第8話

「大分動くようになったな」


僕は軽くジャンプし、腕を回し、首を左右に振る。

うん。問題ない。

やっと体が動くようになった。


今日で僕が体を動かせなくなってから30日が経過している。


寝たきりでまったく動けなかったので、筋肉が落ちて立てないかな?

と、思ってたけど大丈夫みたい。剣くらいは振れそうだ。


ただ、動くたびに筋肉が引きつるような感じがする。

当分はリハビリ生活しなきゃかな。



「ふむ、とりあえず問題なさそうじゃな」

「はい!ありがとうございました!」



その様子を隣で見ていたセネクスさんに僕は深々と頭を下げる。


色々あったけど、本当に良くしてくれるいい人だ。

変な所で意地悪で……お金に細かくて……

うん、いい人で終わっておこう。



「ま、元気になってなによりだな!俺の仕事も今日で終わりだ」



僕の世話をしてくれた少女。

ルーチェは頭の後ろで手を組み、シシッと歯を見せて笑っていた。

相変わらず短い髪はボサボサで、少年の様な出で立ちなのは変わってない。



「そうじゃな、ホレ。これはサービスじゃ」



せネクスさんは、ポンと小さな袋をルーチェに投げる。

その袋はズシャと鈍い音を立てて、ルーチェの手の中に納まっていた。



「……槍でも降るんじゃないのか?」



ズシャという重そうな音がした袋。

その中を見たルーチェは驚いていた。


ただ、その驚きはすぐに疑いに変わっていたけど。


まぁ、なんだかんだ言ってもセネクスさんはいい人だからね。

絶対に優しくはないけど!



「でも、これだけあれば今の家に住み続けられる。ほんと感謝するぜ爺さん」

「なに安いもんじゃて。また小僧になにかあれば頼むぞ?」

「ははっ!今度はもっと高いぞ?」

「む?それはちょっと交渉が必要じゃな」



二人は楽しそうに笑う。

なんていうか、おじいちゃんと孫。

傍から見れば誰だってそう思う位の微笑ましい光景だった。



「本当にありがとう。ルーチェ」



僕はルーチェに深く頭を下げる。

思い出したくも無い過去だけど。

それでも、ルーチェには感謝しかない。



「俺は金のためにやったんだ。いちいち気にすんなって!」



本当にルーチェは良い子だ。

それに30日という短い期間だったけど凄く仲良くなれた。

この世界で歳が近い子と話せたのなんて初めてだった。

本当はもうちょっと話をしたいけど、今の僕に許される事じゃない。

僕は剣闘士であり、そして奴隷なのだ。



「そうだ!今度俺んちに遊びにこい。兄弟達と一緒に歓迎してやるぜ!!」

「えっ?いいの?」

「当たり前だろ!俺たちはもう友達だからな!!」

「友達……」



その言葉の響きに僕はちょっと感動する。

ルーチェは僕の肩をバンバンと叩いてくるので、あんまり感傷に浸る事は出来なかったけど。


でも、これで僕はルーチェは友達になった。

この世界で初めての友達だ!



「絶対行くよ!」

「いつでも待ってるぜ!!」



僕とルーチェは握手を交わす。

その手は傷一つない綺麗な手。


では無かった。

数えきれないくらいの小さな傷つと、豆のつぶれた跡。

必死に生きている人の手。


だけど、凄く柔らかい手だった。



「じゃあな。フィス!家に来るまでは死ぬなよな!!」



そのままルーチェは部屋から出ていった。

ドアの所で一旦振り返って恥ずかしそうに手を振る仕草など

どうみても少女のそれにしか見えなかったけど。



「ええ娘じゃろ?」

「僕もそう思います」



確かに今のルーチェは可愛かった。

どこはほんわりとした空気になる。



「あの少女にお主は下の世話をしてもらったんじゃな……」



セネクスッ!!

今の良い雰囲気で何てこと言うのさ

一気に台無しだよ!!

色々と感謝すべき事は山ほどあるので、文句は言わないけどさ!

ただ、抗議の視線だけは送っておく!断固抗議の視線だけは!



「さて、ワシはおぬしに話しておくことがある。ついてくるのじゃ」

「……はい」



ただ、その視線にこの意地悪な爺さんが気が付く事は無かった。

ホホッと笑いながら、部屋を出ていく。

僕はその背中にただただ抗議の視線を送り続ける事しか出来なかった。





「さて、おぬしに話しておくことがある」



僕は魔法使いの老人セネクスさんの部屋まで連れてこられた。

ただ、さっきまでの飄々とした感じじゃない。

凄く真面目な感じだ。



「なんですか?改まって……」



僕も流石にその空気を感じ取って、背筋を伸ばし言葉を待つ。



「おぬし、先の試合で強化魔法をつかったじゃろ?」

「ええ、使わなかったら10回は死んでました」



勿論使いましたよ?

だって、その為に訓練したんですから。



「試合の途中、強化魔法の効果や威力が爆発的に上がったじゃろ?」

「あがりました。観衆の声を聴くたびにワクワクした気持ちが抑えられなくなって」



あぁ……、あの時の事。

理由は分からないけど、いきなり強くなった。


観客の声援が大きくなって、それと同時に胸の奥からワクワクした感情が

湧き上がってきて……相手を圧倒した。


少しでもその時間を楽しむ為に、剣ではなく蹴りや拳まで使って。

思えばあんな事をしたせいで僕は腹に槍を受ける事になったんだけど。



「相手を舐めすぎるなって事ですか?」



あれは、言い訳のしようもない。

大反省すべき事だと思う。



「違うのぅ」



セネクスさんは、持っていた杖を床に突きコンコンと鳴らす。

少しイライラした感じから察するに、それも理由の一部ではあるんだと僕は思う。

やっぱり、ああいった事は2度とやらないと心に誓っておく。



「……おぬしは他人の感情を魔力へ変換する力が強すぎるのじゃ」

「はい?」



ごめんなさい。

言ってる事がちょっと分からないですね。



「本来、人いや感情を持つ生物であれば、必ず魔力を持っておる」



セネクスさんは、そんな僕の心を見透かしたかのように小さく溜息をつく。

うぅ……胸が痛い。

頭が悪くてごめんなさい……



「だからこそ、自身の魔力しいては感情を維持・発現する為に、基本的に他人の魔力。つまり他人の感情が体内に入り込むのを拒絶するのじゃ。例え取り入れられたとしても極僅か。少し体力が回復するとか疲れにくくなる程度じゃ」



初めて聞いたかも?

もしかしたら、初めての説明で話していた事かもしれないけど

僕がちゃんと理解してなかっただけかもしれない。



「しかし、おぬしは違う」



セネクスさんは、床を突いていた杖をピタっと止め、僕を真正面から見つめる。



「他人の感情を高い次元で吸収し、魔力に変えおった。ワシの想像以上の力にな。本来そんな事は易々と出来ん。それこそ命を代償として賭けん限りはな」

「ま、まぁ……良いことですよね?この場所で生き抜くには」



良く分からないけど。

凄く良い事じゃないか?

他人の感情が渦巻くコロセウムで感情を魔力に変換できるのであれば、それはすごい力になる。



「よいか、他人の感情を魔力に変換する事は今後一切辞めろ。2度と使うな。」



真剣な顔でセネクスさんは言う。

いつもの口調すら違う言葉。

それがどれだけ重要な事なのか僕に教えているようだった。



「本来持っている魔力を遥かに超えた力なんて人に扱いきれる訳がない。耐えきれん。心か体どちらかが先に壊れてしまうぞ」

「死ぬって事ですか?」



僕は思わず唾を飲む。

それが本当なら、今回30日程度動けない位で済んだのは僥倖だったのかもしれない。



「それもある。心が壊れ廃人になる可能性もある。過剰な魔力が爆発し肉片になるかもしれん。詳細は分からん。なにしろ前例が少ない事じゃからな」

「少ないって事は今までにもあるんですか??」



僕みたいな人間が過去にもいたのだろうか?

だったら、その人たちがどんな末路を辿ったのか教えてほしい。



「伝承でしかワシも知らん、狂戦士、呪術師、代魂術師、などの話がある。」

「結構あるじゃないですか……」

「あくまで伝承じゃて、話されている内容も書物によって異なるからの、中には灰になって死んだ。などという到底信じられん記述すらある。真実なんて分からんわい」



結局は、分からないって事みたいだ。

でも、他人の感情を魔力に変換する事が危険だって事は分かった。

禁忌の魔法としてもう2度と使わない。


ただ、もしそれを使うとしたら。

禁忌を破るとしたら……。


大事な人。命を賭けても救いたい人を助ける為。

僕は心の中で静かに誓った。





「俺たちの仲間に盃を!!」

「「「「「オオォォ!!」」」」」」



右目に傷のある男が声を上げ、それをきっかけに野太い歓声が響き渡る。


ここは食堂。

僕とアィールさんは、半ば強制的にこの場所に連れてこられたのだ。


床に堆く積まれた酒瓶に、沢山の料理が並んだ机。

ここは本当に奴隷が集まる場所なのか?と疑ってしまう位だ。


その中心にアィールさんと僕は立たされている。

一見イジメにも見えるがそうではない。

その逆だ。


僕とアィールさんの歓迎会がここで催され、その主賓として僕らは中心に立たされているのだ。

参加しているのは、北位の剣闘士達。

つまり、僕らの先輩達だ。

皆顔を赤く染め、上機嫌で僕たちに話しかけ、肩を抱き、陽気な話をし、そして最後には必ず自慢話を始める。

このあいだの険悪な雰囲気など微塵も感じられない。


酒が入るたびに、皆どんどん上機嫌になっていく。

正直めんどくさいけど、疎まれたりするよりかは遥かにマシだ。



「こんな気のいい人達でしたっけ?」



僕はやっとの思いでその酒臭い輪の中から抜け出しアィールさんに駆け寄る。

アィールさんは早々にあの輪から離脱していたので、ちょっと不公平だと思う。



「さあな、酒が飲めるからじゃないか?前の印象とはだいぶ違うけどな」



アィールさんも少し呆れ気味だった。

ただ、喧噪を見つめるその表情は柔らかくどこか楽しそうでもあった。



「それだけじゃねぇな」



そんな僕らの会話に横槍が入る。

その人物は右目に大きな傷のある男。

傷のせいだろうかその目は半分ほどしか開いていない。



「お前たちが強いからだ。仲間に強い奴が増えればそれだけ俺たちの死ぬ確率が減る。だから、あんなに盛り上がってんだ」



強いって……アィールさんはともかく僕は違うと思う。

でも、理解は出来たよ。

強い奴なら歓迎だ。とも言ってたもんね。


ただ……うわぁ……

先輩達……盛り上がりすぎでしょ。


あの人たち服を脱いで上半身裸で騒ぎ始めたよ。

絶対あの輪には入りたくない。



「ああ、そういえば自己紹介がまだだったな。俺の名はゾット。一応この北位で長をやらせてもらっている。試合で俺を見た奴はゾットする。なんて言われてるぜ?」

「え?……あっ!……あはは……」



ヤバい。

どうリアクションしていいか悩むぞ

助けを求める為にアィールさんを見れば……

あっ、視線そらした!

ズルいよ!!



「何だ?反応が薄いな?酒が足りてないんじゃねぇか?ほらちょっと来い!!」



違う!反応が薄いんじゃない。

反応に困ってるの!



「あ、大丈夫です!僕未成年なんで!!」

「何言ってんだ?よくわかんねぇがこっちへ来い!!」

「あっ!いいです!本当に遠慮じゃなくて!!」

「言ったろ?強い奴は大歓迎だって。それは酒にも言える事だぞ?」

「ちょ、アィールさん助け……」



助けを求めるもそれが叶う事は無かった。

アィールさんは視線を逸らし、僕はゾットさんに引きずられ

酒臭い輪の中に引きずりこまれてしまった。


そこからは……地獄だった。


ゾットさんは最初のイメージとは全然違う気さくな人だけど……

話を聞かない人だっていうのはよく分かった。


そして、今後出来るだけ近づかないようにしようとも。


ただ、その誓いは翌日には簡単に破られてしまう。

他ならぬゾットさんによって。





「恨むぞ……クソガキが……」

「ええ、お好きなように」



敵の最後の言葉。

それを僕は受け止め、敵の胸へ剣を突き立てる。


剣先の感触から命の灯が失われていくのが伝わってくる。

この感触だけは慣れる事が無い。


その一連の所作を見ていた観客からは割れんばかりの歓声が上がっていた。

蜜蜂の巣みたいな観客席。

そこから上がる歓声は相変わらず凄まじい。

油断をすればその感情の渦に簡単に飲み込まれそうになる。


僕は小さく息を吐く。

そして敵の胸から剣を引き抜き、素早く振る。

ヒュと音立てるだけで、剣からは血が無くなっていた。


これで僕は剣闘士としての10勝目を手にしたことになる。


ここに……コロセウムに来てから半年以上。

僕がこの世界に転移してから1年もの時が経った。


僕の身長も体も多少は大きくなったけど、北位の仲間からはまだまだ子供扱いだ。

別に嫌ではないからいいけど。


ただ、僕は実力。

それだけは1年前とまるで違っていた。


はっきり言って強くなった。


それは北位の長であるゾットさん。

彼の指示で色々な人から戦いの指導を受けたおかげだ。


盗賊上がりのディーンさんからは、盗賊の技術と正攻法でない汚い戦い方。

槍使いのトルアさんからは、間合いの長い敵との戦い方

そして、ゾットさんからは、効果的な攻撃の組み立て方。


北位の中でも特異な技術を持つ人から、その技術を直接叩き込まれたのだ。

アィールさんも”他では得られない良い経験”だと太鼓判を押してくれた。


何度も血反吐を吐いたけど、その成果は抜群だった。

というか、本来なら教えて貰えない技術を特別に教えて貰ってるのだ。

強くならない方がどうかしてる。


事実、今日の試合などは強化魔法すら使っていない。



「……まだだ、もっと強くならないと」



僕は確かに強くなった。

だけど、アィールさんの隣に立つにはまだまだ足りない。


もっともっと技術を学び、体を鍛える必要がある。

それを怠ればアィールさんと並ぶどころか、目の前の屍と入れ替わるだけだ。


僕は目の前の屍に一礼すると、剣闘士の控室に戻る為に会場を後にする。

その間も僕への歓声が止むことは無かった。





「強くなったな。フィス」



歓声が響く会場から控室に戻る最中。

石壁の廊下でアィールさんに声をかけられる。



「全然です。訓練では一度もアィールさんに勝ててませんから」

「俺に勝つなんて10年早いぞ」



アィールさんは笑いながら僕の肩を小突く。

既に40勝している凄腕の剣闘士としてアィールさんは有名になっている。

当然、人気も物凄く高い。

強い剣闘士はそれだけで英雄として扱われるのだから。



「油断して負けないでくださいね」



アィールさんがここにいる理由。

それは僕に声をかける為じゃない。


次の試合。今日の大一番の試合。

それに出場する為だ。


僕の試合なんて、アィールさんの試合を盛り上げる為の前座でしかない。



「ああ、分かってる。全力を尽くすさ」



アィールさんは片手を上げ、会場の光の中へ消えていく。

その瞬間、歓声が爆発し石壁が震える。



「どれだけ人気なんだか」



あまりの人気に少し呆れてしまう。

僕はアィールさんの試合を見る事は無い。


もう結果が分かっているから。

その間に訓練して少しでも強くなる方を僕は選ぶ。


でないと、僕がアィール追いつくことは永遠にない。

それ位僕とアィールさんの間には差があるのだ。





観客席の中央。

剣闘士が戦う姿を一番良く見られる場所。

そこには深紅の絨毯が引かれ、その上には細かな装飾の施された椅子が置かれている。


椅子には、一人の男が座っている。

赤いトーガを着ただけのシンプルな出で立ちの男。


ただ、その男の周りには重厚な鎧と武器を携えた兵士。

そして、一人の従者が綺麗に整列をしている。


それも当然の事であった。

兵士達を従え椅子に座る男。

皇帝であった。

この国において唯一無二の存在。



「誰だ?あの男は」



会場の中心で歓声を浴び続ける男。

その男を見つめながら、皇帝は傍にいる従者に尋ねる。

従者はその問いに答える為に一歩前へ出て頭を下げる。

それほど観客が上げる歓声が大きいのだ。



「半年前に北位にやってきた奴隷でございます。面白い事にこの半年の試合の殆どをこなしており、一日で2試合こなしている事も珍しくありません」

「ほぅ、面白いな」



従者の答えは、皇帝に興味持たせるには十分であった。

男は、ほんの数回剣を合わせるだけで敵の剣闘士を簡単に屠っている。

その圧倒的な強さは観客を魅了するには十分だろう。



「ならば、次は後ろの近衛騎士と戦わせてみよ」

「はっ?」

「聞こえなかったのか?」

「いえ、申し訳ありません……ですが……」



従者は皇帝の真意を探ろうと会話の端々で顔を盗み見る

皇帝はただ無表示で会場を見つめるだけ。

そこに深い意図があるのかすら従者には分からなかった。



「ああ、待て。1対1では面白くないな。2対2、いや、3対3の方が面白かろう」

「3人もですか!」

「問題でもあるの?」



従者は皇帝の突拍子の無い言葉に唖然とするが、すぐに反論しようと言葉を組み立てる。



「近衛騎士は全部で10名です。内3名を戦わせるなど……もし我が近衛騎士が負けるような事があれば……」

「ククッ、面子が立たんか?」

「はい、陛下の護衛にも支障が出る上に、騎士の威信も地に落ちるかと……」



皇帝はその言葉を聞いて笑っていた。

予想通りの反論が心地いい。そんな感じにさえ見える。



「よいよい、余が楽しめればそれでいいのだ」

「ですが」

「くどいぞ?ならばお前が出るか?」



皇帝はその言葉共に従者を睨み付ける。

その鋭い視線に、従者は背筋が凍る様な寒気を覚える。

目の前の皇帝と呼ばれる男が、母親殺しという禁忌を犯した事を思い出したのだ。



「言葉が過ぎました陛下。お許しください。」



従者は頭を深く下げる。

それは、皇帝への無礼を詫びるというよりも、一刻も早く視線から逃れたい。

そんな思いから出た行動であった。



「では、早速手配せよ」

「はっ」



従者は逃げる様にその場から去っていく。

皇帝はその従者を一瞥することも無く、ただ会場の中心に目を向けていた。

観客からアィールと叫ばれ続けるその男を。





「なんだあの皇帝は!!」

「我らをなんだと思っておる!!」



石壁に囲まれた小さな一室。

壁には槍や剣などの武器が所狭しと飾られている。

そこは近衛騎士達の詰め所。


簡単な装備の点検や、護衛の引き継ぎを行う為の部屋であった。

今は引き継ぎや武具の点検は行われてはいない。

ただ、皇帝への不満や近衛騎士達の扱いに対する不当さを訴える声だけが響いている。



「なぜ、自分たちが剣闘士……いや、奴隷風情と!!」



一人の若い騎士が机をダンと叩く。

近衛騎士とは、一つの象徴でもある。

辛い訓練を乗り越え、その中でも特に優秀な騎士だけがなれる名誉職なのだ。


だからこそ、剣闘士などという野蛮な奴隷と戦わせられる事など

近衛騎士にとって屈辱以外の何物でもない。



「陛下は我々を疑っておられる」



不満や愚痴を苦々しい顔で聞いていた一人の男が声を上げる。

年齢にして40歳を過ぎたあたり。

顔に深く刻まれた皺は様々な経験を刻みこんだ年輪の様にも見える。

彼は騎士の中でもベテランの部類に属し、その経験に見合うだけの実力を備えた男。

近衛騎士の隊長であった。



「何故善政を行っていた陛下があんな風に変わられてしまったか。皆も知っているだろう?」



騎士隊長は近衛騎士全員を見る。

良く知った顔であった。

近衛騎士は皇帝を守るという特性上、基本的に入れ替わる事がない。

暗殺を防ぐ為にも、信頼できる人員だけで構成されるのが通例である。

つまりここにいる近衛騎士全員が、今の皇帝が即位してからずっと傍に仕えている。



「……」



過去の皇帝を知る近衛騎士だからこそ、その言葉の意味が分かる。

皇帝がああなってしまった理由は、自分たちにある。そう思っている騎士さえいる位だ。



「ならば我々はどんな時であろうと無理難題に応え陛下の味方であると、証明すべき良い機会だとは思わんか?」



その言葉に反論する者はいなかった。

先ほどまで止むことのなかった愚痴や不満の代わりに

カチッカチッという柱時計の音がだけが石壁に反響する。



「俺は……戦います」



その沈黙を破ったのは先ほど机を叩いた一番若い騎士であった。



「陛下を元に戻せる。その為の一歩になるのであれば奴隷とだって喜んで戦います」



その言葉を皮切りに、他の騎士も若い騎士に賛同していく。

先ほどまで出ていた不満や愚痴はもう見られなかった。


騎士隊長は安堵する。

近衛騎士の本懐は優遇される事ではない。

陛下を一番に考える事である。


それが消え去っていない事を確認できたのだ。

あとは、その忠義を皇帝へと示すだけでいい。



「皆、本当に感謝する」



その騎士隊長の言葉に近衛騎士たちは、頷き、手を取り合う。

それは自分達に失われていた一番大切な物を思い出したかのようであった。



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