第57話




「んんっ……」



ゆっくりと開ける視界。

目の前に広がるのは、気持ちよさそうに風に揺られる緑林と青々とした空。


……綺麗。だった。

木々の間からゆっくりと流れる雲。

光に照らされ青緑に光る生き生きとした木々の葉身。


無規則に並んだその全てが一つの芸術の様に整っていた。



「起きた?」



声がした。

それもすぐ隣から。


俺はその声の元に引っ張られるように首を動かし視線を移す。



「貴方は?」



綺麗な人だった。


丁寧に束ねられた艶のある髪に色気のある唇。


リティやルーチェとも違う。

初めて見るタイプの艶めかしい女性だった。



「ふふ、不器用な盗賊に襲われた可哀そうな町娘ですよ」

「……すいま。いや、すまない」

「あははっ、貴方慣れてないのね。盗賊は初めて?」

「真似事はいくつか……」



俺の言葉に女性は口を隠し笑う。



「楽しい人ね。そう!食事を用意したの。食べてみて」



俺の前に差し出された木の皿。

沢山の野菜が柔らかく溶け、優しい匂いと湯気が立ち上がるスープが入っていた。



「いらない。信頼できない」



俺はその皿に手を伸ばしたい衝動を抑え、目を逸らす。

人の善意などロクなものじゃないと知っているから。



「ふふっ、毒を疑う必要はないわ。そんな事をするなら貴方が寝ている間に色々と済ませてしまえば良い事でしょ?」

「それは……」

「それに目の化膿。大分酷かったわ。目そのものは時間が経ちすぎて治せなかったけど、感謝の言葉位あってもいいんじゃないかしら?」



反論の余地など無かった。


記憶が蘇ってくる。

俺はこの人を襲い、そして負けた。


どう考えたって悪いの俺。


信頼出来ない?

それは俺の方だった。



グゥゥ……

タイミング良く腹が鳴る。


思い返せば食事なんて随分前に取ったきりだった。



「体は正直なんだから。ほら、ゆっくり食べなさい」



再び差し出される皿。

俺はその皿を受け取り、口を付ける。


後は体が勝手に動いていた。

素手で必死に具をかき込み、喉が少しでも早くそのスープを飲み込もうとする。



「何杯食べてもいいいから、落ち着いて」



気が付けば、何度もおかわりを繰り返していた。

薄い塩味と沢山の野菜の旨味。

それが、体に染みわたっていく。


気が付けば作られたすべてのスープを飲み干していた。



「すいま……いや、すまない」

「ふふっ、粗雑な言葉。好ましくはないけど生きていく上では便利な事もあるわね」



目の前の女性は面白そうに俺の顔を覗きこんでいた。

食事だけでなく、怪我も治してくれた。

感謝しなきゃいけないんだろう。


でも、俺は人を信用する事はもうない。



「そういえば自己紹介がまだだったわね。私はイラ。港町で娼婦をやってるわ」

「娼婦?」



イラと名乗った女性は俺に手を伸ばし、握手を求めてくる。


娼婦?魔法も使えてあれだけ強いのに?

そんな疑問が湧き上がるが、その疑問を俺はグッと飲み込み顔を背ける。



「人は信用しない」

「ふふ、信用する必要はないわ。でも、お互い名乗るくらいはいいでしょ?」



確かに。

名前を名乗るのと信用するのは別だ。



「なら、食事のお礼と考えてくれてもいいわ。お礼まだ言ってもらってないもの」



痛い所を突かれる。

これは信用する以前の問題だ。


人としての礼儀。

それすら忘れればもはや人じゃない。



「僕。いや、俺は……カイト」

「はい、よろしくねカイト」



そう言ってイラは俺の手を強引に取り、握手を交わす。

それが俺とイラとの出会いだった。





観客の声援。

それが塊となって降ってくる。


それを懐かしいと感じたのはもう昔の事。

今はもう懐かしさなど感じない。


ただの日常だ。


血がで固められた地面。

その上で俺は剣だけを持って立っている。


ここは円形闘技場と呼ばれる殺し合いの場所。


これが俺に唯一出来る仕事。

剣闘士とは少し違う。

腕自慢の人間が自ら志願して見世物として殺し合う場所。


帝国のそれとはまるで規模が違うが、それでも一つの町にある闘技場としてはかなり大きい。


俺は今までいろいろな仕事を転々とした。

その結論がこれだ。


結局、俺に出来る仕事。

それは剣闘士だけだった。


ポタリと音を立て、返り血が地面に落ちていく。


目の前の相手。


上半身が斜めズレ、地面へと崩れ落ちていた。

おびただしい血と臓物をまき散らしながら。


そした暫くの間を置き、体を震わせるほどの歓声が俺を包んでいた。


……気持ちいい。

自分の命を危険へと晒し、それを乗り越える瞬間。

その瞬間こそ、最高に生きている事を実感できる。


この世界はシンプルだ。


強い物が勝つ。

それがどんな力や形であれ。


弱ければ自分自身が物を言わぬ死体になる。

ただ、それだけだ。


俺はその歓声に手を挙げて答え、ゆっくりと闘技場をあとにした。





「ねぇ、カイト!今日こそ付き合ってよ」

「いいでしょ?お金もいらないからさ」

「カイト!握手してよ!」



闘技場を出た途端、女子供に取り囲まれる。

もううんざりだ。


ここにいる誰が信頼できる?

子供でも容赦なく俺を殺しに来る世界で。


結局、人なんて信頼出来ない。

したくもない。



「邪魔だ」



群がる手を無視し、強引に歩く。



「またイラの所でしょ!たまにはこっちにきても良いでしょ!」

「もう!こっちは何人でもいいのに!」



何人でもいい?

ごめんだ。


そんなことすればすぐに騙され、色んなもの失う。

死んだ方が良いと思う位に。


俺はうんざりした気分でその場を離れた。





「これ今日の勝ち分だ」



今回の勝ち分を机に置く。

俺はある女性の家に部屋を借り、共に生活をしている。



「あら、ありがとね。ご飯も台所に用意してあるわ。好きに食べてね」



視線を俺へと移し、笑いかける女性。

名前はイラ。


信頼関係ではないが、お互いにメリットのある取引が出来る相手。


イラは、俺が片目を失い死にかけたところを助けてくれた恩人でもある。

不思議な研究を行い、俺の髪の色も黒から灰色へと変えてくれた。


そのおかげで俺の前の名を知る人はいない。



「研究はどうだ?」

「全然手ごたえ無し、小さな手掛かりすら掴めないって感じね」

「そうか」

「ええ、そろそろ本業の方でお返ししないとダメかしら?」

「飯を貰う。明日また試合がある。先に寝ておく」

「ふふっ、わかりました。貴方がいつか人を信頼出来るようになったら、相手させて貰うわね」

「それは無い。だから、恩義を感じる必要もない」



俺は背中を向け答える。

安全な寝床と飯を提供してくれるだけでいい。


それ以上は求めていない。



「人は必ず変わるわ。それもささいなきっかけでね」



イラの楽しそう声が背中に響く。

何がそんな楽しいのか。


その言葉を飲み込み、俺はその場から離れた。





太陽が真上に登り、熱線が容赦なく頭から降り注ぐ。

地面は陽炎が立ち上るくらいに熱せられ、立っているだけで汗が噴き出してくる。


ただ、それよりも激しい熱気が周りを包んでいる。


ここは人が殺し合う闘技場。

珍しい事に今日は10人での殺し合いが催されている


ルールは簡単。

最後に残った一人だけが生き残る。


それだけだ。


ただ、いつもとは全く違うルールのせいか、沢山の人が駆けつけてる。



「へへっ。今日でお前もお終いよ」



ふと、目の前に立っていた一人の男がニヤニヤと笑っていた。



「覚悟しておけよ。ここにいる全員と打ち合わせ済だ。まずお前を殺すとな」



その言葉をきっかけに、俺の周りを9人の男達が取り囲む。

剣や槍、斧など自分の得意な武器を携えながら。



「……いいのか?最後に残るのは一人だぞ?」



ここは帝国のコロシアムとは違う。


ここでは毎日殺し合いが開催される。

奴隷ではなく、有志の参加者同士で。


参加費用は、命を含めた持ち物全て。

勝てば相手の全てを得られ、さらには周りの観客が懸けた金額の一部まで貰える。


となれば、魔法の剣を持つ俺は最大の目玉。

俺が出る限り金使いの荒い冒険者や荒くれ者が後を絶たずにやってくる。


ただ、この戦いで生き残るのは一人だけ。

どんなに協力し合っても最後に残るのはたった一人だけなのだ。



「それも納得済みだ。まずはお前を倒さないと始まらない。目立ち過ぎだんだよ。お前は」



そういう事か。

別に構わない。この世界のルールはシンプル。


強ければ生き残る。それだけだ。



「好きにしろ。どうせお前らはすぐに裏切ってまともな戦いにすらならないだろうからな」

「……この野郎」



周りからの殺気が俺に集中する。

ただ、大した事は無い。



「そうだ。協力してやろう」

「あ?」



俺は強くなった。

だからもっと面白くしてやる。



「聞け!!今回の戦いは全員での殺し合いではない!!」



そう俺が叫んだ途端、辺りは静まり返った。



「俺とここにいる全員が殺し合う。1対9の変則試合だ!!ルールは簡単!俺がここにいる全員を殺すか、こいつらの誰かが俺を殺すかだ!!」



周りから狂気にも似た歓声が湧き上がる。

観客は賭けを変更するためか、何人も同時に動き出し胴元は慌て混乱する有様だった。

おかげで観客席はちょっとした修羅場となっている。


昔の俺ならこんな事は言わない。

ただ、今の俺には自信がある。


片目を失い、普通に戦えなくなった俺は進化した。

見えない目のせいで何度も死にかけ、傷を負い、極限に追い込まれた。


だが、極限の中で殺し合う内に新しい技能を得た。



「お前、馬鹿だろ?勝てると思ってんのか?」

「余裕だな。ハンデとして足りないくらいだ」

「いい気になりやがって!惨たらしく殺してやる!!」



目の前の男が剣を抜き、それに釣られるように周りもそれぞれの武器を構える。


それに慌てたのか、試合開始の合図が響く。


初めの一手。

それは弓だった。


俺は後ろから射られた矢を、体を少し捻って躱す。

これが俺が得た新しい技能。


この闘技場で魔力で体を強化したことは一度もない。

常に敵と同じ条件で殺し合ってきた。


最初のうちは、片目を失い死角を責められ、何度も傷を負った。

死にかけたことも一度や二度じゃない。


ただ、極限の状態で戦う内に、見えない相手がどこにいるのか分かった。


その原因は感情。

人の感情だった。


魔力の根源である人の感情。

それは殺し合いの最中にこれ以上ない位高ぶる。


普通に生活している時とは比較にならない位に。


極限まで高まった人の感情は、肌で感じられるほど強い物だと初めて気が付いた。

普段はこっちも負けないように強い感情を発しているから気が付かなかったが、見えない目がそれに気が付かせてくれた。


後は、ただひたすらにその能力を鍛えた。


出来なければ死ぬ。

そんな極限の環境で何度も訓練しているうちに、相手の感情を感じとれるようになった。


その精度を高めていくうちに、人がどこにいるのか、何をしようとしているのか把握できるようになった。


結果、単調な攻撃であれば見ないでも躱せるようになった。



「偶然だ!囲んで倒すぞ!」



その言葉通り、3人が同時に切りかかってくる。

獲物は、剣、斧、そして、槍。


そのいずれもが退屈な物だった。

俺は他の二人には目もくれず、槍を構えた男の前に踏み出す。


慌てて突き出してくる槍を躱し、さらに大きく一歩踏み出す。。



「なっ!」



驚く槍使いを掴み、そのまま後へ投げつけた。


剣を振ろうとしていた男はその槍使いに邪魔され、俺に突っ込んでくるのは斧使いだけになった。



「覚悟しろや!!!」



斧使いは勝ちを確信したのが、全力で俺に飛び掛かり斧を振ってくる。

俺はその退屈な一撃を半歩後ろへ下がり躱す。


たったそれだけで、勢い余った斧は地面へと突き刺さっていた。

バランスを崩した男は地面へと尻もちをつき、唖然とした表情を浮かべていた。


……何と言えばいいのか。

今日の相手。

その質は特に低すぎだ。


帝国の剣闘士と比べれば、天と地。

いや、比べるのも失礼なレベルだ。


証拠に観客からは嘲笑するような笑いが巻き起こっている。


つまらない。

これじゃあ、せっかくの観客も白けてしまう。



「皆、手をゆっくりこのペースで60回叩いてくれ!!!」



俺は観客に向かって叫び、1秒おきに手を叩く。



「その間にここにいる全員を殺す!!出来なければ俺の負け!ここで首を刺し自害しよう!!!」



すると、観客はすぐに手を叩き始め、全員の合いの手が全体を包む。

そして誰かが始めたか知らないが、数のカウントが始まった。


その瞬間、俺は剣を抜き動いた。

迷いのない白い残像を残しながら。


残りカウント50で初めの一人を、残り30カウントでさらに2人を殺した。


残り7人。

どう考えても間に合わない。

そう皆が感じ始め、カウントが1減るごとに観客は興奮していく。


残り20カウント。

俺はギアを上げ、3人の首を落とす。


残り10カウントでさらに3人。

そして最後の一人を残り1カウントで殺した。


本当は余裕だったが、観客をハラハラさせる為に演出を加えた。

その結果は言うまでもなかった。


観客は狂ったように盛り上がり、身を焦がすような熱気が俺を包む。


……気持ちいい。

この瞬間だけが、俺を心から生きていると感じさせてくれる。


裏切りのない純粋な感情。

それが感じられる……この時だけは。





「カイト!ねぇ、カイト!」

「こっちこっち!ねぇってば!」



剣闘場から出ればすぐにこれだ。


俺を目的とした人だかりが出来ている。

皆俺に笑顔を向け、媚びるような視線を送り続けてくる。


だが、一人一人から感じられる感情はそれとはまったく別だ。


強い者への嫉妬。

有名な人間を従えたいという顕示欲

成りあがる為の材料として俺を見る強欲。

そして、俺への個人的な恨み。


正確には分からない。

だけど、そんな負の感情しか感じられなかった。

俺の得た新しい技能は、本当に大事な事を気が付かせてくれる。


人間など生きる価値の無い低俗な存在だと。



「どけ」



時間の無駄だ。

相手をする必要すらない。


群がる女や子供の手を無視し俺は歩く。

もし、俺に怪我を負わせようとするなら何倍にして返す。


事実、過去には何度も俺の気を引こうと行く手を塞いだ女や横から突っ込んできた子供がいた。


その全てを俺は容赦なく殴りつけ、気絶させてきた。

周りもそれを知っているから、俺に手を伸ばしても道を塞ぐ奴はいない。

……はずだった。



「すいません!パンを買ってください!!」



一人の純朴そうな女性がパンの入った籠を持ち俺の前を塞いだ。

不思議なことに何の感情も感じない女性だった。



「……どけ」



何も知らないだけだ。


そう思い俺はその女性を無視し歩き出す。

その女性はすれ違う瞬間に小さく呟いた。



「私を買え。フィス」

「!!」



その言葉に足が止まる。

いや、止まってしまった。


低く冷たい声。

その声には聞き覚えがあった。



「さっさとしろ。フィス。いや、カイトと呼べばいいのか?」

「……ッ」



反論すら許さない一方的な物言い。

相変わらずだと思った。


俺は今日得た金の全てを皆の前で掲げ、目の前に女性に差し出す。


この金で目の前の女性を買う。そういう意味だ。

その行為に周りは騒めく。



「よ、喜んで!」



純朴そうな女性は、ニコッと笑い俺の差し出した革袋を受け取っていた。


心の底では少しも喜んでなどいない女性。


名はリュンヌ。

昔の仲間であり、俺の師匠でもあった人だ。





「ねぇ。普通、連れてくる?私の家よ?」

「……他に連れて行くところが無かった」

「え?馬鹿なのかしら?お金持ってるんだからそういう所いけばいいでしょ?」



イラから凄く怒っている感情が感じられる。

なんでそんな怒っているのか分からないが、何か言えば100倍になって帰ってくる事は分かっている。


だから、俺は黙る。

それが最善手だと経験から知っているから。



「はぁ~、だんまりね。まぁいいわ。いい変化だもの。どうしましょう?せっかくだだし、私も交えて3人で楽しむ?」

「わ、私は出来れば二人で……」



リュンヌはか細い声で反論する。

弱弱しい純朴な女性を演じながら。



「演技はいい。こいつはイラ。俺の命の恩人だ」

「……ふん。随分偉そうな口調になったな。あのガキだったフィスが」

「俺はフィスじゃない。フィスは死んだ。仲間だと思っていた奴らに騙され殺された哀れな奴だ」

「は!相変わらず女々しい奴だな!」



リュンヌは薄い茶髪のカツラを脱ぎ捨て、短い金髪へと戻る。

そして、近くのイスにドカッと座り、不機嫌な様子ありままに伝えてくる。



「へぇ。貴方フィスと名乗っていたのね。でも不思議カイトの方がしっくりくるわ」

「ふん。何も知らない奴が戯言を」



え?なにこれ。

リュンヌもイラも挨拶するどころか、会釈もしない。


お互い睨み合い何も……いや、一言も口にしない。


……怖い。

なにこれ。

二人とも怒っているし、敵意をむき出しにしている。


いや、それどころか威嚇し合っている。

なんで?なんでそんなに敵意があるの?

今会ったばかりじゃないの??



「んんっ!で、なんの用だ?」



小さく咳払いをして、俺は二人の間に割って入る。

すると二人はすっと視線をずらしてくれた。



「フィス。お前は戦争がどうなっているか知ってるか?」

「噂程度なら。でも、俺には関係ない」

「邪神が復活するとしてもか」

「ああ。それに邪神が復活する前に俺はたぶん死ぬ。剣闘士なんて商売長く続けられるものじゃない、戦いは闘技場だけじゃないからな。意味は分かるだろ?」



恐らく俺は長くは生きれない。

今まで何人殺してきたか分からないが、その恨みは確実に蓄積している。


蓄積された恨みはいつか必ず俺に牙を剥く。

その牙は日常に潜み、いつか俺の心臓に突き刺さるだろう。



「……そうか。なら、私は目的を果たそう」



リュンヌが俺の前に立ち、懐から綺麗に丸く束ねられた紙を取り出す。



「これをお前に渡すために来た」

「……?」



渡された紙をゆっくり開く。

それは絵だった。


写真のような描写の1枚の絵。



「赤ん坊の絵?」

「ああ、それはルーチェの子供だ」



心の奥がズキリと痛む。

ただ、俺に何か言う権利はない。


あの場所から、ルーチェからも俺は逃げたのだから。



「そうか。ルーチェに幸せにと伝えてくれ」



俺はその絵を丁寧に丸め、リュンヌへと返す。

ただ、リュンヌは腕を組んだまま動かず、俺を睨めつけてきた。



「馬鹿が。これはお前の子だ」

「えっ?」



予想さえしなかった言葉に、思わず体が硬直する。



「ルーチェからお前に伝えるなと言われた。ただ、それは生まれる前の話。生まれた後のことは約束していない」

「待ってれ。これが……ここに描かれた子供が本当に俺の子供?」



慌てて丸めた絵を開きなおす。

目鼻や口はルーチェに似て、すごく整っている。

将来はきっと美形に育つ。


そんな遺伝子を受け継いでいる事がわかる。


だけど、髪。

髪は確かに俺と同じ黒色をしていた。


この世界に黒髪の人間など俺以外に見たことが無い……。

その髪の色は、間違いなく俺の遺伝子を引き継いでいることを証明していた。



「そうだ。お前が町を出ていった時、ルーチェは既に身籠っていた」

「これが俺の子供……」



信じられなかった。

俺が……この世界で子供を授かる事になるなんて。



「ルーチェは帝国との戦争に参加している。リティと二人、子供を育てながらな。お前と子供の為にもう戦わなくていい安全な世界を作るんだとさ。馬鹿だろ?」

「俺の為……?」

「ああ、お前とその子供が幸せに生きれる世界を作るんだとさ。理想もそこまでいけば狂気だよ」



何故だろうか。

胸が酷く締め付けられる。



「私はそれを伝えに来ただけだ。もう用は無い」



リュンヌは立ちあがり、背を向け扉へと向かう。

そして扉に手をかけた所で、ピタリと歩を止めていた。



「一つ教えてやる。今、戦争は膠着状態になっている。だが、それは近々崩れる。南の聖教国クラストーチが帝国に着くだろう。それが実現すれば、クリティアの国、オーランドは敗れ去る」

「オーランドは、どうするつもり……なんだ?」

「帝国の要であるベニデール要塞を早急に落とすつもりさ。そうなればバランスが崩れ聖教国も帝国に着くのを躊躇うだろう。あの国も負け戦に付き合う程、馬鹿ではない」

「勝てる……のか?」

「さぁな、簡単に勝てるなら戦争はこうもややこしくなってないだろうな」



その通りだろう。

ただ、俺の心には不安だけが圧し掛かってくる。



「なんにせよ。お前には関係ない。邪魔したな」



バタンと戸を閉め、リュンヌは出ていった。

出ていく間際、リュンヌから僕へ謝るような感情が感じられた。


なんで謝るのか。

理由が全く分からなくて、引き留めようとしたが声が……出せなかった。



「焚きつけられちゃったわね」

「……どうしろってんだ」



残された部屋で、俺はなんとかイスに座り頭を抱える。

色んな考えや感情が湧き上がっては絡まり合う。



「怖いわね。人と会うのって」



柔らかく暖かい物。

それが背中に押し付けられる。


気が付けば俺はイラに後ろから抱きしめられていた



「私もユイって人に会うの怖い」

「……だろうな。会った瞬間殺されかねない」

「そうね。でも、いつかは向き合わなければいけない問題」



イラの手に力が籠る。



「ねぇ、貴方が作った町に一緒に行ってくれない?私も亜人のユイさんに会いたい、いえ、合わなきゃいけない」

「……考えてもいいか?」

「勿論、でもこの機を逃したら私もたぶんきっとユイさんに会えない。怖いもの」

「俺も怖い」

「一緒ね」



俺は無意識の内にイラの手を握っていた。



「人は不思議。どんなに人から拒絶され、嫌なことをされても、一人では寂しくて生きていけない」

「でも、人を信頼するのは」

「ええ、怖いわね。裏切られて、嫌われて、痛い思いをする。なのに人はどうしてか他人を求めずにはいられない」



イラの柔らかい唇が頬に触れる。




「だから、一人で良い。貴方にとって大切な人。その人だけは信頼してあげて?」



耳元でイラはゆっくりと囁く。

だけど怖い。


今の俺は人の感情が感じられる。

この瞬間だって、イラから縋りたくなるような優しい愛情を感じられる。


だからこそ、怖い。


俺はルーチェから逃げた。

ルーチェが一番大変な時に側にいなかった。


普通に考えれば最低な奴だ。


だから……

普通に考えれば、ルーチェが俺に対して嫌な感情を抱いているはずだ。


それを。

その事実を確認するのが、どうしようもなく怖かった。


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