第3話 こわいおんな
会社に戻って気付いた。スーツが臭う気がする。
これ、クリーニング出したのはいつだったろう…。
雨に濡れてレインコートでビニールハウスみたいに温められた服が匂いを発散している…気がする。
大丈夫かな…。
許容範囲だといいな…と廊下を歩きながら袖や肩口を嗅いでみていた。
「くさいですね。」
すれ違いざまに辻斬りのように繊細な心を見えない剣で撫切るような言葉を無神経に言い放ったのは、見上げるような長身の小夜さん。表情がなく共通の話題がなさそうな人で、私にとっては一番苦手な女の人。社員ではなくパートの人。
「あ、あの。」と、言い訳しようとしたがそれ以上言葉が出ずに、しばらく見つめ合った。小夜さんは、体をこちらへ向けることもなく肩越しに私を見下ろしている。
(このひと、眉が男前の女戦士みたいだ…髪の毛もさらさら…)と、放心したような気持ちで考えていた。
「こっちへきてください、給湯室まで。」
という言葉に、戸惑って「え…?あ、う…。」とおろおろしているうちに、小夜さんは歩き出す。
「大江さんは、日本語はお得意ですか?」
三メートル程先に進んだところで、振り返り小夜さんという、コワイオンナがもう一度話しかけてきた。
「に、にホんじンなのデ!」
と、日本人らしからぬイントネーションになってしまった声で答えると「いきますよ、先に給湯室で待っててください。」と小夜さんは言って歩いて行った。
給湯室で、ぼーっと立って待ってると、長身の彼女はビニール袋とドライヤーと紙袋を持ってやってきた。
ボールペンでばすばすと手荒にビニールに穴を開けると、ジャケットを奪い取りその中に放り込んで、ドライヤーの先をビニール袋に突っ込んでしばらく熱風を送り込んだ。
ビニールから取り出したジャケットをばぶばふと二、三度手荒に振り、私を睨み付けるような目線を送り込みながら、服に鼻を埋めて、すーーっと息を吸い込み、脱臭スプレーを軽くかけ「おしまいです」と言って、ジャケットを返してきた。
「そのボトムは、これに着替えてください。ウエストは合うはずです。」
と言いながらタイトスカートを渡された。
終始、感情が感じられないぶっきらぼうな敬語口調で、怒ったような顔をしていたので、自分が気遣われているということさえ思えなかった。
手渡されたスカートを握りしめ、茫然と立ち尽くしていると「そこで着替えないでくださいよ、公共の場です。トイレの個室で着替えられることをお勧めします」と、背中を向けて立ち去る小夜さんに言われた。
大きな声で、はい!と返事をした。
トイレで着替えると、膝丈よりもかなり長いが、ウエストはぴったりだった。
小夜さんは、あれだけ身長が高いのに、私とウエストは一緒なんだ…と妙に感心した。
実は膝をすりむいて、血が滲んでないか気になっていたので、長い丈のスカートは気分的に助かった。若干ダサいおばちゃんみたいなスタイルだけど、妙に気に入ってしまって二度くるくると回ってみた。
「返す時にはクリーニングに出さなきゃ…このスーツも一緒にクリーニングに出そう…出さなきゃ。」とそう思った。
なんか不思議な人だなぁと、そう思いながら、席に戻った。
その日の夕方に近い午後にかけては日が差してきて、何度か「おえかきさん、今日も絵日記順調ですか?」と言うような先輩社員からの、嫌味な声かけはあったものの穏やかな一日だった。「今日、午前中に配れなかったチラシ、帰りながらポスティングして帰ろう…。五百枚くらいなら私の家の半径十メートルくらい、一時間で配れるかも」と、考えていた。
クリーニングは、お母さんに明日の朝サニーに買いものにいく前に出してもらおう。金曜日だから、土日で帰ってきたら、小夜さんが来る月曜日には返せるかも…。
近くの集合住宅は、ポスティングお断りという表示も多くあるけれど、管理人さんに頭を下げて入れさせてもらった。無碍に断られるところもあったけど、管理人室の前に束ねておくのだったらいいよと言ってくれるところもあった。
帰ったら、お母さんが食事の用意をしてくれていて「明日から社員になるんよね…」と呟くように言うと、素直に喜んでくれた。
複雑な心境で、「社員ってそんなに喜ばしい働き方なん?」と聞くと、「喜ばしいに決まってるじゃないですか、お嬢さん!」とおどけて言って、続けて、女性が働いてお給料をいただくってことは、並大抵のことじゃないんだと言った。
朝から晩までパートで働いたとしても、きっと男の人の初任給にもならないし、そこから、病院にかかるための健康保険。退職した後の年金。税金とかさ、ぜーんぶ払ってごらんよ。手元にはほとんど残らないよ。ご飯食べるのと、家賃払うのでやっとだよ。と言った。
「ありがたいことだよ。一恵がさ、社員で雇ってもらえたって聞いた時はお母さん嬉しかったんよ。」そう言って、私の頭をぐしゃぐしゃとかき回すように撫でた。
「そうかぁ…ありがたいことなんよねぇ…」
「そうよ。大学にも行かせてやりたかったんやけどさ。専門学校でいいって言うてくれて、本当は助かったわ。」
「まぁデザイン、勉強したかったからね。そのおかげで、広報で今の会社に入れたみたいなもんやからね…。」言いながら胸がちくちく痛んだ。
ふと、今日のメニューを見ると、いつもよりも少し豪華な食卓でデザートまで用意してある。
「おいわい?」
「おいわい。」
「知ってたん?今日から社員だって。」
「うん、お母さん、カレンダーにちゃんと丸つけとったし。毎日、辞めさせられないように祈っとったわー。」と言うと、高い声で笑った。
私は、会社がつらいと言い出せずに、首ががっくりと落ちた。
そのまま、額がテーブルにくっつくまで頭を落として、目から涙がこぼれているのを悟られないようにした。
そのまま机の上に手を揃えて置いて「ありがとう」と、声が揺れないように小声で言った。
お母さんは、嬉しそうな声で、また私の頭を軽く掴むようにしてぐちゃぐちゃに頭を撫で「水臭いねーこの子はー」と言った。
食欲はなかったが、とにかくお母さんが作った甘ったるいデザートのフルーツタルトは美味しかった。
やさしいってのは、なにかを我慢しないといけないってことなんだよなぁ…と、もっともらしく、漠然と考えていた。自分で考えながらその意味はよくわかっていなかったから、その感情を誰にも説明できずに伝えられないでいた。
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