第2話

「桜の樹の下へ歩いていくとね、誰かが僕を呼んでいる声がするんだ。ここへおいで、ここへおいでって」

 白い病院のベッドの上で、彼は呟くようにそう言った。小さな身体が、一層小さく見えて、僕はもう、彼がこのまま消えてしまうのではないかと思った。

「連れていってあげるよって、そう言うんだ」

 それは、病人の見た夢だったのだろう。でも僕はずっと、初めて彼に会った時の、あの光景が忘れられなかった。桜の樹の下で、泣いている少年。今にも消えそうなその姿。思い出すと辛くて、怖くて、

「何処へも行かないよね!」

 そう叫んでしまった時、僕は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。

「・・・行かないよ」

 彼は困ったような顔を見せた。

「だって、君がいるから・・・」

 最後の言葉は消え入りそうな小さな声で。もしかしたらそれは、僕の錯覚だったのかもしれないのだけど。


 その日の夜、僕もまた夢を見た。本当は、どこからが夢で、どこまでが現実だったのかわからない。ただ、ふと気づくと、枕辺に彼が立っていた。

「どうしたの?」

 彼は答えなかった。ただ黙って僕の手を取り、

「ねえ、行こうよ」

 と、言った。

「何処へ・・・?」

「桜の樹が・・・呼んでいるんだ」

 ザワザワと、風が鳴っていた。部屋の窓から、僕らは裸足で外へと飛び出した。そこに・・・見知らぬ世界が広がっていた。真っ直ぐな白い道の両側に、ずっと桜並木が続いている。風に吹かれて、白い花びらが一斉に空へと舞い踊った。月明りだけが煌々と辺りを照らし、その情景は、とても美しかった。

「ねえ、行こうよ。一緒に」

 彼は僕を見つめていた。すがるような瞳だった。それなのに、僕は応えられなかった。この世界は綺麗で、本当に綺麗で、だからこそ怖くて、これ以上一歩も前へは進めない気がした。彼は行ってしまう。行ってしまおうとしているのに。

「・・・ダメだ」

 とっさに、そんな言葉を口にしていた。

「ダメだ。行かないで! ・・・帰ろう。僕らの世界に帰ろうよ!」

 僕がそう叫んだ時、彼はつかんでいた手を放した。それから、泣きそうな顔で呟いた。

「・・・僕は、ずっと行きたかったんだ」

 その時、僕はようやく気付いた。彼がずっと望んでいたことに。何度もそう言っていたじゃないか。

「ずっと、行きたかったんだ・・・」

(もっと、すごいのを作りたいんだ)

「この道の果てまで・・・」

(もっと、ずっと遠くまで飛ぶやつ・・・)

「どこまでも、どこまでも、走っていきたいんだ」

(あの空の向こうまで・・・)

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