カルノーサイクルとヘスの原理。舞台少女と院進男。

 キリンと聞くと誰もが連想する言葉といえば「ミッシングリンク」である。ミッシングリンクとは「進化論的立場に立ったとき、本来ならば存在していなければならないが未だにその存在が確認されない中間種」のことである。このミッシングリンクはアンチダーウィニズム的論調に端を発する概念であるが、その最も有名な例が「中途半端に首が長いキリン」だ。キリンの祖先にあたる動物の存在はすでに知られている。しかし、キリンはそこからどのような道筋を辿ってきたのかが全くわからない。しかし、確実にキリンはここにいるのである。いかなる道をたどったのかが分からなくても、確実に何らかの道を辿ってきたいうことはここにいるキリン自身がなによりの証拠である。

 名作演劇はときにシナリオが観客に知れ渡った状態で上演される。始まりから終わりまで決まり切ったシナリオを懇切丁寧に準備をし、始まりから終わりまでシナリオを知っている観客の前で演じる。毎年何度も何度も同じ演目をすることだってあるとスタァライトの劇中では語られていた。先の展開もすべてわかっている観客の前で、全力を尽くして演じる。何度も何度も同じ舞台で同じシナリオを演じる。しかし一つとして同じ演劇になることは無いだろう。同じシナリオ、同じ役者、同じ舞台装置でも、二つと同じ演劇は出来上がることはない。

 野菜は死と再生を繰り返す。毎年毎年同じように花を咲かせ、実を付け、種を落とし、枯れていく。そして春になればまた種子から芽が出て、茎を伸ばし、葉を広げ、花を咲かせる。たわわに実った実は生命を象徴する力強さと美しさを持つが、それは儚い存在である。時期を過ぎれば直ぐに萎れて、種子を撒き、次に世代をつなげる義務がある。次に進まなければいけない運命は避けられない。

 トマト、何もわからない。昔は観賞用だったらしいですね。分かります。

 電車は必ず次の駅に向かう。地下鉄や、砂漠を通る鉄道はその道のりを我々に教えてくれない。自分の力で次の舞台を見つけ、次の舞台に向かわなければいけない舞台少女たちはどうすればよいのだろうか。次の舞台へ向かう理由を見失った舞台少女はどこに向かえばよいのだろうか。自分の辿ってきた道のりを知らないキリンは、舞台少女たちを見て何を思うのだろうか。同じ道のりを繰り返し歩み続けなければならないトマトは、舞台少女たちの目にどう映るのだろうか(きっとトマトに見えるだろう)。


 レヴュースタァライトは、私たちに「どこに向かうかではなく、いかにして向かうのか」を問うているのではないかと感じた。いかにしてシナリオが決められた演劇を演じるのか、いかにして次の舞台へ向かっていくのか、逃れられない決断の時にいかにして自らが進むべき道を決めるのか。そんな少女たちの苦悩を、如何にしてここまで来たのかが抜け落ちたキリンが見届ける。その道のりは自分自身の本当の気持ち、本当の心で決めて、自分の足で歩き、自分の目で先を見据えていかなければならないのかもしれない。


 舞台少女たちは苦悩し、ぶつかり競い合い、そして自らの進むべき先をしっかりと見据えている。電車は必ず次の駅へ、舞台少女たちは次の舞台へ、おまえは?私は修士課程へ。

 実際のところ、こうして映画の感想を思ったままに書いているつもりではあるが、いったいどこまでが私の言葉なのだろうか。どこまでが私の本物の言葉なのか。人の論文を読んで分かった気になって、でもそれは人の舞台を人の言葉でなぞっているだけに過ぎない。私は自分の次の舞台に立つことはできるのだろうか。そろそろ、院試のレヴューを始めましょうか。分かります。

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