第56話 湿地帯深層の主

第56話~湿地帯深層の主~


 実技試験の時間は二十四時間。


 それは最初から決まっていたことだったが、そう生徒たちに告げられたのは正午十二時から始まった試験がきっかり十二時間経過し、日付が変わった頃だった。


 それまでひっきりなしに湿地帯から現れていた魔物だったが、日付が変わるころになりその勢いは衰えており、このチャンスを逃すまいと生徒たちは体を休めていた時に突如としてその連絡がナイツ教授より通達されたのだ。


 その連絡を聞いた生徒たちの反応は様々だったが、誰もがそれを聞いて一応の心構えが出来たことは事実。


 終わりの見えない戦いというのは精神を削る速度が段違いに早い。目的地が決まっているマラソンといつ終わるかわからないマラソン。同じ距離を走る上で、どちらが精神的に楽かと問われれば、間違いなく前者であろう。


 そんな無限マラソンのようなことをさせられていた生徒たちだったが、試験があと十二時間で終わると知れば、ここから先の計画が立てられる。


 体力の使い方、休息の順番、魔力の温存など、様々なことがその情報一つで決めることができるのだ。


 だからこそ疲れに体の動きが悪くなってきていた生徒たちの目に再び光が戻るのだが、ナイツ教授とてなにも考えずに試験時間を教えなかったわけではない。


 終わりの見えない戦いの中で戦い続ける忍耐と精神力。それをはかるのも試験の一つだったからこそ、この時間になるまで情報を伏せていたのだ。


 すでにこの十二時間でリタイアしたパーティーもあるが、その者達は基準に達しなかったのだから仕方がない。現にまだ参加した大半の生徒が残っているのだから、課された課題が厳しすぎるということはないのだ。


 残ったパーティーたちが休息をとりつつ作戦会議を始めるのを横目に、ナイツ教授は湿地帯の奥を睨みつける様に見る。


「想像よりもまずいかな?」


 そう呟き、ナイツ教授は近くにいた他の教師たちに警戒を強める様に伝達をしていく。


 本当なら、ナイツ教授は試験時間を明け方までは生徒たちに伝える気はなかったのだ。おそらくは大半の生徒がその辺りで精神的な限界が来る。例年の傾向からそれを予測していたがゆえ、生徒たちへの入学からの最初の追い込みとしてそう考えていたのだ。


 だがそれも湿地帯の状況から危険と判断した。


 恐らくこの先、この防衛線は荒れることになる。何が起こるかは分からないが、恐らくは湿地帯の奥によくないものがいる。しかもそれは、当初予測していたよりもはるかに危険な気配を纏っているのだ。


 このまま生徒の精神を限界まで追い込んでいては、万が一の際に最悪死者が出かねない。


 もちろんナイツ教授をはじめ、教師たちがもしもの時は生徒を守るつもりではいるが、想定した事態通り、もしくはそれを超えるものであれば教師だけでは守り切れない可能性もある。


 だからこそ、ナイツ教授は生徒たちを少しでも万全な体制でその時を迎えさせるために刻限を早く告げ、精神面を考慮したのだ。


 その決断が功を奏するということは、事態がよくない方向へと転んだということを意味するということだ。自身の予感が外れることを願いながら、ナイツ教授はその時に備えるのだった。


 ◇


 湿地帯の深部には沼地が広がっている。


 アーリヒはそのことを聞いてはいたが、まさかここまで沼地が大きいとは思ってもいなかった。


 踏み込んだ瞬間に柔らかな地面に足をとられ、歩くこともままならない。足をとられるというよりも、むしろ沈んでいると表現した方がしっくりくるような地面にアーリヒは思わず顔をしかめた。


「総員、警戒を怠るな」


 自身の警護のために連れて来た近衛兵は五人。いずれも父であるエジャノック伯爵に仕える腕利きであり、全員が過去に湿地帯の深部への到達経験がある者達だ。だからこそ、この場所に住む魔物の危険性も深部の環境の悪さもわかっている。


 全員がアーリヒを囲むように陣形を組み、沼地を慎重に一歩ずつ奥へと進んでいく。


 ルミエール魔術学院の生徒による防衛線が築かれ、湿地帯の討伐作戦が始まってからすでに十二時間ほどが経過しており、アーリヒ達が湿地帯に入った時間が同じくらいであることを考えると、休息もなしにここまで来たのだからすでに体力は限界に近い。


 ただでさえ普通に歩けば数日はかかる行程を、身体強化の魔術を使用して一気に駆け抜けてきたのだ。全員の魔力はすでに半分ほどにまで低下している上に警戒を続けているため精神的にもつらい。


 それでもこの場所では休息などはとることは難しいということは、アーリヒを含めた全員が感じ取っていた。


「アーリヒ様、これより奥は流石に危険かと」


 霧に霞む視界の向こうに何かが、しかも強大な気配を何かがいることを感じた近衛の一人がそう囁く。これ以上先に進めばどうなるかはわからない。いや、十中八九自分たちは殺されるであろう未来を幻視してしまうほどの濃密な気配。


 それを感じたからこそ近衛はそうアーリヒにそう進言したのだ。


「まだあと少し進む。湿地帯の中心部まではまだ距離がある。この距離では意味がないのだ」


 だがアーリヒは進む意志を変えることはない。アーリヒとて、一介の魔術師である以上、この先に何かがいることくらいは気づいている。できるなら今すぐ逃げ出したいが、ここまで来てそんなことができるはずがない。


 自分の進退をかけた今回の作戦。父に直訴してまでこの湿地帯の原因を取り除くために、今日まで綿密に練って来た作戦の別動隊として湿地帯に入ったのだ。ここで引き返しては、ただ自己満足のために作戦を邪魔した馬鹿者というレッテルを貼られてしまうどころか、下手をすれば今度こそ追放処分になってしまうかもしれない。


 そんな考えがアーリヒを沼地のさらに奥へと向かわせる。


「限界は超えないと約束する。だから頼む、あと少しだけ俺に付き合ってくれ」


 いかに危険に自ら飛び込むのが躊躇われるからと言って、仕える家の者にそう頭を下げられては近衛も従わないわけにはいかない。全員が頷きあうと、気持ちを入れ替え警戒をさらに強め始めた。


「わかりました。その代わり、しっかりとあなたの役目を果たしてください」


 代表してそう告げた近衛の一人に、アーリヒは少し驚きながらも小さく頷くと再び沼地を進み始める。


 実のところ、今この場にいる近衛はエジャノック伯爵付きではあるが、元はアーリヒの警護に当たっていた者達なのだ。アーリヒの妻が逃げた件で後継者争いから外れることを余儀なくされた際、アーリヒの近衛は縮小されたため全員主が変わったのだが、だからこそ近衛たちはアーリヒの人柄を知っていた。


 アーリヒという人は不器用ではあるが、決して自身の妻を貶すような人ではない。


 それがアーリヒに仕えていた近衛たちの考えだった。当時それを聞いた時には何かの間違いだと思ったが、一介の騎士である自分たちが何か意見するなどできるはずがない。加えて進んでいく話の中で警護の任も解かれてしまっては、もはや近衛には何もすることができなかったのだ。


 だからこそ、今日こうして再びアーリヒに仕えることができたことに、近衛たちは内心で喜んでいた。そして出来るなら何をしようとしているかは知らないが、アーリヒのやることを必ず成功させ、そして昔と同じような待遇に戻って欲しいとも思っていたのだ。


 そんな様々な思いがある中、一行はいよいよ湿地帯の中心部へとたどり着く。


 沼地の一角にある小島によじ登ったアーリヒは、ますます濃密になる何かの気配に身を震わせながら、懐から小瓶を取り出した。


「これで湿地帯の異変も収まるはずだ」


 手のひら大の小瓶のふたを開けたアーリヒは、それを手近な木の根の上に置く。


「それは一体……」


 近衛が訝し気に見たその小瓶は、何かを吸い込むように怪しく動き始めたのだ。


「これは瘴気を集める小瓶だ。おそらくこの湿地帯の異変は、何かしらの原因で瘴気の濃度が一時的に上がっている可能性が極めて高い。だからこの小瓶で瘴気を集め、濃度を下げてやれば魔物の異常発生も収まるはずだ」


 それが先日、アーリヒを訪ねてきた謎のシルクハットの男が言った言葉だった。


「見ろ、瘴気が集まって来たぞ」


 アーリヒの声に小瓶の上の方を眺めてみると、そこには紫色のガスが、まるで雲のように集まってきていたのだ。


「「「おおっ!!」」」


 近衛たちのそんな驚愕の声を聴きながら、アーリヒは達成感に包まれる。これで親父も自分を見直すはず。そして伯爵への道もまた開かれるはず。


 そんなことを夢想するアーリヒは肝心なことを見落としていた。


 今自分たちがいる場所が何処なのかということを。そして、小瓶を置いたものが決して木の根などではないということを。


『感謝するぞ。愚かな人間よ』


「え……」


 湿地帯に広がる瘴気が中心に集まる中聞こえた声。次の瞬間に動きただす沼地の小島。


 アーリヒの間の抜けた声を皮切りに、湿地帯の主が目を覚ます。今まさに、事態が大きく動き始めるのだった。

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