第12話 二人きりの時間の始まり

 『天使の微笑み館』と言えば王都でも有名な宿だ。 最高級とまではいかないもののそこそこに成功を収めた商人や地方貴族の子女などが利用するかなり高級な宿で、一般人からしたらなかなか手の届かない憧れの対象だった。

 六階建ての白亜の建物は見る者を圧倒し、中に入れば絵画や花に彩られたロビーが落ち着きを持って客を迎え入れる。 しっかりと教育されている従業員たちも、執事やメイドのようなきっちりとした制服に身を包み、本職に劣らぬ仕事ぶりで宿泊客へ満足を与えられるよう職務に励んでいた。

 客や荷物を運搬するための昇降機はもちろん、様々な魔道具で快適な環境が構築され、各部屋に風呂や水洗のトイレまである。 冒険者が普段使う宿とは雲泥の差だ。

 客室にはいくつかのランクはあるものの、最低ランクで一泊が金貨一枚──その金額に見合った、庶民では気後れするような豪華な部屋になっている。 5m四方の空間にしつらえられた調度品も高級な物が揃えられており、ソファーでさえ下手なベッドよりも寝心地がいい。 ましてや部屋に置かれたダブルベッドがどれだけ心地よく身を包み込んでくれるかと言えば、眠る前から夢見心地になれると評判だ。

 そのベッドに一人座りながら、孝志は緊張に包まれていた。 バスローブ越しに尻に感じる柔らかさも緊張を和らげる助けにはなってくれない。 早鐘のように鼓動を刻む心臓に胸の苦しさを感じ、興奮し屹立する自分自身の脈動に恥ずかしさを覚える余裕もないくらいにだ。 ディナと宿に入ってからずっとこんな状態だった。 肚を据えて事前に思い悩むのはなくなったとは言え、いざ事態に直面すればこうなるのも仕方ないことだろう。

『汗くさいのも嫌いじゃないけど初めてはお互い綺麗な方がいいだろ? 後で一緒に入るけどとりあえずは一人でさっぱりして落ち着いてきな』

 ディナにそう勧められ、一人で湯に浸かり体を洗い、それでも全く落ち着かないまま浴室から出た孝志と入れ替わりにディナは浴室に消えた。

 バスローブ一枚でベッドに座り、浴室では女性が──それもとびきり魅力的な女性が入浴している。 もうじき上がってきて、そうしたらこのベッドで──改めて意識してしまい緊張と興奮でおかしくなりそうだった。

 早く済ませたいような、先延ばしにしたいような複雑な気持ちで悶々としていると、浴室のドアが開く音が聞こえた。 小さいはずなのにやけに大きく耳に響いたその音に、孝志はぎこちなくそちらに目を向ける。

「んー、いい風呂だったな。 こんなとこ、なかなか泊まれたもんじゃないし爺さんに感謝しないとだな」

 短い髪を拭きながら出てきたディナに孝志は目を奪われた。 湿り気を帯びた肢体をバスローブに包んだその姿の艶っぽさ──露出は服を着てた時の方が上なのにバスローブを結ぶ紐を解けばそれで全てが見えてしまう、そんな状況が昼間よりもディナを艶かしく感じさせた。 上気した頬もまた、ディナの色気を増している。

 思わず見蕩れる孝志に、ディナは笑みを浮かべて近付くと間近で顔を覗き込む。

「ぼぉっとしてどうした? 緊張してんのか?」

「その……緊張もそうですけど……綺麗だなって」

 わざとゆるめに着ていたバスローブからディナの豊かな谷間が見えてしまい、孝志は目を泳がせながら言葉を絞り出す。

「嬉しいこと言ってくれるな」

 孝志に胸を触らせていた時のように艶っぽく蕩けたような表情になると、ディナは孝志の横に座り身を寄せる。 間近に感じる女体から漂う香りに理性が飛びそうになるのを堪えた自制心は称賛に値するだろう。

 それでも孝志の男の部分はどうしようもないくらいに膨れ上がり、それに気付いたディナはそっと孝志の太ももに手をやる。

「嬉しいな……こんなにあたしを求めてくれて……あたしも興奮しちまうよ」

 耳元で囁くディナの声音は昼間のあの時のように、すっかりオンナのそれになっていた。 ぞくっとするくらいの色気に孝志は身震いしながら、自分をそれほどに求めてくるオンナに男の本能として欲求が高まる。

「心配するな……怖いことじゃないし……優しく教えてやるからさ。 あたしをたっぷり楽しませてくれよ」

 ディナは蕩けた目で孝志を見つめながら、バスローブの袷から差し込んだ手で孝志の内ももをなで回し、そっと目をつぶると孝志の唇を奪うように顔を近付け──

「ディナさん……何でこんなことしてるんですか?」

 妙に落ち着いた孝志の声に目を開ける。 さっきまで緊張と興奮でガチガチになってた孝志が、まだその色は抜けていないものの大分落ち着いた目でディナを見つめていた。

「……どうしたよ、急に? この土壇場でやめたくなっちまったか?」

「そうじゃないです。 その……ディナさんみたいな女性ひととっていうのは……やっぱり嬉しいです」

 恥ずかしげに落とした視線の先では落ち着いた孝志とは関係なくいきりっぱなしでディナを求める孝志自身が存在と欲望を主張していた。

「でもちょっと気になって──」

「こんな状況でこんなになってんのにそんなこと気にするなんて面白いやつだな。 押し倒してむしゃぶりついてくるやつだって珍しくないのに」

 オンナの顔が少し鳴りを潜め、ディナは楽しそうに笑い軽く天井を見上げる。

「何でって言われてもあたしはお前みたいな可愛いやつが好きだから楽しみたいってだけだしな。 それとも好きでもない相手とするのを軽蔑でもしたか?」

 孝志がそう思ってるとは微塵も考えていないのにからかうように言うディナに、孝志はディナの目をまっすぐ見ながら真面目な顔で言葉を投げる。

「それだけだったら……ディナさんは何が悲しいんですか?」

 孝志の言葉にディナは意外そうな顔をする。

「何を言ってんだよ? これから楽しい時間を過ごそうかってのにそんなわけないだろ?」

 楽しそうに、わざとらしいくらいに好色そうな笑みを浮かべるディナの目を見て、孝志は静かにかぶりを振る。 義昭に言われたことだ。 失敗したっていい。 場数を踏めと。 正しい判断なのか分からないけど、正しいことと自分が思い迷いを振り切って踏み込んだ。 だから孝志は逃げない。

「……何で分かった?」

 孝志の態度に誤魔化しは効かないと悟り、ディナは軽く吐息する。

「俺、子供の頃からじいちゃんに剣術を習ってたんです。 五年前までのことになりますけど」

「その年で戦闘ランクBだもんな。 よっぽど鍛えられたんだろ?」

「ですね。──『観解流』って言うんですけどじいちゃんの剣術って技とかはあまり重視しないんですよ。 体の運用と、何よりも観ることを重視するんです」

「相手の動きをいかに見切るかってことか?」

「『目より読みし後に全を観るに至り、全を観し後に心を解くに至る』」

「……何だそりゃ?」

 孝志のよく分からない文言にディナは首を傾げる。

「『目は口ほどに物を言う』って言葉が俺の国にあるんですけど、目ってすごい心が表れるんですよ。 じっと見てるとその相手がどこを狙ってるかとか、攻撃に出ようとしてるタイミングとか、焦ってたりする感情の動きとかそういうのが分かるようになるんです」

「確かにさっきまでのお前はものすごく緊張してるのが分かったな」

 ディナに茶化され苦笑しながら孝志は続ける。

「そうして目に集中して読み取ることを続けていると一点に集中してるはずが全体が見えてくるようになるって……俺はそこまでいかないんですけどね。 集中しているのに相手もその周りも全てが見えて、さらに進むと目に加えて体のわずかな動きや筋肉の反応とかそういうわずかだけど膨大な情報から心まで読めるようになるんです」

「心を読む?」

「思い浮かべてる言葉とかまで正確に分かるわけじゃないですけどね。 どんなことを考えてるとか何か不安を抱えてるとかそういうことは分かるそうです。 じいちゃんがそうですよ」

 義昭はとんでもないレベルに達している。 隠し事なんかできないしサトリかと思うくらいに心が読まれる。 だからこそディナのことはすぐに信用したし、ディナが抱えている何かも読み取っていたのは間違いない。 そんな義昭がシスティアに対してはっきりしないのが気にはなるけどそれは別の話だ。

「まだ未熟な俺には分からなかったですけどディナさんが……その……俺にキスしようとした時に見えたんです。 ディナさんが何かを悲しんでるのが」

 それが見えたから孝志は落ち着いた。 それをそのままにしてディナと関係を持つなんてできるはずもなかった。

 ディナは少し気まずそうに孝志から視線を逸らすと頭をかく。 迷っている──孝志に読めるのはそれくらいだ。

「ミースさんが言ってたことも気になってます。 詮索はしてほしくないけど期待したいって。 気付いた以上はそのままにしたくないです」

 孝志の決意にディナは微妙な表情になり──大きくため息を吐くと孝志に向き直る。

「しゃあねぇな。 このままじゃやる気にもなってくれなそうだし……聞かせてやるよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る