第36話

クリティア姫の柔らかく小さな体。

僕は処刑台の上でクリティア姫を抱いていた。


その体は、僕の腕の中で信じられないくらいに震えている。


一体どれだけ不安を溜め込んでいたのか。


冷静に考えれば分かる。

辛くないわけが無い。


誰にも味方されず、何の落ち度も無いのにこれだけの大衆の前で殺され首を晒される。

大声で泣くことも、不条理を喚く事すら許されず、一人で死の恐怖と戦っていたのだから。



「あ、ありが……」



感謝の言葉。

震えた体はそれを紡ぐ事をすら許さないみたいだ。


よく頑張った。

そんな思いから、僕はついクリティア姫の頭を優しく撫でてしまった。


すると、クリティア姫は自身の手で口を塞いでしまう。


理由は簡単に分かった。

抑えきれない小さな嗚咽が溢れ、僕の肩が濡れていく。



「いきますよ。しっかり捕まっていて下さい」



僕の言葉に従うように、クリティア姫は僕の体に腕と足を絡ませ、しっかりと密着する。



(助けてみせる!)



迷いなんて無い。

心の底から力が溢れてくる。


顔を上げれば、処刑台の前には一本の綺麗な逃げ道が広がっていた。

民衆の海を割った様に出来た一筋の道。


リュンヌさんの言うとおりだ。

用意された台詞をしっかりと叫べば、逃げ道は確保できるって。

聞いたときは正直信じられなかったけど、結果を見れば疑う余地はない。


僕は直ぐに処刑台から飛び降り、その道の先端に立つ。

全力で駆け抜ける為に。



「ファランクス!!」



僕の着地と同時に響いた大声。


するとガシャガシャと金属の打ち合う音が鳴り、赤色の鎧を着た騎士達が、統率の取れた動きで僕の前に壁を作っていく。


騎士達の体がすっぽりと隠れてしまう大きな盾。

それを前面に構え、その僅かに出来た隙間からは槍を突き出している。


ファランクス。

そうだ。セネクスさんから、教えられたことがある。


魔法が栄える前に戦場で主流だった陣形だって。

今でも局地的に使われる陣形で、前面からの攻撃に物凄く強く、側面や後方からの奇襲には弱いと。


ただ、破壊力のある魔法の前では、固まった集団なんてただの的にしかならなくて徐々に衰退した陣形だとも聞いている。


でも、確かにこの場では物凄く効果のある陣形だと思う。

民衆に囲まれたこの道では、破壊力のある魔法はおろか、横や後方からの奇襲なんて無理なんだから。



「しっかり捕まって。あと舌を噛まないように歯も食いしばって」



僕の言葉に、クリティア姫は何も答えなかった。

ただ、僕の体を痛い位に抱きしめ、顔を僕の肩に埋める。


素直だ。

いつもの行動からは考えられないくらいに。


でも、今はありがたい。


心の中で小さく感謝し、僕は剣を収める。

ただ、集中するために。


体の中から溢れる力。

それを力に変え、僕は全力で地面を蹴る。



「「おおおおぉ!!」」



僕の真下から、突き上げるような歓声沸き上がる。


僕のした事。

それは、湧き上がる感情を魔力に変え、体を強化し全力で地面を蹴っただけだ。


ただ、その力は想像以上に強かった。


盾の壁を作った帝国騎士達は勿論、小さな建物であれば簡単に飛び越えられてしまう位に僕は高く飛び上がっていた。


陣形を整えた騎士達の頭上を飛び越え、はるか先にまで続く空中散歩。

ただ、その終わりは直ぐにやってくる。



「ぐっ!!」



着地した途端、足に激しい痛みが走り、ビリビリと痺れる。


当然だ。

一人ならまだしも、クリティア姫を抱えてあれだけの跳躍をしたんだ。


人間技じゃない。

肉体の限界を超えた力は、間違いなく体に帰ってくる。


力の加減を間違えた僕のミスだ。



「何してる!すぐに追え!!絶対に生きて逃がすな!!」



僕の後ろからは、迫る金属の擦れる音。

その正体は、見なくても分かる。


ただ、追いかけてくるのは帝国の騎士達だ。


問題なく逃げ切れる。はずだった。


だけど、痺れた足にクリティア姫を抱えバランスの悪い体。

これじゃあ、走る速度はいつもと比べればナメクジの様に遅い。


……このままじゃ追いつかれる。

鎧の擦れる音が、ドンドン近づいてくるのが分かった。


戦いながら逃げる。

そんなの出来るとは思えないけど、やるしかない!


覚悟を決め、僕は剣の柄に手を伸ばす。


その時だった。


僕のすぐ横を一つの影が通り過ぎた。


その影は、敵に風のように駆け寄り、飛び蹴りを見舞う。

そして、動揺する騎士達の前に立ち剣を抜き構える。


抜き放たれた剣は、白い残像を描き太陽の光を眩しい位に反射する。


あれは……僕の剣だ。

今持っている軽さを追求した細身の剣ではなく、いつも僕が愛用している魔法の剣。



「行け!ここは俺が時間を稼ぐ!」



その影は、僕に視線を向けることなく叫ぶ。

姿も声も間違えようが無い。


ルーチェだ。



「でも!」

「俺には覚悟が足らなかった!でも、もう大丈夫だ!!」



観衆の歓声が上がり、ルーチェは帝国騎士と剣を交える。


驚いた。

ルーチェは実戦では動けない。


そのはずだった。


だけど、目の前のルーチェは、帝国騎士の攻撃を盾で受け止め、そして牽制程度に剣を振っている。

それに、信じられない事にルーチェが振った剣は、帝国騎士の大盾を布の様に綺麗に切り裂いていた。


あまりの切れ味に、帝国騎士達は皆警戒しルーチェから距離を置く。


その光景に民衆は歓喜し、これ以上ない位盛り上がる。


何が……起きている?

僕の魔法の剣は、あんなに切れる剣じゃない。



「早く行け!!俺もそんなに持たない!!」



ルーチェは、呆けている僕を叱る。


そうだ。

今の僕にはすべき事がある。


目的を忘れちゃダメだ。



「直ぐ戻るから!それまで持ちこたえて!!」

「当たり前だ」



なにやってるんだ。


ルーチェは覚悟を決めてこの場所に飛び込んできてる。

僕がそれを無にする訳にはいかないじゃないか!


僕は自身を何度も叱咤し、ルーチェに背を向け走った。

後ろから次々と響いてくる大きな歓声を追い抜くように。


どれだけ走っただろうか。

街の中心から外れ、人もまばらになった。


すると、パァン!という音が弾け、目の前に白い煙幕が立ち上った。

僕はその白い煙の中へ迷いも無く入っていく。



「クリティア姫をお願いします」

「任せてください」



煙の中には、アリシア隊長とその部下であるリタニアさんとカーラさんがいた。

いつもの鎧姿はなく、どこにでもいるような市民のような格好で。


僕は彼女達にクリティア姫を引き渡す。

元々、こういう計画だ。


絶対に追手は来る。

その対策として、僕が囮になり足止めする計画のはずだった。


だからこそ、最悪捨てられる細身の剣を持ってきたんだ。

でも、僕のミスのせいでその役割をルーチェに背負わせてしまった。



「戻ります。ルーチェの援護をしないと」

「……約束の場所で待ってますわ、どうかご無事で」

「はい」



アリシア隊長との会話はそれだけだった。

震えるクリティア姫を受け渡し、僕は弾かれたように煙の中から飛び出た。


来た道を駆け戻る為に。


足の痺れは回復し、クリティア姫も降ろし、体かかる制限は何も無い。


だから、僕は一瞬前より早く。

一歩前よりも長く。


ただ、それだけを考えて地面を蹴り、足を動かす。


その間にも、僕の頭に最悪な結末が過ぎる。

それを振り払うように、僕はただ風を切る。


すると、僕の視線の先に大きな人だかりが見えた。

歓声が嵐のように巻き起こる興奮した民衆の塊だ。



「どけ!!」



僕はその人だかりの一番後ろの人を掴み、空へと放り投げる。

それを何度も何度も繰り返し、穴を掘るように進んでいく。


数十の人を空へと打ち上げた所でやっとルーチェの姿が見えた。


まだ、ルーチェは戦っていた。

鎧は所々砕かれ、服は所々赤く染まり、肩で息をし今にも倒れそうな状態だった。


ただ、ルーチェは気丈にも剣を振るっていた。

普通ならとっくに諦めている状況にも関わらず。


周りの帝国騎士達も分かっているのだろう。

体力が尽きるのも時間の問題だと。


決して無理はせず、安全な位置から槍を突き出していくだけだった。

その殆どをルーチェは防いでいたが、いくつかは鎧やルーチェの腕や足を傷つける。


もう我慢なんて出来なかった。

僕はルーチェを取り囲む騎士達も空へと投げ捨て、ルーチェに駆け寄る。



「ルーチェ!!」

「……たく、おせぇぞ?」



ルーチェは少し笑うと、僕に体を預けてきた。

最早、自力で立つことさえ出来ないのかもしれない。


本当に、ボロボロだった。

体には裂傷が走り、青黒い痣も無数に出来ている。


その姿を見れば見るほど、怒りが湧いてくる。


よくもルーチェをこんな目にあわせてくれた……

その痛み何十、いや何百倍にして返してやろうか?



「鎧は壊れたけど、剣と盾は無事だぞ?」



そんなルーチェの言葉が、僕を現実に引き戻す。



「そんなのどうでもいいよ……無事でいてくれてありがとう」



そうだ。

ルーチェが無事ならそれでいい。


今はここから逃げ出す事だけを考えればいいんだ。



「ああ。でも、ここから逃げ出せたら奇跡だぞ?」



少し諦めた様子でルーチェは言う。


たしかにそうだ。

周りは民衆に囲まれ、帝国騎士達は槍を前面に押し出し、2重に僕らを囲っている。


逃げ道なんて無い。

あるとすれば、捕まる前に自ら命を絶つ位だ。



「大丈夫だよ。ねぇ、怪我している所悪いけど、また僕をおぶってくれる?」

「あ……?」



でも、今なら大丈夫。

そんな確信が僕にはあった。


周りの観衆から沸き上がる強烈な感情。

ルーチェを守るという僕の強い意志。

そして、アィールさんの魂の力。


全ての条件は整っている。

この場所なら、僕は神に匹敵する力を行使出来る。



「……任せろ。何度でも背負ってやる」



たった一言で、ルーチェは全てを理解してくれた。

小さく呟いて、持っていた魔法の剣を鞘に収め、僕の腕に抱かれ体を小さく畳む。


それを合図に、僕は力を行使する。


周りに溢れる歓喜と憎悪にも似た感情。

それを体に取り入れ、魔力へ変換していく。


それは体が破裂してしまいそうな程、強大な魔力だった。


尋常ではないその力は、腕や足が捻じ切るような痛み生み。

強烈な魔力が僕の魂を押し潰そうとする。


常軌を逸してる。

こんなの本当に気が狂いそうになる。


でも、僕の腕の中にルーチェがいる。

本当に安心した表情で。


それを見つめるだけで、どんな痛みでも不思議と耐えられた。



「飛ぶぞ!!その前に仕留めろ!」



その声と共に、僕とルーチェに一斉に槍が投げつけられた。

死角のない、全方位からの投槍。


僕はルーチェを隠す様に蹲る。

ルーチェの体を隠し、どうしても足りない場所は落ちていた大盾でカバーして。



「嘘……だろ」



周りから驚きの声が上がる。


槍は正確に僕を射抜き、仕留めた。

……はずだった。


少し遅かった。

もう、僕の魔法は完成している。


今なら誰にだって、負ける気はしない。



「……どうして……生きている?」



帝国騎士の一人が、呆然としながら呟く。


彼らの投げた無数の槍。

それは間違いなく僕に当たったはずだ。


ただ、それは致命傷どころか、僕の服を裂いただけ。

それだけだった。



「これがフィス。いや、奴隷王の力だよ」



ルーチェが満足そうに答える。


ちょっと何を言ってるのか分からない。

危ないから喋らないで欲しいんだけど。



「ルーチェ!歯を食いしばって!」

「ああ!!」



僕は飛んだ。

建物はおろか、空を飛ぶ鳥達よりも高い位置まで。


そして、地割れのような歓声が僕達を追いかける様に響いてきた。



******************************************************




「これはどういう事ですか?」



苛立ちを隠さず、帝国の使者はヴェルナーを問い詰める。


そこは、処刑台のあった街の中心から少し離れた建物の一室。

部屋には今なお熱狂する市民たちの声が響いていた。


一人の青年が巻き起こした途方も無い夢物語の様な出来事。


それは抑制された市民達をこれ以上ない位に興奮させていた。

そんな興奮した市民から逃げるように、帝国の騎士も使者も近くのこの部屋へと避難していた。



「申し訳ない。まさかこんな事になるとは」



ヴェルナーは素直に謝り、そして隣で呆けたように立ち尽くす一人の人物へ向き直す。



「この失態。君はどう責任を取るつもりだい?」

「はぁ?」



宰相は、気の抜けた返事で返す。

目の前で起きた事が信じられないといった感じで。



「君はここにいる民を扇動し、あの奴隷王を引き入れクリティアを逃がした。これは許されることではないよ?」

「いや、私は……」



宰相はこれは夢ではないのか?と本気で思っていた。


勝利を確信した瞬間、想像すらしていなかった相手にその勝利を掠め取られる。


信じられない。

いや、信じたくも無い悪夢だ。



「当然、覚悟は出来ているよね?あれだけの事をしたんだ。この国だけじゃなく、全てを裏切る行為。極刑でも甘いくらいだね」



ヴェルナーは、近くの兵士に指示を出す。

宰相を牢まで連れて行き、首を落とすように。と



「へ?……いや、ま、まて!私は本当にこの件には関係ない!!」

「今更そんな冗談は聞きたく無いよ。君は処刑場でクリティアが無罪だと主張し、その結果罪を受けるべきクリティアは逃げた。これ以上の証拠があるのかい?」

「何を言ってるんだ?本当に私は……」



宰相は今始めて気がついた。


勝利が掠め取られただけじゃない。

自分は嵌められたのだと。


宰相は自分のした事を思い出す。

クリティアを救えと市民を扇動し処刑を妨げた。


そして、その言葉の通りクリティアは救われた。

例えそれが、自分の意図した結果ではないとしても。


これでは今更どんな言葉を紡いでも、疑いが晴れるわけが無い。



「使者殿。この者はすぐに極刑に処し首を落とします。それで満足できないのであればこの者を拷問にかけ、自白させ、事実を全てを明らかにさせて頂きます。その上でもう一度処分についてお話させて頂きたい」

「い、いえ、その必要はありません」



ヴェルナーの言葉を、帝国の使者は慌てて否定する。

その様子をヴェルナーは目を細めて見つめていた。



「この件は我々も大事にはしたくない。囲んでおきながらあの奴隷王を取り逃してしまいましたから」

「そういって頂けると……本当に、感謝の言葉もありません」



少し早口で捲し立てる帝国の使者に、ヴェルナーは感謝の言葉を述べる。



「なっ!ズルいぞ!使者殿、この件は織り込み済みだったはず!!打ち合わせ通りだったではないですか?!!」



宰相は慌てて反論する。

これは自分一人で画策したことではない。


この処刑自体この国と帝国の間で戦争を始めるための茶番に過ぎなかったはずだ。


なのにその画策は失敗した所かあらぬ疑いをかけられその責任を取らされる。


しかも、一人だけ。

どう考えたって不公平だと、宰相は心の底から思っていた。



「この場で洗いざらい全てを話してもいいのですよ?!!殺されるのであれば私は全て話してやる!!そうなれば貴方もただではすみませんぞ?!」



宰相は叫ぶ。

一人で責任を取るなど、御免だといわんばかりに。


まだ頭は回る。

そして、沢山の情報を握っている自分にはまだ、価値がある。


それを利用すれば、命を繋ぐ位は容易いと宰相は確信していた。



「また……そうやって言葉巧みに皆を混乱させるのかい?」



ただ、宰相の試みは、ヴェルナーの一言で価値のない物へ変わってしまった。



「違う!本当の事だ!!聞きたくは無いか?!私の命さえ担保してくれれば、全て話すぞ?!」



宰相は焦る。

このままでは不味い。


長年の経験がそう叫んでいた。



「君の言葉など信頼出来ないよ。またそうやって狂言を吐いて、時間稼ぎをしているだけかもしれない。信頼の出来ない言葉や情報に価値はない。それ位は分かるだろう?」

「本当だ!今から話すことは全て事実だ!!私は、この使者と通じこの国と帝国との間で戦争を起こそうとしたんだ!!」



宰相は貴重な情報を声の限り、叫んでいた。

何でもいい。


きっかけを作らない限り、自分は処刑されると確信したから。



「それは本当ですが?使者殿」

「いえ、事実無根です。この者とは今日まで会った事もありませんからな」

「だ、そうだよ?」



宰相の視界がぐりゃりと曲がる。


もう詰んでいる。

なまじ回転の早い頭は、その事実を簡単に理解する。


一体何処で間違ったのかすら分からない。


ただ、自分の未来が暗く閉ざされていく事だけは間違い無かった。



「使者殿。お見苦しい所申し訳ありません。すぐに牢へ繋ぎ首を落とします」

「ええ、そうして頂きたい。正直不愉快です」

「連れて行け」



そのヴェルナーの言葉を合図に、兵士達は宰相の腕を掴み、強引に引っ張っていく。



「離せ!!触るな!!情報なら幾らでも渡してやる!!私は嵌められただけだ!こんな結末、私は知らない!!!」



宰相は必死に抵抗する。

ただ、その声も時間の経過と共に小さくなり、そして聞こえなくなった。



「……今回はこれで手を引きましょう。ですがクリティア姫の捜索と処刑は必ず実行して頂きたい。我々も虐殺された市民に対して示しがつきませんからね」



帝国の使者は、ゆっくりと告げる。

ヴェルナーはその言葉にただ神妙に頷き、理解を示すだけであった。



「宰相の首は後ほどお渡しします。そして、奴隷王とクリティアには破格の懸賞金を賭けましょう。もちろん生死は問いません。勿論、我々も追手を差し向けます」

「わかりました。二人を見つけた場合は必ず報告と証拠を提示頂きたい。勿論、死体でも構いません」

「はい、お約束します」



ヴェルナーは使者と小さく握手し、交わした約束を確認し書面に起こす。


そして、確認を終えたヴェルナーは帝国の客人をもてなすように指示を飛ばす。

帝国の騎士達も使者も、今外に出れない状況なのを理解しているのか、それに大人しく従っていた。


そして、慌しく従者が出入りし、帝国の使者や騎士を持て成す為に準備を始める。

手狭な今の部屋から、広く豪華な場所へと彼らを迎え入れる為に。


そして、暫くの時間が流れ、部屋には二人の王子。

ヴェルナーとエルハルトだけが残っていた。



「凄いな。これも全部兄貴が仕込んだのか?」

「まさか、悪魔か天使かも分からない人物が手伝ってくれたおかげだよ」



汗のかいたグラスをエルハルトは差し出していた。

ヴェルナーはそれを受け取り、忘れていた喉の渇きを思い出したかのようにグラスを一気に呷る。


ほのかに柑橘系の香りを残した水は、ヴェルナーの喉を潤すだけでなく疲れた体に染み込んでいくようであった。



「よくやったな、本当に。手品みたいだ」

「そうだね。自分でも、出来すぎだと思うくらいだよ」



飲み干して空になったグラスを窓の縁に置き、ヴェルナーとエルハルトは窓の外を見る。

そこには、未だに歓喜し続ける市民の姿があった。



「これから荒れるな」

「覚悟の上だよ。もういずれ戦いは起きる。今日そのトリガーを引いてしまったからね」

「そうだな」



帝国に対しての小さな勝利。

戦略的に何の価値もないこの勝利は、民衆達が今まで溜めこんだ不満や怒りを解き放ってしまったのだから。


遅かれ早かれ、民衆は再びこの勝利を求め動き始めるだろう。

そこで帝国に対し配慮し、腑抜けた行動をすれば、それはこの国への不信感へと変わってしまう。


あの奴隷王が数人で成し得た事を、この国は出来ないのか。と。

そうなれば、この国は戦わずとも瓦解する。


もう、今までとは違う。

一人の青年が状況の全て変えてしまったのだ。



「ただ、明日すぐに戦争が始まるわけじゃない。これはフィス君が命がけで作ってくれた貴重な時間だよ。無駄には出来ないね」



ヴェルナーは覚悟を決めた目で、窓の外を見続けていた。



「俺は兄さんの選択を嬉しく思うぞ」

「なにがだい?」

「知略を尽くし困難な道を選んでまで、クリティアを、家族を救ってくれたこと誇りに思う。そして一人の家族として感謝する」

「いや、私はただ実利を取った行動をしたまでだよ?クリティアの為じゃない」

「それでもだ」



エルハルトは深々と頭を下げていた。

ヴェルナーがエルハルトから、こんな形で感謝されるなど初めての経験であった。



「困ったね……こういうのは慣れてないんだけど……」



どうしていいのかわからない。

視線を泳がせ、ヴェルナーは頭を恥ずかしそうに掻く。



「なぁ、久々に飲まないか?父上も入れて、腹を割って全てを話そう」

「……そうだね。久しぶりに良いかもね」

「ああ、俺達はお互いを信頼し纏まらなきゃいけない。この国は国力では大幅に負けてんだ。せめて俺達の結束と信頼を固めなきゃ相手にもならいだろう?」

「ふふ、その通りだねエル」

「……その名前呼ぶのはよせ。もう、子供じゃないんだ」



少しムッとした様子で、エルハルトは言う。

ただ、その様子をヴェルナーは懐かしい思いで見つめていた。



(すれ違った時間は戻せはしない。ただ、反省し次へと繋げることは出来る。クレセント、これは君の差し金かい?)



ヴェルナーは今は存在しない相手へ心の中で問いかける。

いつからか狂い始めた歯車。


それを直す手がかりを見つけた様な気さえしていた。

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