よかったこと
「……わたしはあなたを殺す気はないのですよ、館花さん。あ、傷つける気もないのです。それはべつにわたしの目的ではないのですからね?」
あたしの首すじにカッターナイフをきちんと押し当てながら、天王寺公子は穏やかな声で言う。この女、思ったよりずっと力がある。ちびに見えたのにあたしよりもほんのすこし背が高かったし、握力テストではクラスで最下位なんですなんて言われたってすんなり信じてしまうぽやぽやっとした雰囲気だったのに、キチチと刃を調整するそのしぐさは、まるで本気で、……闇の世界の人間のようだ。
「……はっ、嘘でしょ? 殺すだなんて……はったりだ」
あたしは身体を揺らした。
その瞬間。
――ガッ。
喉もとが、ピリッ、する。痛いというより……なんだろうこれは、違和感、ああでも熱くなってきた、これは……。
「かすり傷です。動かないでほしいのですよと言ったはずです。次はないのでもう動かないでくださいね?」
「あん、た、なんのつもりで……」
「……わたしも早く帰らなきゃなのです。寄り道は、厳禁だから。えへへ、わたし、いけないことしてます、いま。きょうだって帰ってみなさんに言いわけするの大変なんですよ? きっときょうはお仕置きですねえ。ごはんも諦めなくっちゃ」
「……なに言ってんのよ、なにわけわかんないこと話してるワケ、なんかそれいまあたしに関係ある話なの!」
「ねえ、……館花さん。あのですね。わたしはですね?」
それは学級委員長をやるようなマジメにも優秀な人間が親し気に話しかけてくるかのような声色で。……でもじっさいコイツあたしを至近距離でがっちりホールドしてるわけだから、頭の後ろのほうから脅しめいてガンガン、ガンガンと響いてきて。
分析、分析、分析。
……こんなに近くてなにもかも刺激が過剰でうるさかったらああ、分析さえもできない、できないの、――あたしのアナリシスが!
だからあたしはミョーンミョーンと妙に伸び縮みするサイケな世界のなかでグワングワンとしながらただの裏路地がサイケな、サイケな、とってもハッピーな色つき世界になったように、……大混乱しながら、聞いている、のだ、この女の言うこと、……くるったことを、
「わたしはですね館花さん、人間のすがたをしてるんですけど、人間ではないのです、でもわかりませんよね、ぱっと見わたし人間ですよね、でもねうん、人間のすがたをしていれば人間というわけではないのですよ、かならずしもね、えへへっ、こんなのおうちのかたがたの受け売りなんですけど。未来さまがこうやってわたしのことかわいがってくれるのがすごくしあわせ、わたし、犬だから」
「――そうやって未来との仲をわざわざ報告しに来たワケ?」
ガッ。カッターナイフの角度が変化する。――牽制。
「先に動きを発生させたのは、そちらです」
たぶん、いままででいちばん、静かで、……冷え切った声。
「……ねえ、ねえ館花さん。それでも、わたし、人間のすがたに生まれて、よかったと思ってるんです。ほんとうによかったと思ってるんです。うん、悩んだ時期もあったのですよ、……これでも、わたし犬なら犬のすがたで生まれたかった、って、……犬のすがたかたちと本能があれば犬になるのどんなにからくだったかな、って」
ふう、と天王寺公子が小さく息を吐いた。わずか、あたしの首にも、かかる。
「けど、いまとなっては、よかったと思っているのです」
「どうして。……どうせ最初っからなんもかんもがトチ狂っていたんでしょう。……知らないけど」
「いまこの時代、いまこの国は、人間のすがたをしてたら犬でも人間ってことにしてくれる。建前だけであっても、人権ということで、人間さまの権利をくださる」
とても、嬉しそうな、声、で。
――まるで犬がじゃれつくがごとき声で。
「だから、わたしを殺したら、……器物破損では、済まない。殺人です。……そうでしょう?」
あ、とあたしは、やっとわかった。
そういうことか、いま、あたし、そうかただ単に――
「抑止力に充分、なりますよね、わたし簡単に殺されないのですよ? ……えへへっ」
天王寺公子はまたその特徴的な笑いかたをした。
あたしは、分析する。真夏の裏路地で、とても暑くて、いま、分析をしている、……フルに。
あたしは、いま、ただ単に。
――脅されている。
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