気付いたらそれは近かった。

俺がまだガキの頃、早さを答えなさいと出された時は、道のりを時間で割ると出てくると習った。


だがそれを使えるのは、一定の速度で移動できた場合だし、距離も事前に知っていて、時間も誰かが計測していた場合だけ。


何故突然そんな事を言い出したかというと、俺達がいた事務所から総務部の事務所まで早く辿り着きたいのに、エレベーターが各階で止まってすんなり来ないし、休憩時間に入ってしまったから時間的に廊下に人が多く思うように進めていないからだ。


イライラした俺が落ち着くために考えたのが、これだったという事だ。



「巧、手は出すなよ。暴力沙汰はダメだからな」


「わかってるよ。俺が今までそんな問題に関わったことがあるか?」


「無いな。手を出したのは見たことがない。巧が女にビンタされるとか、脛を蹴られるとか、水をかけられるとか……ならあったな」


「だろ。俺は大人しいんだよ」


「大人しいんじゃなくて、面倒だからされるがままなだけだろ」



いや……そうじゃなくて、女の告白を拒絶した後に気が付くとそうなっていたというだけだ。


されるがままなんて、決してそっち系の趣味は一ミリもないからな。



「やっと着いたな……」



しかし、ギャラリーが多すぎる。


こんなに集まっているなら、一人くらい止めに入れよと思う。


誰か戦力になりそうな奴を道連れにしようとも思ったが、正義感より野次馬根性の方が勝っている奴等が多そうだろから、それは無理だと悟った。



「巧、無理矢理突っ込むぞ」


「あぁ。仕方ない、行くか」



人をかき分け進むと、総務部の事務所では加藤主任の夫妻が未だに言い争いをしていた。


その側には何とか止めようとしている鈴木と何も出来ずに呆然としている総務部の男がいた。



「鈴華、俺達は終わりだな。お前が俺を好きだと言ってくれたから、ワガママも可愛く見えて許せたんだ」


「健君、終わりだなんて言わないで!」


「終わりだろ?木村の事が今でも忘れられないなら。俺はそんな鈴華とは一緒にいるのが辛い」


「木村先輩の事は……ただ気になっただけ。私はフラれたのに好きな女がいるって聞いたから、どんな女か興味があっただけなの」


「本当か?」


「うん」


「じゃ、何故鈴木を責めたりしたんだ?」


「それは……」



あぁ、聞いている方が疲れるな。


これじゃいつまで経っても終わらないだろ。


花岡をチラリと見ると、俺と同じ意見のようで困った表情をしていた。



「加藤、まだ喧嘩するなら場所を変えろ。周囲を見てみろ、見物客が大勢来てるぞ」


「あ……」


「木村先輩と花岡先輩……」


「加藤夫妻、昨日ぶりだね。総務部の君は休憩してきていいよ。鈴木は俺達と一緒に来てくれる?」


「あ、はい」


「そこにいる紳士淑女の皆さん、そろそろ帰ってもらえるかな?」



花岡は見物客を笑顔で追い払い、ホワイトボードに書かれている会議室の使用状況をチェックしていた。



「今、どの部屋が空いてるかな……。よし、いくつか空いてるな。皆、場所を移動しようか。加藤、俺と巧も参加するから。鈴木も良いだろ?」


「うん」


「すまない……」


「……はい」



こういう時の花岡の行動は早い。


まだ休憩時間だからいいが、さっさと解決して業務に戻らなくちゃならないからな。


鈴木は総務部の事務所が無人になる事を気にしていたが、そのうち誰かが戻ってくるから良いよと加藤が許可し、俺達はぞろぞろと花岡の後についていった。



カチャリ……。



「さてと、続きをやろうか?」



空室で呑気にしていた会議室は、一気に緊迫した空気になった。


花岡が誰も入れないよう内鍵をしてからの一言が、どれ程重く冷たかったか。


俺でさえ一瞬怯んだくらいだ。


もしこの部屋が生きていたら、かなり震え上がっただろうな。



「つ、つつ続きって何ですか?」


「花岡、俺が悪かった。鈴華も悪いが、甘やかした俺がこんな事をさせてしまったんだ」


「あぁ、加藤主任はちゃーんと知ってたんですね?困った人ですね」


「は、花岡さん?何だか別人……」



加藤は花岡が本気で怒った姿を初めて見たのだろう、その隣にいる配偶者も恐怖を感じているらしい。


俺だってこんな姿を滅多に見ない。


そんな花岡の逆鱗に触れる事をしてしまったのだから、最後までその責任を負わせないとな。


ただ一人……鈴木だけは、普段の姿と違っている花岡を見て心配をしていたが。



「花岡先輩、本当にごめんなさい。あの人をちょっと困らせたかっただけなんです。もうあんな事しないから、健君の事もゆるして下さい!」


「困らせたかった……だけ?」



おい、余計に怒らせるなよ。


あの女はアホなのか?


花岡が暴走したら、俺だって落ち着かせるのは大変なんだから、変な発言は止めろって。



「あ、いえ……本当は嫌がらせしました。だって木村先輩の心を掴んだって聞いて悔しかったし。でも今後は会社にも来ませんし、あの人に近付くこともしないと誓います」


「加藤、君に奥さんの事は任せるよ。だけど誓いを破った時は、俺が何しても文句は言わないで欲しい。良いよね?」


「あ、あぁ。二度とこんな事はさせないから」


「それなら良かった。じゃ、加藤夫妻は部屋を出て良いよ」



やっと終わったか。 


花岡が笑顔で部屋から出るように言って、俺達の緊張が一気にとけた。


気が付くと隣には鈴木がいて、俺のスーツの裾をギュッと握っていた。



これはどういう現象だろうか。


あぁ、そうか。


ただ花岡の豹変ぶりに驚いて思わず近くにいた俺のスーツの裾を握ってしまった……だけだな。


そうだ、そうちに違いない。



「おやおや、二人ともいつの間にそんな仲になったのかな?ん?巧が珍しく動揺してるなぁ」


「そんな仲って、何を勘違いしている。それに動揺って、どう見たらそうなるんだよ」


「あ、ご、ごめんなさい!」



鈴木は花岡に言われるまで自分がしていた事に気が付かなかったのか、慌てて俺から離れた。


謝られると余計に気まずいが、そこは気にしないでおこう。



「鈴木が巧に間接的でも触れるなんて初めてだし、俺はこんな光景が見れただけで嬉しいけど?」


「おい、急に変な話をするな。鈴木が勘違いするだろ」


「勘違いって何を?俺は別に同期として親密になったという意味で言っただけだし。変な意味でとったのは巧の方だと思うけど?」


「……用事が済んだなら、戻るぞ。いつまでもこんな所で遊んでる場合じゃない」


「鈴木も戻ろう。巧がこれ以上不機嫌になる前にね」


「はい」



不機嫌って、自分の事を棚に上げて言う台詞か?


この部屋に入ってきてからの一部始終を、花岡に見せてやりたい。


まぁ……でも、そのお陰で俺が問題をおこさないで済んだのだから、聞かなかったことにしておいてやるか。

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