第20話
◆
「聞こえるか?」
「ああ……」
石造りの部屋。
そこに遥か遠くから響いてくる声の塊が届いていた。
”フィス”と”奴隷王”。その二つの名を交互に呼ぶ声が。
部屋には二人の男がいる。
一人の男は力なく床に倒れ、もう一人は両の足で立ちどこか誇らしそうに頷いていた。
「お前のしたこと全てが無駄だったとフィスは証明したな」
両の足で立っている男。
北位の剣闘士の長であるゾットは言った。
血で赤黒く染まった皮鎧を纏い、もう一人の男を見下しながら。
「その通りだ。でも、これで諦めがつく……」
もう一人の男は、ディーン。
元盗賊であり、ゾットと同じ北位の剣闘士であった男。
ディーンの全身は傷だらけで、足の筋が切られもはや立つことさえままならない。
床に転がり天井を見上げる事しか出来ない有様であった。
「どちらにせよ、お前は死んでいた。とでも言いたいのか?」
「……そうだよ。俺は弱い。剣闘士として50勝なんて出来るわけがない。かといって自分を奴隷から救うだけの金もねぇ。だから、フィスだ。あいつを殺せば俺は……」
人としてもう一度生きることが出来た。
その言葉をディーンは紡げなかった。
全ての行動は無意味だった。と証明されてしまったから。
結果から言えば、ディーンは仲間を裏切り、ただ無駄死にする弱くて情けない存在でしかない。
「はぁ……お前は弱い。呆れるほどにな」
「何とでもいえ」
ディーンは小さく息を吐く。
その表情に怒りなどは無い。
”弱い”という言葉が不思議と抵抗なく受け入れられたからだ。
きっかけは、嫉妬だったとディーンは理解していた。
フィスという少年への嫉妬。
フィスは全てを得ていた。
生きる権利は勿論、力も魔法も、名声も仲間も……剣闘士として生きる上で必要な全てを。
ディーンがどれだけ努力しても得られなかった物を短期間で全て得たのだ。
片やディーンは、死に怯え、明日を迎える恐怖から逃れる為に酒に縋っていた。
それでも、なんとか耐えてこれた。
それは同じ境遇の仲間がいたからだ。
自分と同じ恐怖に怯え、酒におぼれる仲間が。
ただ、その仲間もフィスという少年は奪い去っていた。
眩しい位に努力し、血反吐を吐き戦う少年に当てられるように、北位の仲間は変わっていった。
自分にも出来るのではないか?と錯覚し始めたのだ。
その結果、酒におぼれる仲間も段々と減り、ディーンは再び耐えられない恐怖と一人で戦う羽目になってしまった。
勿論、ディーンもその恐怖から逃れる為に抗った。
酒を断ち、血反吐を吐く努力を繰り返した。
時には、フィスに身に着けた技術を授ける事さえあった。
ただ、元盗賊のディーンは純粋な強さだけで測れば、剣闘士の中でも底辺。
いくら努力しても、他の人間には追い付く事などできなかった。
取り残されて行くディーンに、先へ進んでいくフィス。
その現実に、ディーンは嫉妬せずにはいられなかった。
そんな時だった。
フィスを殺せ。そんな誘いが来たのは。
フィスさえ殺せば剣闘士から解き放たれ、自由と一生遊んで暮らせる金が手に入る。
そんな誘いが誰もが知る大店がやってきたのだ。
ディーンはもはやその誘いを断る事など出来なかった。
それどころか、これこそが自身の生きる唯一の道だと確信してしまった。
ただ、その決断は間違っていた。
結局のところ、生きる道など無かったのだ。とディーンは痛感するしかなかった。
”弱い”人間は、ただ他人の餌となり死んでいくしかないという事実を、ディーンはやっと受け入れられた気がしていた。
「しかし、お前までフィスの為に命まで賭けるとはな。誤算だったよ」
「フィスだけの為じゃない。俺は北位の長だ。だから、ディーン。お前も助けに来た」
「ハハッ、俺を殺しに来た奴が助けるだ?頭沸いてんのか?」
ディーンは笑う。
何を血迷ったこと事言っているのかと、ゾットを馬鹿にしながら。
ただ、ゾットは真逆の反応だった。
かすりも笑わず、目は真剣そのものだった。
「お前は何故仲間を売ってまで生きようとした?」
「はぁ?決まってるだろ。人としてもう一度生きる為だよ!奴隷じゃなくてな!!」
ディーンは声を荒げ答える。
当たり前の事だ。好きでやった訳じゃない。
奴隷は人では無い。
剣闘士もチヤホヤされているが所詮そんなのは一部の剣闘士だけだ。
他の剣闘士は奴隷と同じ。
観衆の憂さ晴らしにただ殺される餌でしかない。
なら、そこから逃れ、他人を蹴落としてでも”人”として生きようとするのは当たり前の事だ。
そんな思いが、ディーン胸の奥から怒りの感情と共に沸き上がっていた。
「なら聞くが、フィスを殺し損ねたお前はどうなる?今後人として生きられるのか?」
「何言って……」
その時、ディーンはハッと気が付いた。
ゾット言葉の意味。
そして、一つの結論に辿り着く。
「そうか、フィスを殺せなかった時点で俺は……」
ディーンには、もう人として生きる道が無い事を。
フィスが生き残れば、もう後には引けない。
どんな手段を使ってでも、誰を巻き込んでても、フィスを殺すまで辞められなくなる。
もはや、剣闘士としてディーンの居場所は無い。
悪事が明らかになった以上、犯罪者として処刑されるかもしれない。
そんな、ディーンが生き残る唯一の道。
それは暗殺者として金で買われ今度は他人の玩具となり死ぬまで生きるしかないのだ。
それはもはやディーンの言う”人”では無かった。
むしろ、殺す相手と死ぬ場所を多少なりとも選べる剣闘士の方がマシだ。
その事にディーンは初めて気が付いたのだ。
「仲間を裏切ったお前を許す事は出来ねぇ。ただ、お前は仲間だ。放っておくわけにもいかねぇ。だから俺はここに来た」
「……馬鹿じゃねぇのか?」
ディーンは理解してしまった。
目の前の男。
北位の長であるゾットはディーンを救いに来てくれたのだと。
そして、その結果がどうなるのかも。
「……同じ結果になるのなら、フィスやお前たちと一緒にいた方が楽しかったかもな」
「その通りだよ。お前が取るべき選択はそれだった」
「はっ、結果が分かってればこんな選択取らなかったよ」
自嘲気味にディーンは呟く。
こんな結果になるのであれば、誰だってこんな行動はとるわけがない。
素晴らしい仲間がいた。
それなのに一体どこで間違ったのか?そうディーンは自問せずにはいられなかった。
「違うな。その考えが根本的に間違ってんだよ」
「どういう事だ?」
「お前は最後まで俺たち仲間を、なにより自分を信じられなかった。だから裏切った」
ゾットは言う。
ディーンの弱さを指摘するように。
「だがな。フィスは信じたぞ?お前という信頼してた仲間に裏切られ、大事なものを奪われたのにも関わらず、俺たち仲間をもう一度信じた。なによりも、自分を信じ貫いた。同じ状況でお前にその選択が出来るか?」
「……できねぇなぁ」
「それが違いじゃねえか?お前とフィスのよ」
ディーンは大きく息を吐く。
そして、何もない天井をもう一度見つめる。
ほんの少し前に、ディーンの心の中から沸き上がった怒りや嫉妬の感情は消え失せていた。
穏やかな気持ちが溢れ、”一体どこで間違ったのか?”という自身の疑問が解決した様な気さえしていた。
「不思議な奴だな。こんな糞みたいな世界でどうしてあんなに人を信じられるんだ?」
「わからねぇ。別の世界の人間なんじゃないか?」
ゾットとディーン。
二人は顔を見合わせ、一斉に声を出して笑いあう。
余にも突飛で、それでいて納得出来る答えだったから。
「まぁいい。話はこれで終わりだ。今度また酒でも飲むか」
「ああ、先に行って待ってるぜ。アンタもすぐ来ることになるだろ?」
いつの間にか二人の間には穏やかな雰囲気が流れ、口調は仲間同士のそれに戻っていた。
まるで剣闘士の食堂で交わされる軽口の様に。
そんな和やかな雰囲気の中、ゾットはディーンの傍まで歩き、剣を構える。
「だろうな。2,3日って所だろう」
「なら、構わねぇよ。」
「先に行って旨い酒を用意しておいてくれ」
「任せておけ」
ゾットは長年の友人を見送る様に笑い。
ディーンも満足気に目を閉じる。
「あとな……」
「なんだ?」
「すまねぇ。助かった」
「気にすんな。俺たちは仲間だからな」
そう言ってゾットは剣を振り上げ、そして振り下ろす。
ガンという音と共に、剣が床に刺さり小さな血しぶきが上がる。
その床に刺さった剣の隣には、穏やかな表情の首がゴロリと転がっていた。
◆
「以上が報告となります」
皇帝の側近は、そう言って頭を下げる。
豪華な家具や毛皮が鎮座する皇帝の私室には、側近と皇帝の二人以外には誰もいない。
側近が取り計らった剣闘士の試合。
それとほぼ同時に発生した一つの事件に関して皇帝に報告をしたのだ。
その事件とは、大店であるディパン商会に一人の盗賊が侵入し、傭兵から従業員まで無差別に虐殺したという物だった。
それだけであれば、賊を捉えれば終わる大した話ではない。
ただ、その盗賊によってディパン商会が臣民を拉致し奴隷や人質として売り捌き、土地の地上げ、食料品の買い占めなど暴虐の限りを尽くしてい。という事実も明らかになったのだ。
「では、ディパン商会の代表者は晒し首。店の財産・利益は国が回収。と言ったところが妥当であろうな」
「はい。ですが、今回のきっかけといいますか、商会を襲ったゾットという剣闘士についてですが……」
側近は困ったような表情を浮かべ、言葉を濁してしまう。
「構わん。続けよ」
「……実は、評議員の数名や臣民達から命を救ってくれとの嘆願がきております。どうやらディパン商会は評議員の子供を人質として拉致していたようで……また、その人質達も賊ではなくそのゾットという剣闘士は助けに来てくれたと言い張っておりますので……」
側近は申し訳なさそうに告げる。
平たく言えば、犯罪者を皇帝の恩赦で無実にしろ。という要請なのだ。
そんな事をすれば、皇帝を快く思わない者達に攻撃の材料を与える事になる。
「無理だな。嘆願は聞けぬと伝えよ」
皇帝は簡潔に答える
「今回の発端は、評議員の台頭が我慢ならない世襲の上位議員共が、剣闘士の少年を殺そうとした事が原因だ。恐らくディパン商会はその議員達の指示で動いていたであろう」
「しかし、無下に断るわけにも……事実、人質として捕らわれていた訳ですから……」
側近は困った表情を浮かべていた。
子供を人質として捕えられていた評議員からの嘆願を受けたのは側近であった。
だからこそ、側近は知っている。
評議員達の怒りは生半可な物では無い事を。
「確かにな。上位議員共の無作法なやり方は明るみに出た。しかし、上位議員達の関連を決定づける証拠は何も無い。これでは罰せられん。それに、この二つの勢力はこれから対立し、争い合うだろう。であれば、尚更今はどちらにも肩入れすべきではない。もっと大局を見て勝ち馬に乗るのが正道であろう」
「なるほど……」
側近は素直に頷く。
皇帝の言葉に論理的で非常に納得出来る物だと感じていた。
「この問題は、法に乗っ取って対処せよ。根回しは……そうだな。証拠がなくどうしても動けない旨を評議員に事前に伝え、上位議員達には首謀者を口封じする旨をそれとなく伝えておけばいい」
「御意にございます。では、法に従いディパン商会の者とゾットという剣闘士の首を町中に晒します」
「それでいい」
皇帝は一度頷くと、側近に退出するように命令する。
側近も直ぐに身を翻し部屋から出ていく。
側近が部屋から出るまでの時間。
それは本当に僅かな時間であったが、その数秒すら待ちきず皇帝は小さく肩を揺らしていた。
「ククッ……アッーハハハ!!」
パタンと重厚な扉が閉まった途端、栓が外れたように皇帝は笑い声を上げていた。
「これでようやく足がかりが出来た!感謝するぞ!!剣闘士達よ!!」
皇帝はダンと嬉しそうに掌で机を叩きつける。
狂気にも似た笑みを浮かべながら。
◆
街の中心には、木の足場が組まれ簡易的な舞台の様な場所が出来上がっていた。
人の頭位の高さに土台が組まれ、遠くからでも見える様に配慮されている。
それは、簡易的に作られた処刑台であった。
「すまない。恩人にこんなことを……」
「はぁ?」
「娘は君に助けられたんだ。本当に感謝している」
北位の長であるゾットは、呆けた声を上げていた。
というのも、ゾットは今まさに括り付けられていた。
街の中心に作られた簡易的な処刑台の上に。
ただ、処刑を執り行う周りの兵士達が一様にゾットに謝罪と感謝を伝えている。
「訳がわからねぇな……」
ゾットはただ困惑していた。
処刑人の最後とは、石や罵声を浴びせられ死んでいく。
それが常識であったから。
その常識が間違っていた訳ではない。
ゾットの隣では、その常識が既に実践されている。
ゾットの隣に張り付けられただらしなく太った男。
ディパン商会の代表者グリフと呼ばれた男には、無数の石と罵声が投げかけられている。
「これから罪状を読み上げる」
身なりの良い男が、ゾットとグリフに堅苦しく長々しい言葉を並べ立てていく。
言い回しこそ回りくどいが、ゾットは無差別な殺人犯。
グリフは不当な方法で商売を行った罪悪人として、処刑するという物であった。
「なんだこの光景……」
罪状が読み上げられている間。
その間にも、グリフには石や罵声が投げかけられていた。
それは特に珍しい事ではない。
異質な点があるとすれば、ゾットに石の一つも投げられる事は無く。
それどころか、ゾットの前で膝を祈りを捧げる者まで現れていた事であった。
ゾットは自分は悪人だという自覚こそあれ、祈られるような人物ではないと確信している。
ただ、そんなゾットの認識とは真逆に、祈りを捧げる人間は流行り病の様に伝染し、次から次へと数を増やしていく。
「性に合わねえな……まぁ、見晴らしはいいけどよ」
跪き祈りを捧げる人々のせいで、人だかりの随分と奥まで見渡せるようになっていた。
祈りを捧げてない群衆は、グリフに石と罵声を投げ続けている。
グリフは、当たり所が悪かったのか随分と前に意識を手放している。
(ん?あれは……)
人だかりの奥。
そこに、ゾットが良く知る人物がいた。
薄汚れたローブを着た老人が杖を前に構え、その周りには剣を携えた数人の男たちが殺気を放ち立っている。
男たちは顔を見合わせ頷き合い、剣を抜こうと柄に手をかけていた。
「辞めろ!!」
ゾットは反射的に叫んでいた。
「こんな事をしてもらう為に俺は行動した訳じゃねぇ!!」
ゾットは即座に理解した。
祈る群衆の奥で殺気を放っているのは、セネクスと北位の剣闘士達だと。
そして、彼らがやろうとしている事も。
「今回の事は全ては俺の責任だ。だから、そのけじめは自分でつける!もし、それでも足りねぇっていうなら、お前らはフィスや北位の仲間達を守ってやってくれ!!」
そのゾットの叫びに答えたのは、同じ剣闘士の仲間。
……では、無かった
ゾットの前で祈りをささげていた群衆やグリフに石を投げていた男達であった。
「このご恩は必ずフィス様や北位の皆さまにお返します!!」
投石をしていた群衆の一人が、手に持っていた石を手放し叫んでいた。
その声は直ぐに大きな輪となり、ゾットの周りには跪き祈りを捧げる沢山の人の輪が広がっていく。
「なんだこれ……?」
民衆というのは底抜けの馬鹿なのか?
ゾットはそう思わずにはいられなかった。
「まぁいいか。ちょうどいいしな」
馬鹿であれ、なんであれ。ゾットはどうでもいいと判断する。
そして、利用出来るのであれば、それは遠慮なく活用しようと。
「今のうちだ。どっかの馬鹿が変な行動起こす前に俺を処刑しちまいな。お前らもこれ以上騒ぎが大きくなれば大変だろ?」
ゾットは周りの衛兵に告げる。
衛兵はその言葉に頷き、ただ謝り続けながら持っていた槍を構える。
そして、大きな銅鑼の音が鳴った。
群衆から小さな悲鳴が上がり、少しの間をおいて街の中心は静寂に包まれていく。
その日、街の中心に二つの首が晒されていた。
一つは、恨みをぶつけられ歪に変形し、鳥や鼠に啄まれ原型を留めてはいなかった。
ただ、もう一つは代わる代わる人が傍に立ち、供物が捧げられ傷一付くことは無かった。
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