俺は二年生だ。


 だから、進路希望調査の紙など配られるわけがない。


 なのに、彼女は俺にその紙が配られていないのがおかしいと主張している。


 これは一体どうゆうことなのか。


 彼女は、何に対して勘違いをしているのだろうか。




 …………ま、まさか……




「とにかく、今すぐ学校に戻って担任の先生に話したほうが……」


「あの、九条さん」


「何?」


「俺、二年生ですけど……」


「………え?」




 俺がそう告げると、彼女はその場で立ち止まり、こちらを見ながら黙り込んでしまう。


 その表情は固まっていて、混乱しているのだけは良く読み取れた。


 そうして少しの時間が経った後、彼女はようやく俺が言っていることを理解したのか、目を見開いて、絶叫した。




「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」




 彼女の声が、昼下がりの街に響く。


 そんなに驚くとは思わなかったので、彼女の反応に俺もびっくりして後ずさりをする。




「君、後輩だったの!?」




 えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ、はこっちのセリフである。


 本当に、俺を今まで何だと思っていたのだろうか。


 というか、どうやったら後輩じゃないと思えたのだろうか。


 謎である。


 あれか、同級生とでも思っていたのか。


 でも、敬語使ってたし、苗字にさん付けして呼んでいたのだから、一応の敬意は払っていたつもりだ。


 それなのに、後輩だと思われていないとはこれ如何に。




「今まで何だと思ってたんですか……」


「同級生だと……」


「同級生だったら敬語なんて使いません」


「いや、なんというか、誰にでも敬語で話す丁寧な人なんだなって思ってて、それに、大人びた顔してるから……」


「誰にでも敬語って……そんな面倒な生き方、考えただけで死にたくなりますよ」




 彼女の中での俺のイメージが、実際の俺の性格とはかけ離れ過ぎていることに絶句してしまう。


 誰にでも敬語で話す人ってなんだ。


 そんな人実在するのだろうか。


 俺が知っている範囲では、そんな人物はタ〇ちゃんとフリ〇ザ様くらいしかいない。


 あとあれか、大人びた顔ってつまりは老け顔って言いたいのか。


 こいつ、一回しばいておいたほうがいいのかもしれない。




「勘違いしちゃってたみたいだね、ごめんね」


「いや、別に謝まらなくてもいいですけど……」




 彼女が謝ってきたので、恐縮してそれを止め、再び道を歩き出す。


 彼女はまだ俺が年下だという事実を受け入れられないようで、力の抜けたような声で俺に話しかけてくる。




「そっかぁ、夏目君は後輩君だったのかぁ」


「はい、なので進路とかまだ決めてないです」


「そうだよね、二年生なら、進路なんてまだまだ遠い未来の話だよね」


「ですね、自分が将来何になるとか考えたこともない」


「あはは、でも、早いうちに目標定めておかないと、来年になって苦労するよ」


「えぇ……マジですか……」


「先輩の私が言うんだから間違いない」


「そういうもんなんですかね」


「そういうもんです」


「九条さんは進学ですか?」


「うん、一応ね」


「へぇ、じゃあ、もう受験するとことかも決めてるんですか?」


「………」


「九条さん?」


「……まだ」


「え?」


「まだ……決めてないんだ……」




 そう言うと、たちまち彼女はどんよりとした顔になり、あからさまに気を落としてしまう。


 おっと……先ほど彼女が言っていた『早めに目標を定めないと後悔する』という言葉は、どうやら実体験から生まれた悲痛な叫びだったらしい。


 な……生々しい。


 来年のこの時期、俺も彼女のようになっているのかと思うと今から胃が痛くなった。


 彼女の戒めの言葉、しかと胸に刻んでおこう。


 しかし、優等生だという彼女が、この時期になるまで自分の進路を決めあぐねていることは意外だった。


 成績がいいなら、大学なんて選り取り見取りだろうに。


 高三の夏は勝負の夏。


 上を目指す受験生なら早いうちに目標を定め、塾や夏期講習にだって通わなければいけないだろうに。


 それなのに、彼女はこうしてダラダラと俺と帰路を共にしている。


 大丈夫なのだろうか。


 俺には関係のないことなのに、少し不安になってしまう。


 そもそも、彼女はどんな大学を目指すのだろうか。


 やはり、進学するなら自分が興味のある分野を学べそうな学部を選ぶのだろう。


 なら、彼女と言えば演劇である。


 もしかしたら、その方面に進むために一人で演技の練習をしていたのかも知れない。


 何だ、それなら彼女の行動にも辻褄が合うし、おかしなことでもないじゃないか。


 長らく気にかけていた疑問が解決しそうになり、安心、というか、付き物が取れたような気分になった俺は、上ずったような声で彼女に聞いた。




「九条先輩はやっぱり、演劇系の大学に行くんですか?」




 俺がそう言った瞬間だった。


 突然、彼女の様子が、普段の柔らかいようなものから一変して、冷たく、鋭いものへと変化したのだ。


 どうかしたのか思って彼女の顔を覗き込み、俺はギョッとしてしまう。


 彼女の表情は、凍り付いていた。


 彼女はそのまま何も言わず、しばらくした後で、乾いた笑みを見せながら俺に答えた。




「……あはは、それはないかな」


「えっ……でも……」


「演技は、趣味みたいなものだから」




 俺と彼女の間の空気が固まっていくのが分かる。


 何かまずいことでも言ってしまったのだろうかと俺が狼狽えていると、彼女はそれを気にせず言葉を続けていく。




「はっきりとは決まってないけど、私が受けるのは普通の大学、一般的な分野の学部になると思うよ」


「そ、そうなんですか」


「うん、そう」




 彼女は笑顔を浮かべながら頷くと、それ以降は口を閉ざして黙ってしまった。


 なんとなく、軽い気持ちで、ただ関心の向くままに、俺は彼女に聞いたつもりだった。


 しかし、彼女にとってのそれは、触れられたくはない何かだったのだろう。


 嫌がっているのを知っていて干渉する気にもなれないので、今後、彼女に進路の話を振るのはやめようと固く心に誓った。


 けれど一方で、これでは彼女に対する謎は深まるばかりだった。


 演技の練習を一人でしている。


 しかも割と本格的なものをだ。


 なのに、本人はそれに目的や理由はないと言い張っている。


 何かしらの暗い背景が匂った。


 彼女は一体何を隠しているのだろうか。


 今すぐ聞き出したいところだが、この状況下ではそれもできず、彼女と同じく俺も黙り込んだ。




 微妙な距離感を保ちながら、何の会話もせずに二人で歩いていく。


 気まずい。


 どうして俺がこんな目にと思う一方で、何か話しかけたほうがいいのかと迷った。


 色々な話題を考えて、それを言葉にしようとして、やめる。


 それらを何回か繰り返していると、突然、彼女が声を発し、長らく続いていた沈黙は破られた。




「あっ」


「え、どうしました?」


「猫だ」




 俺の肩を掴みながら、彼女は草が生い茂っている場所を指さす。


 彼女に促されるままにその方向に目を向けると、そこには黒、白、茶色の毛が生えた三毛猫が地面に寝そべっていた。


 ………ね、猫。




「私、猫大好きなんだよね」


「そ、そうなんですか……」


「よしよし、おいで~」




 彼女がそう言うと、その猫は「なぁー」と鳴き声を上げて俺達の下に近寄って来た。


 彼女はしゃがんで猫に手を差し伸べ、俺は数歩後ずさる。




「この子、野良かな?」


「ど、どうなんですかね……」


「野良にしては人懐こい気もするけどねー」




 彼女は首をかしげながらその猫を撫でると、まったく抵抗せずに甘えてくる猫に味を占めたのか、そのまま両手で包むようにしてそれを抱きかかえた。


 猫を抱けて満足したのか、彼女はとても喜んでいるようで、その表情には先ほどのような暗い色はもう残っていなかった。




「あはは、肉球ぷにぷにだよ」


「………」


「ほら、夏目君も触ってみなよ」




 上機嫌な彼女が、俺にも猫を撫でろと勧めてくる。


 それに対して、俺は……




「ひっ!」




 とびきり情けない声を返した。




「……どうしたの、夏目君」


「べ、別にどうもしないです」


「ものすごい量の汗かいてるけど……」


「夏ですからね、汗をかくのは当然です」


「いや、さっきまでそんなに汗かいてなかったじゃん……」


「あ、あれですよ、そういう体質なんですよ。急に汗かいちゃうんです、男なんで」




 俺が支離滅裂な言い訳をすると、彼女は怪訝そうな顔をした。


 そして、目を細めながら再び俺に聞いてくる。




「……もしかして、猫、苦手なの?」




 ギクッ。




「そ、そんなことあるわけないじゃないですか、子供じゃあるまいし」


「そう?」


「猫が怖いとかあり得ませんから」


「じゃあ触ってみなよ。柔らかいよ、肉球」


「うおっ!」




 彼女の問いを否定すると、彼女は猫を抱えたままこちらに近づいてきたので、俺は慌てて彼女と距離を取る。


 彼女は猫の脇を抱えるように持ったまま、白けた目でこちらを見た。


 あぁ……ダメだ……これは白状するしかない……




「すいません……ネコ、苦手なんです……」




 あれは、十歳の秋だった。


 学校からの帰り道、空き地で見つけた子猫の愛くるしさに騙された俺は、無警戒のままその子猫を撫でようとして、お約束のようにガリっとその手を引っ搔かれてしまったのだ。


 それ以来、猫を見ると動悸が始まり、変な汗をかくようになってしまった。


 つまり、俺は猫が嫌いなのだ。


 奴らは愛想を振りまき人間を騙す。


 それを、俺は知っている。


 彼女に事情を説明すると、俺の猫嫌いを理解してくれたのか、少々というか、かなり名残惜しそう抱えていた猫をそっと地面に降ろし、俺から遠ざけてくれた。




「………行きました?」


「もう大丈夫だよ」


「はぁ、良かったぁ……」


「ふふっ、夏目君って大きい体して、意外と子供っぽいんだね」


「なっ」




 うぅ……だから言いたくなかったんだ……


 高校生の、しかも男が猫を怖がるなんて、バカにされるに決まっている。


 こうなったら、少しでも九条先輩の俺に対する印象を良くするために、全然ダメージ受けてませんアピールでもしておくか。


 今更感は半端ないが、やらないよりはマシだろう。




「俺だって、本気出したら触るくらいできますけどね、本気出したら」


「ホント?」


「はい、苦手って言っても所詮は動物ですから」


「ふーん」


「……何ですか、その目」


「いや、別に何でもないけど………あっ! 夏目君の後ろ、猫いるよ!」


「うわっ!」




 クソ! 油断した! さっきの猫まだいやがったのか!


 猫の位置を把握するために、急いで後ろに振り向く。


 しかし、振り返ってみても、そこには猫なんて見当たらなかった。




「……あの……九条さん?」


「あはは、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、冗談だから」




 彼女のその言葉で、頭に血が上る。


 こ、この女! なんてことしてくれるんだ! 


 人が嫌がることをしちゃだめだって小学校で習わなかったのか?




「もし、また猫が来たとしても、私が守ってあげるから安心してよ」


「いりません」


「え~?」


「自分で何とかします」


「遠慮しなくていいよ。だって、私……」




 彼女は子供を見守る母親のような優しい瞳を見せ、一瞬の溜めを作った後に




「君より一つお姉さんだもの」




 そう、相手を包む込むような柔らかい笑顔で言った。




 う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 なんか、すごい馬鹿にされているような気がする。


 さっきまで俺が後輩だということすら知らなかったくせに、俺が弱みを見せた途端にお姉さん面してきやがった。


 やめてほしい。


 子供扱いしないでほしい。




「これからは先輩って呼んでもらおうかな」


「………嫌です」


「えー、どうして?」


「嫌なものは嫌です、理由なんてないです」


「むー」




 彼女は不満そうに頬を膨らませる。


 別に、そう呼ぶのが嫌というわけでもないのだが、今、彼女の要望を飲んでしまうと、自ら負けを申し出たというか、自分が彼女よりもお子様だというのを認めたように思われそうなので、是が非でも、このタイミングで彼女を先輩扱いするのは避けたかったのだ。


 俺が抵抗の姿勢を見せていると、彼女はあきらめてしまったのか、溜息をつきながら肩を落とした。


 予想よりも早い段階で彼女が折れてくれたため、内心ホッとしていると、彼女は唐突に右手を上げて、俺の背後に指を差し、叫んだ。




「あっ! 後ろ! 猫!」


「うぎゃあ!」




 彼女の発言に反応し、俺は飛び上がってその場から逃げだす。


 しかし、例の通りそこに猫なんてものは存在せず、すぐさま彼女に抗議の視線を送ると、彼女は意地が悪いように笑った。




「それ、ほんとにやめてもらえません?」


「やめてもいいけど、タダでやめるわけにはいかないな~」




 わざとらしく語尾を伸ばしながらそっぽを向く彼女を見て、はらわたが煮えくり返りそうになったが、こう続けて驚くリアクションを取っていては疲れてしまうので、俺はあきらめて、彼女の要望を飲むことにした。




「あーもう! わかりましたよ! 呼べばいいんでしょ呼べば!」




 いざ言葉に出すとなると、やっぱり少し恥ずかしい。


 でも、背に腹は代えられないため、俺は自分の中の羞恥心を噛み殺しながら、彼女をそう呼んだ。




「やめてください……く、九条先輩」


「分かればよろしい」




 彼女は“ご満悦”と言わんばかりにニヤッと笑って、そう言った。


 負けた、また、彼女の言いなりになってしまった。


 彼女とこうして話すようになってから、彼女に対して俺が有利に立ち回れたことが一体いくつあっただろうか。

 

 いいや、一度もないだろう。


 いつも彼女の言い分に振り回されて、最後には俺が折れる形になっている。


 このままではダメだ。


 漠然としない焦燥感が体の中を駆け巡っていくのを感じる。


 いつか、いつかはこの人を屈服させてやろう。


 そう、心の中で静かに誓った初夏の午後であった。




 ひと悶着を終え、俺達は再び熱が籠っているアスファルトの上を歩き出す。




「でも、もったいないね」


「何がですか」


「猫だよ。猫苦手なんて、もったいない」


「先輩からは可愛い小動物に見えても、俺にとっては恐怖の魔獣なんです、猫は」


「えー? あんなに可愛いのに?」


「あんなに可愛いのにです。先輩にだって苦手なものとか、嫌いなものくらいあるでしょ? それと同じです」


「飛び上がって怖がるほど苦手なものはないと思うけど……」


「いや、一つくらいあるでしょ」


「ないよ」


「絶対嘘だ」


「ないない。私、君より一つお姉さんだから、怖いものとかないんだ」


「……そのセリフ、腹立つんでやめてもらっていいですか?」


「あはは」




 何度も子供扱いされ、面白くなくなってきた俺は、彼女との会話を打ち切るように歩くペースを速めた。


 そうして、二人の距離が少しだけ開いたまま曲がり角に差し掛かり、彼女よりも先に道を曲がる。


 すると、俺の足元に、ドンっ! と薄茶色の大きな毛の塊がぶつかってきた。


 驚くのも束の間、なんだこれはと下を向いてその毛玉を観察してみると、すぐに正体が判明した。


 それは俺が愛して止まない愛玩動物、犬だったのだ。


 それも、数あるワンコ達の中でも群を抜いたかわいらしさを誇る柴犬だ。


 俺は昔から猫は大嫌いだったが、犬は大好きなのだ。


 その愛くるしい表情、飼い主に尽くしてくれる忠誠心、芸をもこなす知性。


 何を取っても猫なんかより優れていて、ペット界の頂点と言っても過言ではないと、そう思うくらいに犬が好きだった。


 かつての将軍が犬を優遇していたとという話を歴史の授業で聞いたが、おそらく、俺はその将軍の生まれ変わりなのかもしれない。


 愛くるしい目つきで見つめてくるワンコを見つめ返しながら考える。


 こいつ、どこから来たんだ?


 このご時世に野良犬がいるとは思えないし、首輪とリードがついているので、おそらくこいつは誰かに飼われていた犬だろう。


 となると、捨て犬だろうか? 


 でも、リードをつけたまま犬を捨てるわけがない。


 それなら、飼い主とはぐれたか、もしくは逃げてきたかのどっちかだ。


 俺はその場でしゃがみ込み、その犬の顔をもみくちゃにするように撫でながら聞いた。


 触っても吠えたり暴れたりしないので、この子は大人しく、人懐こい性格のようだ。




「お前どうしたんだ? 飼い主は?」


「どうしたの夏目君?」




 俺がその柴犬に問いかけていると、後ろから来た彼女が、俺の背中から覗き込むような形で聞いてきたので、俺もそれに答えた。




「いや、何か犬が放置されてて……」


「きゃあ!」




 俺が答え終える前に、彼女は悲鳴を上げた。


 彼女の悲鳴に驚いた犬は吠え出し、それと同時に俺も振り返って彼女を見ようとする。


 しかし、彼女は俺のシャツの後ろ側を掴み、顔をうずめるようにして離さないので、彼女の顔を見ることはできない。


 何か……この展開……さっきも見たような……




「え……急に何ですか……」


「い、犬、ダメなんだ、私、噛むからさ」


「噛みませんよ、こんなに大人しいのに」




 犬を撫でていた手を放し、彼女の手を自分のシャツから引き剥がそうとすると、その隙に犬は俺の後ろ、つまり彼女の背後に回り込み、前足を使って彼女に抱き着いた。




「いやぁ!」




 彼女は見たこともないくらいに怯え、さらに俺の衣類を掴む力を強める。


 シャツを強く掴むと、おのずと彼女との距離も近づくわけで。


 俺の背中には彼女の女の子の部分、具体的に言えば、男にはない柔らかい部位が摺り寄せられる。


 シャンプーの匂いも香ったせいか、俺の心臓の鼓動は普段ではあり得ないほどに速まっていった。


 うわっ、まずい!


 これは健全な男子高校生には刺激が強すぎる!


 は、早く彼女から離れなければ……


 そう思って彼女の手を振りほどこうとするも、背中に張り付いているために思うように手が届かないせいか、はたまた、恐怖によって彼女の拳がどんどんと固く握り潰されていくせいか、上手く拘束を解くことができない。


 仕方がないので、先に犬の方を彼女から引き離そうと、犬の胴を掴んで引っ張る。


 しかし、かなり強い力で抱き着いているのか、中々彼女から遠ざけるのは叶わない。


 結果、犬に抱き着かれる彼女に抱き着かれる俺に抱き着かれる犬というどこかの国の童話のようなフォーメーションが組まれてしまい、傍から見ればとてもおかしな光景がそこには広がってしまっていた。


 本当に……何だ……これ……


 そうやって三人、いや、二人と一匹でドタバタしていると、道の奥の角の方から、帽子を被ったまだ小学生くらい男の子が、息を切らしながら俺達の方へと駆け寄ってきた。


 その少年は大慌てでリードを掴み、犬を彼女から引き剥がす。


 少年がそうしたことで犬から解放された彼女は、ようやく俺の服から手を放し、俺達は晴れて絵的にはあまりにもしょぼすぎる三竦みから抜け出すことができた。


 犬を落ち着かせると、少年は申し訳なさそうに俺達に頭を下げた。


 訳を聞くと、どうやらこの少年はこの犬の飼い主らしく、散歩中にリードを手放してしまったこと、この犬を見失ってしまったことを説明し、謝罪と犬を保護してくれて助かったという感謝を述べて、深くお辞儀をし、犬と共にこの場を去って行った。




「こ、怖かった……」




 彼女は安堵しながら、膝に手をつき溜息を吐く。




「先輩にもあるじゃないですか、苦手なもの」




 一息ついたのも束の間、俺が問い詰めるようにそう言うと、彼女はビクッと体を揺らし、ぎこちなく俺の方へと振り返った。


 その顔は、少し引きつっているようにも見えた。




「い、いや、苦手とかじゃないんだけどね、ちょっと相性が悪いっていうか……」




 弱々しく、彼女はそう言った。


 今更否定されても、あんな姿を見せられた後では、彼女が犬を怖がっているのはバカでも察しがつくだろう。


 だが、そのまま指摘するのも面白くない。


 ならば、ここは先ほど俺がやられたように、彼女の犬に対する恐怖心を利用して反撃してやるのも悪くない。


 これは、初めてのからかいである。


 誰にも内緒で存分におちょくってやろうではないか。


 そう決めて、俺は彼女の後ろ側目掛けて腕を上げ、人差し指を立てた。




「あっ! 後ろ! さっきの犬! 戻ってきた!」


「ひゃっあ!」




 彼女は可愛らしい悲鳴を上げ、すぐに後ろに振り返る。


 俺の傍に近寄ってきて「どこ? どこ?」と怯えながら辺りを見渡すが、もちろん、そこに犬など存在しない。


 彼女が先ほど俺にしたイタズラを、俺も彼女にやり返してやったのだ。


 先ほど彼女自らやっていたイタズラなので、もしかしたら通用しないかとも思ったが、予想とは裏腹に、期待通りに彼女がひっかかってくれたため、嬉しくなって、思わず笑顔が零れてしまう。


 俺が手で顔を押さえて笑っているのを見て、彼女もようやく俺の嘘に気が付いたのか、顔を赤くし、頬を少し膨らませながら、俺に抗議してくる。




「ひ、ひどいよ! 夏目君!」


「ぷっ! ふふ……すいません……つい……」




 俺が絶えず笑い続けると、癇に障ったのか、彼女はそっぽを向いた。


 さすがにやり過ぎたたかと反省し、彼女に言う。




「わかりました」


「………何が?」


「仕方ないので、先輩は怖い者知らずってことにしといてあげますよ」


「いや、だから、本当に怖いとかじゃ……」


「その代わり」


「……その代わり?」


「猫だけと言わず、犬が来たとしても俺のこと守ってくださいね」




 ニヤリと笑いながら、俺は言葉を続けた。




「頼りにしてますよ、お姉さん」




 俺がそう言うと、彼女は苦虫を噛み潰したような表情で言葉を返す。




「君、結構意地悪なとこあるよね」


「褒めないでくださいよ」


「褒めてないよ……」




 彼女は、呆れていた。

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