第8話 夢①

「あれ?」




 目を開くと、そこには見覚えのある曖昧な世界が広がっていた。


 ぼやけた視界。


 景色も背景もない場所。


 どうやら、俺はまたこの謎の空間に迷い込んでしまったらしい。


 今まで何をしていたのか、どうやってここに来たのかは分からない。


 俺がここに立っている時は必ず、直前の記憶は消えて無くなってしまっているのだ。


 いつもと同じ。


 なので、俺も通常運転。


 平然として、時間が過ぎるのを待つ。




“慣れ”というのは怖いもので、この明らかに異常な現象にも、今となっては全く動じなくなってしまった。


 焦りも、不安も、何も感じない。


 平穏そのものだ。


 本来なら、そのような心構えではいけないのだろう。


 映画でも、漫画でも、小説でも、奇妙な出来事を前に油断した人物は、必ずと言っていいほど無様な最後を遂げていく。


 だから、それに倣うのであれば、俺もいくらかの危機感を持つべきなのかもしれない。


 しかし、じたばたしたところで、ここでは全てが無駄になるというのもまた事実だった。


 何をしようが、これと言った成果は得られない。


 それを、過去の俺達が経験し、記憶として現在の俺に教えてくれる。


 今更新しい行動を起こしたとしても、得られる情報などたかが知れているのだ。 


 省エネルギーを心掛ける俺としては、何をしようが苦労は水の泡、骨折り損のくたびれもうけになると分かったうえで行動する気になんてどうしてもなれない。


 それに、俺は面倒事が嫌いなのだ。


 ならば、今は静観するしかないのだろう。


 ぼんやりと遠くを見つめて惚けていると、ちらりと、視界の端に人型のシルエットが映り込んだ。


 アイツも、いつもと何ら変わりはない。


 唯一、この空間に存在する、不思議な者。


 何故か影がかかっているように見えて全容は知れないが、シルエットからしておそらく女。


 アイツを見ると虚しくなってしまうのも相変わらずのようで、少し、胸が苦しくなってくる。


 知らない、話したこともない。


 ましてや、人か、物なのかすら分からない。


 そんなアイツを見て、悲しくなるのは何故だろうか。


 いつも、疑問に思う。


 けれど、それを考えるのも、ここでは無駄になるのだろう。


 直前の記憶も、ここがどこなのか、どうやってここにたどり着いたのかも分からないのに、現実の、普通に生きていても見失ってしまうような自分の感情を理解しようとするなんておこがましいにも程がある。


 考えるのをあきらめて、俺はまた遠くを眺めた。


 時間は、目的を持って使えばあっという間になくなってしまうが、ただ無意味に消費しようとするととてつもなく長く感じてしまうものだ。


“時は金なり”とは言ったもので、時間も金も、有意義に使いこなせるのは目的ややりたい事がある者だけ。


 その価値を知らない、必要としない者には、あり過ぎてもかえって困ってしまう代物なのだ。


 今の俺がまさしくそうだろう。


 何もしない、いや、できないこの空間で、長い間たそがれている。


 これは非常に辛く、ものぐさで、休日は家から一歩も出ないような俺ですら、早く終わってしまえと願うほどだ。


 それほどに、退屈というものは苦しい。




 そうして暇を持て余した結果、俺は何も無いのを承知の上で、また、辺りを観察してみることにした。


 省エネという信条には反してしまうが、仕方ないだろう。


 全ては、この場所が悪いのだ。




 つま先立ちをして、周りを見渡してみる。


 背景や景色はぼやけているので何も視認できず、これといって面白いものは見つからない。


 となると、残る観察対象は、必然的にこの場所に唯一存在しているアイツに移る。


 気分が沈んでしまうのであまり関わりたくはなかったのだが、退屈を脱したいという気持ちが若干勝ってしまい、恐る恐る、俺はその人型のものに目を向けた。


 影がかかって見えない表情。


 長い髪をした女の、後ろ姿のシルエット。


 全体像を細かく見てみるが、こちらもいつもと同じようで、特断変わっているようなところは見当たらなかった。


 どうやら、退屈しのぎは成功しなかったようだ。


 何もないとは分かっていたが、少し期待していた分ショックを受けてしまう。


 あぁ、またいつ終わるかも分からない空虚な時間の流れに引き戻されるのか。


 つまらないなとため息をつきながら、元の場所に視線を戻そうとした……




 その時である。




 人型のシルエット。


 つまり、アイツが、突然こちらに振り向いたのだ。


 突然の出来事に、驚いた。


 アイツが動いたところなど、今まで一度も見たことがなかった。


 その事実は容易に俺を混乱させ、唖然とさせてしまう。


 固まったままでいると、そのシルエットの顔、詳しく言えば口元のあたりが、横向きに吊り上がるのが見えた。


 影がかかっているため直接見えたわけではないが、ここには俺とアイツ以外は存在しないため、その行為は確実に、俺に向けられたものなのだろう。


 思考が回復し、体がようやく動くようになり、俺は全速力でアイツに近づいていく。


 ここはどこなのか。


 何のために俺達はここにいるのか。


 お前は何者なのか。


 聞きたい事は山程あった。


 けれど今は、どうして俺に向けてそれをしたのかを一番に聞きたかった。


 とにかく、アイツと話さなければ何も始まらない。


 そう意気込んで、ものすごい勢いでアイツの下へと走り、もうあと僅かのところまで距離を詰める。




「おい!」




 そう、声を張り上げた瞬間。


 目の前が、様々な色の絵の具で塗りつぶされたように黒くなり、俺の意識は深く、暗いところへと落ちていく。


 あぁ、またか。


 この感じ、前にも経験したような。


 徐々に遠ざかっていく意識の中で、俺はもう一度、アイツの挙動を思い浮かべた。


 証拠はないが、確信はあった。


 確かに、俺は見たのだ。


 アイツが、振り向きざまにこちらを見て、
















 ニヤリと、笑ってみせたのを――――――

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