第5話 捜索

 休み時間、香川は我慢できずにトイレに急ぎ、最後の瞬間にうっかり漏らしてしまわないように目一杯内股を締め付けながらファスナーを下ろした。ようやく解放されてほっとするところだったが、あまりに我慢を続けたせいか尿道がキリキリ痛んで出て来なかった。気が焦り、痛みに目の下を痙攣させながら、おいおい、もういいんだぞ、と自分をリラックスさせようとするのだが、何かドクンドクンと脈打つように抵抗するものがあった。

 尿道はますますキリキリ痛んだ。すぐそこまで熱い液体が押し寄せて、堰を切って飛び出すのを待ってグイグイ圧力をかけているのに、最後の扉一枚が頑固に開こうとしない。なんなんだよ、これ、と香川は痛みに口の端を引きつらせて悶絶する思いがした。

 と……

 突如、背中にぞわあっと悪寒が走った。

 心臓がドクンと跳ね上がり、ドクドクと音を立てて大きく打ち続けた。

 物凄く嫌な予感がする。

 今日も天気は曇りでトイレは薄暗く……、あのトイレを思い出させた。

 ガチャン、と金属を打ち付ける音がして、かすかなきしみを上げて、背後で扉が開いていく気配がした。

 空気が、こもった臭気と共にうごめく。

 尿意で股間の物が焼けそうに痛い。が、それより、今は背後をゆらゆらこちらに近づいてくる気配から逃げなくてはならない。

 ああ、くそ、漏れる……

 でも、我慢だ、我慢しろ…………


 キリキリがズキズキに変わって……


 香川は目を開いた。

 暗くて、一瞬どこか分からず、パニックになりそうになったが、なんのことはない、布団に潜っていただけのことだ。


「夢落ちかよ」


 最低の展開に駄目出ししつつゴソゴソ頭を出すと、カーテンの端から白い朝日が差し込んでいた。

 顔が冷たい空気にさらされると、ブルッと体が震え、ついでに股間がギリッと痛んだ。

「やべ。本当に漏れちまう」

 香川はギリギリの状態を崩さないように気をつけて布団から起きだし、階下のトイレに向かった。夢の中で小便をギリギリまでとどめていたのは、寝小便をするまいという無意識のうちの意識だったのだろう。

 母親が台所で朝食の支度をする音がしている。

 香川はトイレの前に来ると、『ハアー……』と深く息を吐き出し、下を向いたままそうっとドアを開いていった。

 明るい様子に大丈夫だと思うと、爆発的に尿意が膨らんできた。

 便器に腰掛け、今度こそ解放すると、夢の中同様最初はなかなか出て来ずに熱湯で焼けるように尿道が痛み、ちょろちょろと、やたらと長く放尿した。

 ハアー……、と安心した息をつき、これは膀胱炎になっちまうかもな、と忌々しく思った。

 勢いが出ず、長く長く放尿は続いた。

 いつしか緊張が解けて、ぼうっと目の前の白いドアを眺めた。

「まだかよ」

 老人のようにちょろちょろ出続ける尿に呆れて股間を覗くように下に目をやると、

 足の間に仰向けの白い顔があった。

 香川は自分の目が見ている物が信じられずにまなじりが張り裂けそうに見開いた。

 黒い学生服を着た胸に便器の脚が突き刺さる形で床に仰向けに寝て、唇をめくり上がらせて歯を覗かせ、目玉を上へでんぐり返らせている。

 藤山だ。

 行方不明で生きているのか死んでいるのかも分からない藤山が、何を間違ったのかうちのトイレに仰向けに寝転んでやがる。

 香川は息を漏らさないように両手で口を押さえ、まだか、まだか、と小便の出てしまうのを待った。

 ようやく終わりの近づいた尿が、じょろっ、と撥ねを上げた。

 固まっていた藤山の表情がふと解けて、でんぐり返っていた目玉が、こちらを向いた。

 香川は開いた口に突っ込んだ手を血がにじむほど噛んで悲鳴を抑えた。

 真っ白な藤山の顔が、まるで自分が死んでいるのを思い出したかのように、紫色にむくんでいき、腐臭を放ちだした。



 登校した香川はすっかりグロッキーになっていた。

 仲尾を見ると、やっぱり何かあったみたいでひどく疲れた、殺伐とした顔をしていた。

 草刈は、どこを見ているんだか分からない目をして、何か独り言を言ってへらへら笑っているのが病的で不気味だった。

 ホームルームにやってきた木原先生も、

「藤山はまだ所在が分からないそうだ。みんな、何かあったら頼むよ」

 と、深刻の度合いを強くして言葉少なに報告した。

 休み時間、香川はトイレに行きたくなると誰かが入っていくのを待って、後を追いかけるように入り、一人取り残されないように急いで用を足した。

 仲尾、草刈とは一言も交わさずに過ごし、最後の授業が終わるとさっさと教室を出た。

 自転車に乗ると、まっすぐには帰らずに、どこか目立たない所に公衆電話はないかと捜して走った。

 古い薬局の表にボックスじゃない電話を見つけ、建物の脇に自転車を止めると挙動不審にならないように気をつけながら電話に向かった。受話器を取り、十円を入れ、あらかじめ調べておいた管轄の警察署にかけた。

 授業中、それこそ気のせいかもしれないが、何度かあの腐臭を嗅いだ。姿の見えないあいつがふらっと通り過ぎていったような感じだった。

 もう限界だと思った。

『はい。こちら◯◯警察署です』

 落ち着いた女性の声が出ると、香川は早口で用意していたセリフをしゃべった。

「◯◯高校で行方不明になってる男子がいるでしょう? 新井田五丁目の、バイパス脇に、ガラスの割れた廃工場がある。そこにいるかもしれないから調べてください」

 『もしもし』と慌てたように問いかける声がしたが、香川はさっさと受話器を戻してしまった。きっと録音されているはずだから、これで十分だろう。

 心臓がドキンドキン鳴って気持ち悪かった。

 藤山があそこにいるのかは分からない。でも未だに行方不明というのは、普通じゃない場所にいるんじゃないか? あそこに戻る必然性があるのか分からないが、あそこ以外いそうな場所に心当たりがなかった。

(頼むから、さっさと見つかってくれ……)

 遺体が見つかれば、今自分が悩まされている現象は収まるのではないかと、警察が迅速に動いてくれることを切に願った。



 夜中、さんざん悪夢に悩まされ、朝、寝汗でドロドロになりながら香川は目覚めた。

 トイレに入るのがおっくうでならなかった。


 ホームルームに現れた木原先生は、

「藤山君は今日も欠席です」

 と心痛で疲れた顔で言った。

 香川は一瞬髪の毛が逆立つ思いがして、ひどく落胆した。

 警察はあそこを調べたのだろうか?

 藤山はいなかったのだろうか?

 疑惑と恐れが胸の内でグルグル渦巻き、吐きそうになった。


 放課後になると、香川は草刈を捕まえ、席を立った仲尾を追いかけた。

「話がある。自転車置き場で待っててくれ」


 自転車置き場で三人集まると、帰宅の生徒たちから背を向けて、香川は言った。

「昨日、警察にあの廃屋を調べるよう電話したんだ」

「てめえ、勝手なことを」

「いいから聞けよ。でも、今日もこの通りだ。藤山は見つからずに、俺は相変わらずあいつの腐った臭いに悩まされている。もう限界だ。今日は金曜日だ。土日二日間、あいつの所在が知れないまま、おまえら、耐えられるか?」

 仲尾は怒った顔で黙り込み、草刈はへらへら笑っている。

「俺は耐えられねえ。もう駄目だ。警察に出頭して、全部ぶちまけないと、精神を病んじまう」

「やめろよ。俺たちは関係ねえって言ってんだろ?」

「だったら、それを証明してくれよ?」

「あん?」

「……これから、もう一度あそこに行って、藤山がいないか、確かめようぜ?」

 仲尾は頬を引きつらせた。

「いいねえー、行こうぜ、廃墟探検! 俺、今度こそ幽霊見たいもんねー」

「ほら、草刈は行くってよ。おまえも来るよな?」

「俺は……」

「なんだ、おまえもビビリかよ?」

「……いいよ、行くよ。それで藤山がいなかったら、おまえも俺たちは関係ないって納得するんだな?」

「ああ。するよ」

「絶対だな?」

「ああ。約束する」

 そうして三人はおのおの自転車にまたがり、バイパス脇の空き工場に向かった。




 テラス側面の割れたガラスは、月曜日に訪れたときより更に上半分がずれていた。奥側に、ガタガタッ、と二段階くらい落ちた感じで、上の方の隙間が開き、斜めになって、ちょっとした振動で落下してガッチャーンと行きそうな感じだった。

 前回同様目立たない脇に自転車を置いて、駐車場側の裏口に向かった。

 ドアは、下が向こうへめくれていたアルミ板が、枠に戻されて塞がっていた。

「ほら見ろ、おまえの余計な電話のせいで、昨日警察が調べていったんだよ」

 仲尾があざけるように言い、香川も渋い顔で頷いた。ドアを開けて、向こう側からでなければめくれた板を元に戻すのは難しいだろう。

「これで納得しただろう? 帰ろうぜ?」

「えー、やだよお、入ろうぜえー?」

 さっさと引き上げたい仲尾に草刈がだだをこねるように言い、

「そうだ。ちゃんと調べなくちゃ駄目だ」

 香川は板につま先を当て、強度の見当をつけて向こうへ蹴った。

 バリン、と音を立てて、すっかり癖がついていた板は向こうへ巻き上がるようにめくれた。

「俺から行く。ちゃんと来いよ?」

 先に自分の決心を見せて香川がくぐり、「じゃあ俺」と草刈が喜んで続き、仲尾も仕方なく辺りを気にしながらくぐっていった。

 香川は短い廊下の出口に立って二人の揃うのを待っていた。

 今日は晴れていて若干時間も早く、室内は前回よりだいぶ明るかった。

 床は緑と灰色のタイル風のマットが敷かれていた。

 作業場に向かう廊下に向かい合って男女のロッカールームとトイレのドアがある。香川は立ち止まり、そっちの方を眺めたが、

「いねえだろ、そっちにはよ。さっさと調べようぜ」

 と仲尾に促され、先へ進んだ。

 給湯室がある。使い古された給湯器が主のいなくなった寂しさを表すように陰の中でたたずんでいた。

 かなりバランスが危なっかしくなっている割れた大ガラスを見つつ、壁の角を越えた。

 廊下の先、トイレの前に藤山の姿はなかった。

 今さら当たり前と言えば当たり前なのだが、香川はいっとき緊張がほどけて歯の間から息を吐き出した。

「いないねえ、藤山君。じゃあさ、トイレだね?」

 草刈が香川を追い越して進んだ。

「なにビビってんだよ」

 仲尾も嘲るように言って立ち止まっている香川を追い越していった。

「うるせーよ」

 香川も表から丸見えの玄関のガラスドアを気にしつつ歩いた。

「さあ〜、いるかなあ〜?」

 草刈が浮き浮きとノブに手をかけた。


 ガチャン。


 引っかかっていた爪が飛び出る音がして、その途端、香川は言い様のない悪寒を感じた。

 ドクン、ドクン、ドクン、

 心臓が痛いほど大きく鳴った。

 トイレのドアは緑色のマット加工がされている。

 灰色がかった薄い緑色が、急にどす黒く変色したように感じた。貧血で目の前が暗くなったのか?


 カタン……


 中で換気扇がかすかに動いた音がした。

「ま、待て……」

 香川は歯をカチカチ言わせて、手を上げて、後ずさった。

「やっぱりよそう。ここは拙い」

 チッと仲尾が舌を打った。

「てめえが言い出したんだろうが、このビビリ野郎」

「あっけちゃうよ~~」

 草刈がノブを回し、向こうへ押した。

(やめ…)

 香川はとっさに目を閉じた。

 キイ…、とかすかにヒンジのこすれる音がして、ふうっと間を置いて、

 二人の悲鳴がほとばしった。

 草刈は馬鹿みたいに

「わあわあわあ」

 と笑っているみたいな声を上げ、仲尾は、

「うわあ、ぎゃあああっ!!」

 と、オーソドックスに恐怖の悲鳴を上げた。

 香川は固く目を閉じ、両耳を塞ぎ、目の前の光景から隠れるようにしゃがみ込んだ。

 二人の悲鳴は上がり続け、背後からガッシャーンという大きな派手な音が上がって香川はすくみ上がった。

(わあああああああ、わああああああああ)

 外の音を聞かないように、香川は頭の中でわめき続けた。自分で気がつかないうちに本当にわめき声を上げていたかもしれない。

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