第9話 九条凪①

【七月五日 木曜日】




「おかしい」




 登校。


 それは学校に通う者なら誰もが所有するスケジュールの一つであり、学生の義務とも言える行為だろう。


 しかし、その行為が好きかと聞かれて、好きだと名乗りを上げるヤツはほとんどいないというのが現実だ。


 基本的に、学生が登校時間に考えるのは授業や部活、場合によってはバイトなど、これから始まる面倒な一日のことであり、それらを連想しては、やれ帰りたいだの、やれ早く終わってしまえだの、やれ日曜日が一生続いてほしいだの、叶いもしない願望を、学校に到着するまで延々と垂れ流す。


 つまり、登校とは学生にとって憂鬱かつ厄介なものであり、それを好き好むようなヤツなど、この世にいるわけないというのが世論、すなわち一般的な考えなのだろう。


 例にもれず、俺も登校が憂鬱で厄介な学生の一人であり、授業が始まるのも、一歩進むごとに学校に近づいているという事実も肯定的に捉えられない性質だった。 


 けれど、この登校、すなわち、家から学校に歩いて向かうこの一人きりの時間が、俺は好きではないと同時に、正直嫌いでもなかった。


 忙しない日々の中の、ちょっとした余暇。


 朝、寝起きのぼんやりとした気分や、血の行き届いていない脳みそを歩きながら徐々にほぐしていき、難しい事は考えず、ただぼんやりとしながら、くだらない、意味もない思想にふける。


 そんな登校、もしくは通勤という時間は、普段悩んでばかりいる現代人にとって非常に重要であり、必要なものではないのだろうか。


 と、俺は思っている。


 俺の家から学校までは、せいぜい歩いて二十分程度。


 気を休めるにはちょうど良く、登校という行為はリフレッシュにもなっている。


 だから、俺はこの時間が好きではないにしろ、一応、大切にはしていたのだ。


 そんな、俺にとって一日分の英気を養うための、大切な登校という時間だが、本日の学校への道のりはとても重苦しく、心も頭も一杯一杯の状態での移動となっている。


 何故、こうも面倒事というものは複数に折り重なって身に降りかかるのだろうか。


 思わず嘆息を漏らしてしまう。




 登校途中にうなだれてしまうほど俺の心にダメージを与えた要因は主に二つあり、一つは昨日の自宅での出来事だ。


 昨晩、とある人物のせいで心身ともに疲弊していた俺は、帰宅早々飯も食わずに自室のベッドに潜り込み、ダラダラとしているうちにそのまま気を失うように眠りについてしまった。


 ここまでは、疲れていればよくあることだし、特におかしな出来事でもない。


 だが、問題はその後にある。




 夢を見たのだ。


 いつもと同じであって違う、そんな夢を。




 俺は幼い頃から、ぼやけた空間でただ呆然と時間が過ぎるのを待つだけという不可解な内容の夢を、数ヶ月に一度のペースで見るという怪奇現象に頭を悩まされていた。


 まぁ、怪奇現象とは言っても、夢が覚めてしまえば特に自分の体に異変があるわけでもなく、頻度も年に数回程度。


 覚えているのも「謎の空間で惚けていた」ぐらいなので、その夢を煩わしいとも思わず、今まで生活してこれた。


 しかし、昨夜の夢は違っていた。


 大まかな内容というか、夢の舞台も、夢の中でやっていることも、大体はいつもと変わりないのだが、今までとは明らかに違う、考えられなかったような出来事が起こってしまい、実際に俺の記憶の中にも色濃くその形を残こしているのだ。


 まず夢を見る頻度。


 俺がこの夢を見るのは、せいぜい数か月に一回くらいがいいところで、ある日に夢を見たら、そのまた数か月後。


 数か月経って、また同じ夢を見たら、そのまた数か月後と、夢の発現にはある種の法則めいたものが存在していた。


 だから、夢を見たその次の日に、連続して同じ夢を見るなんてまず有り得なかったし、ましてや、一日に複数回その夢を見るだなんて、天地がひっくり返っても起こりえなかったのだ。


 この法則に当てはめるなら、昨日の昼休みに夢を見た俺に、次に夢を見る機会が訪れるのはまた数か月後のはず。


 なのに、昨晩はそうならなかった。


 気を失うように眠った後、俺は見てしまったのだ。


 その夢を。


 年に数回だけのはずの現象を、一日に二度も。


 このペースは明らかに異常と言っていいだろう。




 次に夢の内容。


 この夢について、俺が目を覚ます時に覚えているのは、背景も景色も何もない空間で、ただ惚けていたくらいのはずだった。


 繰り返しこの夢を見ても、それ以上の記憶が残っていたことは今までなかったのだ。


 だからこそ、この夢に対して怖気づくようなこともなければ、必要以上に悩んだりすることもなく、今日まで過ごしてこれた。


 けれど現在、俺の中にはそれ以外の記憶、すなわち、ただ惚けていた以外のイメージが存在しているのだ。


 決してあるはずのない記憶が、今朝、目が覚めた時にはすでにくっきりと形を成して、俺の頭の中に居座っていた。


 得体のしれない人型の、おぼろげな存在。


 そいつが俺を見て、にやりと笑っている姿が……




 今までと同じようで、明らかに何かが違う。


 そんな要素が入り混じったこの夢について、俺は考えていた。


 どうして急に夢を見るペースが速まったのか。


 こちらを見て笑っていたアイツは何者なのか。


 それには何の意味があるのか。


 考えだしたらきりがなかった。


 いつまでも変わらない、不変であると信じていたものが突然変わってしまう時、人は、必ずそれに対して違和感を覚えてしまう生き物だ。


 生まれた時から建物が建っていた場所が、いつの間にか空き地になっていた時もそう。


 見慣れていた清涼飲料水のラベルが、新しいものに変わった時もそう。


 変化を実感した時、人は不安を感じずにはいられない。


 今の俺が、そうであるように。




 重い頭を抱えながら、俺は通学路を進み、やがて、登校は終わりの時を迎えた。


 昇降口で靴を履き替え、廊下を渡り、自分の教室に向かう。


 朝の学校は若者達の活気に満ちていて、少し鬱陶しいくらいに賑やかだ。


 今日もこの学校は平和なようで、生徒達の会話も「おはよう」「課題やった?」「昨日の『ビーバー、女帝になる。』見た?」「放課後遊びに行こうぜ」などと、平凡で、人並みで、何の変哲もない日常的な会話で、どれもこれも、現在進行形で悩みを抱えている俺が興味を示すような内容ではなかった。


 能天気もいいところである。


 もっとこう、生産性のある会話ができないのだろうか。


 まったく、気に留める価値もない……







 ……いや、『ビーバー、女帝になる。』って何だよ。


 俺はあまりテレビを見ないほうだが、昨今のテレビではとんでもなくぶっ飛んだ内容の番組が放送されているらしい。


 人が朝からシリアスモードで真面目に悩んでいるのに、ビーバーのせいで完全に雰囲気はぶち壊しである。


 ちくしょう……悔しいけど、ビーバーが女帝になる番組、気になって仕方がない。


 残念なことに、俺の悩みが三つに増えた。




 始業のチャイムが鳴り、担任の教師がホームルームを始めようと教室に入ってくる。


 おかしな話のせいで思考が逸れてしまったが、今、俺が第一に考えるべき事は、あの夢についてだ。


 ビーバーはまた今度、時間に余裕がある時にすればいい。


 そう切り替え、俺は自分の席に着き、またあの夢について考え出した。

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