その日、太陽のもとで何が在ったか?(9)文系人間の、大冒険
コロはもういちど、ぱちくりとまばたきをした。かわいらしく。
格好としては、伏せたままで。
そして視線を落とす。長くて艶やかな黒髪の前髪に隠されて、その瞳の色は、ふたりにはうかがえない。
だが、――ゆっくりと目を上げたそのとき、その目は、あきらかに幸福な飼い犬のそれとは違った光をたたえていた。
かといって――人間らしい瞳かというと、……あるいはそうかもしれないが、けっして、理性の色ではなかった。
ぎらぎらと光る――そう。コロが、ときに、見せる瞳の色。
主人の――天王寺未来のことになると、こうやって、ぎらつかせる瞳。
……公子は、なにも、睨もうとしているわけではない。この子は、未来以外であっても、人間に対しては謙虚だ。自分が犬だと思っている人間なんて自然とそうなるものであろう。
だからある種無自覚で、……やはり公子は未来のこととなると冷静ではいられない。
「……べつに、わたしのことは、どうでもいいんですけど」
公子はそう呟きながら、ゆらり、と起き上がった。……人間らしくは座らない。いまはもう公子にとっては、そういう時間、であるわけだから。起き上がるときにリンと首輪の鈴は鳴るし、頭には犬耳のカチューシャがしっかり装備されている、指だってもう満足につかうことはかなわない。
だが犬座りくらいなら、……見ようによってはお姉さん座りにも見えなくはないくらいには、座れるし、……公子もそこはぎりぎり、なのだ。
ゆらり、と全身を動かして、視線を上げた。
「……未来さまのせいって、なんのお話なんでしょうか」
「時間が惜しいから単刀直入に言う」
弘仁はあぐらをかいた。篤も、おそるおそる、すこし離れたところに体育座りで腰を落ち着ける。
「天王寺未来さんの元カノをおまえは知っているのか」
公子は目を細める、――人間らしい顔をしている。そうなるとかえって首輪や犬らしい装備品が……違和感と、なる。
のびのびとした犬らしさが消えると公子のこれらの装備はただ単に単なる監禁事件の痛ましい事件のように見えて、くる。
「……ええ。ふたりほどいたかと思いますが……」
「中学生のときに一週間だか二週間だかつきあったほうだ」
「館花綾音、さまですか」
「そうだ。よく覚えてるんじゃねえか」
「……未来さまのことですので……。それで。それが、どうかしたんですか」
篤は気づいた。ぞっとした。理系だけれど篤は言葉にけっこう敏感で――そのひと、でも、そのこと、でもなく――それ、と言い切る。……天王寺公子の、狂気の、ひとつ。
弘仁はニッと意地悪そうに笑った。
「おまえ、その元カノに、ずいぶん恨まれてるみてえだぜ」
「……え? わたしが? わたしが、ですか?」
「ああ。犬の、」
「弘仁っ」
篤の制止は間に合わなかった。
「犬のコロちゃんを殺してくださいって必死だったぜ、あのお嬢サマ。ひゃくまんだぜえ、ひゃくまん、……っつってもアンタにとっちゃ意味ないモンなんかねえそんなはした金」
公子は後半をほとんど聞いていないようだった。ただ、両手をだらりとさせて、お姉さん座りともいえる座りかたのまま、両膝のまんなかに視線を落とす。
「……よく、わからないです。館花さまはわたしのことなんて知らないはず――」
「でも未来の坊ちゃんがずいぶん自慢してたらしいじゃねえか」
公子は、バッ、と視線を上げた、――興味の色がそこに宿っている。
「そんでよお、綾音ちゃんはさあ、カワイソーに未来に理不尽にフラれたんだと。……コロがいるからー、ってなハナシだったらしいぜ、よお」
「……わた、しが?」
「ああ。コロがさびしがってるから綾音とはつきあえないんだー、だってよお、……美談だと思わねえか? おい、コロちゃんよお」
「――だってわたしそんなこと、知らない。わたしには……館花さまのほうから、フッたんだ、って」
「そりゃあおめえ建前だろうよ!」
げらげら、と弘仁は、笑った。
「そんで、ま。思ったよか話のわかる相手みたいだから相談させてくれや、犬の嬢ちゃんよお。――俺たちはその綾音ちゃんにコロちゃん殺せって頼まれてるんだ」
「なあ弘仁、無理だよもう、諦めよう。失敗だって素直に話せば……」
「――黙れ。……おいおいせっかちだなあ、わが相棒クンはよお。せっかくあのバアさんからも時間もらってんだからもうちょいゆっくりしようや、なあコロちゃん?」
公子はあいまいに、微笑んだ。――人間モードのときの表情。あきらかに。
真っ赤な首輪がそこについているのに。
「……まあアイツな、篤っつってな、あれでも俺の相棒なんだが、ヤツぁ諦めたっぽいからいまは無視してかまわねえから」
「弘仁っ、なにをするんだ――」
「おい黙れよ豚野郎。俺さまの邪魔すんじゃねえ。……なあ、なあ、コロちゃんよお。……なーんも難しいことは訊かねえ、なーんも乱暴もしねえ。んなこたやったら俺らがあんバアさんに逆に殺されちまいそうだ、ハハッ」
「……ぜったいに、わたしたちのこと、邪魔しないですか。……わたしと、未来さまのこと」
「ああ。そりゃ、約束する。俺あ綾音ちゃんと違っておめえらのこたあどうでもいいんだ、いい意味でな」
「それなら、できるかぎりは、協力、します。……人間ぶるのは嫌いなんですけれども、」
公子は、切なく、笑った。
「うん、仕方ないですね、……未来さまに危害が及ぶくらいなら、ですよ」
「いい子だ。じゃあ訊くぞ」
ごくり、と、――篤でも公子でもなくむしろ弘仁本人が。
「……おまえは、
天王寺未来に、恋心を抱いちゃいないのか」
ああ、やっちゃった、と――額に手をつけ顔を覆ったのは、背後にいることを決めた、篤だったのだ。
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