その日、太陽のもとで何が在ったか?(8)伏せている犬少女

「……わう?」



 コロはこんどは反対に身体ごとかたむいてそう鳴いたが、篤と弘仁はどうしていいのかわからない。

 ともに地獄の子ども時代を生き抜いたふたり。それぞれがそれぞれで弱みなどなさそうに、おっとりとあるいは飄々とふるまっているが、ふたりは、――虐待や監禁事件にかんしてだけは、めっぽう弱い。

 青くなる、のだ。とくに篤は、ふだんの子豚っぽい頬のピンク色はどこへやら、完全に、青白いのだ。

 しかもごくごく自然であるがごとく置かれたこの子――おそらくは十代後半くらいの、コロ、と呼ばれるこの子は、こんな仕打ちをされていて、抵抗する気配さえもない。

 首輪もカチューシャもグローブも痛々しくただただ気持ちが悪いだけだ。とりわけ、ふたりにとっては。



 ――せめて助けを求めているのであれば、どうにかできるが……。



 ふたりとも、声に出してこそいないが、おなじことを考えているのだと、互いに、わかる。

 コロはふわっと身体の軸をまっすぐ戻した。ぺたんと犬座りのままで、しばらくのあいだふたりをじっと見上げていたが、反応がないとわかると、すっと興味を失ったかのようにして、カーペットの上にぺちゃんと全身で伏せた。

 人間が寝転ぶというよりは、――伏せだ、それは、両手両足の伸ばし具合といいかすかに曲げた角度といい、完璧に、犬の伏せだった。



「あうー……わうー……」



 つまらなそうにそう鳴くと、つまらなそうに瞳を揺らして、そのままうつらうつらとしはじめて、――すぐに目を閉じた。ただ、犬が、かまってくれるひとがいなくて、退屈して、そこで、昼寝をしているかのようだった。ほんとうに違和感がまったくなくて――ふたりはそれぞれに、戦慄した。

 篤はもはやすっかりがたがた震えてしまっている。この愛嬌のある青年が、……感情が過剰に身体状況に出るということを知る者は少ないが、もちろん弘仁は、知っている。

 篤は、もう、ギブアップだろう。――こうなってしまうと篤は、駄目だ。

 弘仁は、小声で篤に言った。



「おい、俺はやるぞ」


 言葉の内容というより、空気が動いた気配で、コロが目を開けた。


「弘仁……」



 相棒の静かな制止も聞かずに、弘仁は、部屋の隅に置かれたおもちゃ箱に手を突っ込んだ。ゴムボールやら小さなぬいぐるみやら骨を模したクッションやら、――ごていねいに犬用で、しかももっとごていねいなことには、コロが四つん這いで指を使わないかぎりはけっして取れないような位置で棚の上に置かれている、というわけだ。

 弘仁は、思う、――ああ、ああ、ほんとにこんなにごていねいに、な。

 弘仁はそのなかから骨のクッションをつかみ取った。

 半ば、ヤケのようにして、しゃがみ込んでそのクッションをコロの――奇妙な犬少女の前に、差し出す。


「噛んでみろ。……犬ならば、噛むんだろう」


 コロは伏せたまま目をぱちくりさせている。篤にも弘仁のやっていることの意図は、よくわからない。


「おい。噛んでみろよ。犬なんだろう」


 コロはしばらくじっと弘仁を見上げるようにして見つめていたが、やがてふるふる、と首を横に振った。


「……だめです」

「駄目? 犬がそんな偉そうな口聞くかよ。自分で自分を救おうとしないヤツがよお、おまえ、犬で楽でいるだけじゃねえかよ」


 篤は、あっ――と、理解した。そうか、弘仁はそういう気持ちで……。

 弘仁のほうが、諦めが悪い。だから、なにかと、弘仁のつらさのほうが、派手になる。


「……犬ですけど、コロは、ご主人さまの犬だからー……」

「ご主人さまってのが天王寺未来か」

「わう」

「懐いてんのか」

「うん。そうです。そうなのです。それはもう」

「大好きなんだな、主人のことが」

「大好きですよ?」

「……おまえに、話をしに来た」


 コロは伏せたまま問うようにしてわずかに首をかたむける。

「おまえの、大好きなご主人さまのせいで、おまえが」

 弘仁は、つらくて、言葉を途切れさせた。

 だが、一瞬のことだった。



「おまえに危害が及んでいるんだ」



 しん、とした部屋に、――その言葉はよく響いた。

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