001

 四月の始業式を終えて、私、高遠たかとおさくらは無事小学校六年生になった。

 ちょうどお昼前に帰ってきた私は、お昼ご飯の手伝いをしていた。高学年になってからは、ほぼ毎日家事の手伝いをしている。お母さんの喜ぶ姿を見るのがとても嬉しいからだ。

 でも、その日のお母さんは、どことなくぎこちなく、表情に曇りがあった。私は気にしない素振りで、手伝いを続けていた。

「桜、ちょっといい?」

 何かを決心したような眼差しで私を見つめ、手招きした。

 悪いことでもしてしまったのかと恐る恐る近づく。お母さんは優しく肩に手を置いた。私はその瞬間、ホッと胸を撫で下ろした。

「お父さんの都合でね」

 一度下を向いて、気まずそうな顔をした。

「引っ越すことになったの。すっごく遠いところに」

 とても小さな子どもに言うような口振りで、お母さんは言った。私はキョトンとして、母を見つめた。

「お父さんの都合なら、しかたないね。転勤……っていうのかな?」

 私は小さく微笑んで、お母さんに笑いかけた。自分が想像していたより深刻な話ではなかったので、安堵の気持ちが強い。

「嫌じゃない?」

「どうして? 平気だよ。それに、引っ越しなんて初めてだからすっごく楽しみ!」

 私にとって引っ越しは人生で初めての大きなイベントだった。馴染み深い家を出るのは少し残念だったけれど、決まってしまったことに今更文句は言えないのだから。

「それに、私が嫌って言ったら、お母さんもお父さんも困るでしょう?」

「そんなことないのよ。桜が嫌なら、あなたとお母さんはこっちに残ったって」

「それこそ、お父さんと離れるのは、嫌だよ」

 涙目になった私を見てお母さんは微笑んだ。そっと頭を撫でて「そっか」と呟き、優しく、それでいて少しだけ強く抱きしめた。苦しいけれど、大好きな母の匂いに包まれて、私も自然な流れで腕を回した。

 この時、母がどうしてそう聞いたのか、私にはわからなかった。


 私は両親のことが大好きで、喧嘩なんてしたことがなかった。

 このくらいの年頃になると「お父さんなんて気持ち悪い!」と毛嫌う友達もいたけれど、私にはそれがまったく理解できなかった。

 お父さんの仕事がお休みの日はすっごく嬉しかったし、家族で出かけられるのは、本当に幸せなことだった。

 だからこそ、お父さんと離れることなんて、絶対にありえないことだった。

 単身赴任なんて、尚更嫌だった。

 

 引っ越しを告げられた次の日の朝。

 学校に行く準備を済ませて、隣の家の前までやってきた。もちろん、彼を待つために。

 風に煽られた髪を抑えながら静かに待つ。ここで待たされるのはいつものことだから余裕だ。

 この間に今日行われる健康診断について考えようと思う。

 朝食は少なめにしたから、体重は気にしなくても平気。

 身長も去年よりもきっと伸びている気がする。結果が楽しみだ。

 なんてことを考えているうちに、少し離れた場所にある家の扉が音をたてる。息を荒くさせながら、髪の毛ボサボサの宮澤みやざわけいが現れた。

「ごめ……もうちょっ……待ってくれる?」

 ドアから半身出して、息も絶え絶えの少年はまだパジャマを着ていた。ついさっき起きたような恰好だ。

 というか、間違いなくさっき起きたよね?

「うん。でも、時間は平気?」

 私の言葉に間髪入れずに頷く。その間に、彼の脇からヒョコっと小さな女の子の顔が出てくる。

「おはよう、さくらちゃん」

「あ、おはよう、まいちゃん」

 彼の妹の舞ちゃんがにんまりとした顔で、手を振ってきた。そして彼の隣をすり抜けて、赤いランドセルを背負いながら、私の方へ弾むように寄ってくる。

「おにーちゃん、はやくしなよ」

 細い両腕を組んで、無邪気に頬を膨らませている。無造作に結ばれた髪型がとっても可愛い。

「ああ、わかった。ごめん桜。舞の相手しててくれ」

「あいてってどういういみよー!」

 大きく叫んだけど、既に扉を閉まっていた。不機嫌そうな顔はすぐに戻った。

「ごめんねさくらちゃん。おにーちゃんがあんなんで……」

「ううん。いつものことだから気にしてないよ」

「た、たしかに!」

 大げさなリアクションをして、舞ちゃんは両頬を手で押さえつけた。

「今日はどうしてお兄ちゃん、寝坊しちゃったの? お母さん、今日は家にいる日だよね?」

 彼の家族の事情はよく知っていた。彼のお母さんが仕事で朝からいない日は、こんな感じで起きられずにバタバタするのは日常茶飯事のこと。

 だけど、私の記憶が正しければ今日は、家に居る日だったはずだけれど。

「うん、お母さんいたよ! いたけど――」

「悪い! おまたせ!」

 舞ちゃんの言葉を遮り、彼は準備万端でやってきた。息を整えて、私と妹ちゃんを交互に見た。

「本当、ごめん」

 と、手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げた。ここまでいつも通り。

 彼は本当に支度が早い。まだちょっと寝ぐせが付いちゃってるけど。

「やっぱりわたしがおこしたほうがよかったじゃない!」

 さっきまでの笑顔はどこへやら。手を激しく動かしながら、妹ちゃんが抗議した。彼女が怒るのもいつも通り。彼はいつも起こしてあげようとする妹ちゃんの親切を、断っているのだ。

「流石に妹に起こされるのは恥ずかしいっていうか……」

「さくらちゃんがまってるのに、ちこくしたらどうするのよ!」

 背伸びして顔を兄に近づける舞ちゃん。怒っているのに、とっても可愛いな。

「まあまあ、舞ちゃん。余裕持ってこの時間に集合してるから」

「で、でも……」

「舞ちゃんが怒ってたら、私、悲しくなっちゃうなぁ」

 ハッとして、舞ちゃんは顔を小さな手で隠した。そして手を放すと、これでもかと言わんばかりの素敵な笑顔を見せた。

 うんうんと私は頷いて、手で輪っかを作ってオーケーサインを出した。

「それじゃあ、しゅっぱつ!」

 舞ちゃんが学校の方向を指さして、高らかに宣言した。宣言通り、妹ちゃんは脚を大げさに上げながら、元気に歩き出した。

「悪かったな、桜」

「平気平気。さ、行こう?」

「うん」

 彼は少し気まずそうにしていた顔を元に戻した。雲一つない空を見て、彼は小さく息を吐いた。

「今日、健康診断か」

 彼はポツリと、嫌そうな声を漏らす。その話を聞いて、舞ちゃんが口を出す。

「どれくらい身長伸びたかな~」

 無邪気に妹ちゃんは自分の頭上に手を置いた。ワクワクしているのが動きでよくわかる。

「ねえ、蛍……身長?」

 私が意地悪に言ってみると、彼はドキリと体を動かした。眉を細めて、私に横目で「やめろ」という視線を送る。

「結局六年間、私の身長抜けなかったね」

 視線でわかる。私の方が高い。

「はいはい」

 毎年健康診断の時期になると、身長のことを言う私を彼は呆れたようにあしらった。だけど、やっぱり少し残念なようで、肩を落とした。わかりやすくてつい笑みがこぼれてしまう。

「おにーちゃんなさけないなぁ」

 舞ちゃんがストレートに追い打ちをかける。

「うるさいな。これから成長するんだ。見てろよ桜」

「ふふ、楽しみにしてるね」

 そんなこんなで、私達は学校に向かった。

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