14.忘れないで

 ドラム缶風呂は入る人の他に、湯の温度を調節する人がいてこそ成立する。

 温度を調節する人がいなければ、湯の温度が高くなりすぎたり、逆に温くなりすぎたりしてしまうからだ。

 つまるところ、エンも一緒に入ってきてしまったことで温度を調節する係がいなくなってしまい、湯の温度が高くなりすぎてしまったことが私がのぼせてしまった一因だった。

 状況を分析し、それを察していたらしいエンは、私が回復すると申しわけなさそうに何度も謝ってきた。

 だけど誤解とは言え、元はと言えば一緒に入ろうと提案したのは私の方だ。

 それにエンと一緒にお風呂に入ることができて、なんだかんだ楽しかったし嬉しかった。

 だから今回も、エンはなんにも悪くなんかないのだと私は主張しておこう。

 のぼせた状態から回復した後は、食事を摂るために缶詰を調理した。

 思えば昨日からなにも食べていないから、お腹がペコペコだった。

 白米のアルファ化米だったので味は淡白で味気なかったけれど、こんな世界で贅沢は言っていられない。

 それに空腹は最高のスパイスとはよく言ったもので、二日間なにも食べていなかった私にとっては、ただの白米もご馳走に等しかった。

 実においしくいただけたことをここに記しておこう。

 可能ならエンにも一緒に食べてほしかったのだけど、こればかりは私がいくら頼んでもエンは頑として首を縦に振ってくれなかった。

 エンは食料でなくとも、質量を持つ物体であればなんでも燃料にすることができる。

 そして彼女はこの世界では食料が貴重であることも把握している。

 その貴重な食料を、必要でもないのに浪費する行為はいくらマスターの頼みでも聞けない、とのことらしい。

 少し残念だったが、私のことを慮っての判断だと思えば無碍にできるはずもない。

 ……無碍にできるはずもないというか、まるでエンに大切に思われてるみたいで、なんだかちょっと嬉しかった。

 そんなこんなで食事の時間も過ぎ去って、あとはもう寝るだけというところ。

 川から少しだけ離れた位置に寝袋を広げ、今はその中にゴロンと寝転がっていた。


「今日は結構疲れたなぁ……」


 一日中歩きっぱなしだったので、特に足回りの疲労感が凄まじい。

 だけどその甲斐あって、二日目の成果はまさしく上々だったと言えよう。

 最優先で確保したかった飲み水に加え、食料、そしてこういった寝袋や損傷が少ない衣服。

 今日の朝に欲しいと思っていたものが、およそすべて手に入った。

 正直なところ、解決できるのは飲み水くらいまでで他は中途半端な感じで終わってしまうと思っていたから、少し出来すぎなくらいに感じている。

 極端な話をすれば、なにか問題でも起きない限り、今ある食料がなくなるまでは一切探索に出ずとも暮らしていけるのだ。

 明日なにをするか悩むくらいには一気に問題が解決できてしまった。

 こんなにも幸運が続くと、その揺り返しでとてつもない不運が襲ってきそうで、少し怖くもなってくる。


「……ね、エン。手、握ってもいいかな」

「はい。どうぞ、マスター」


 感じてしまった恐怖を紛らわすみたいに、同じ寝袋の中、すぐ隣で寝ているエンの手を握る。

 大きい寝袋だから、私とエンの二人が入ってもまだ少しスペースに余裕があるくらいだ。

 エンの手は私の手よりもずっと柔らかい。

 それでいて私の手のひらで包み込んでしまえるくらい小さくて、なんていうか可愛らしい。


「エン、今日はいろいろありがとね」


 水も食料も、他のものも。全部、エンがいなければ手に入れることはできなかった。

 私一人では、せいぜい少量の飲み水を確保するくらいで終わっていただろう。


「マスター。エンは感謝されることなどなにもしておりません。マスターに仕えるアンドロイドとして、当然のことをしているまでです」

「当然って言われてもね……私はエンにこんな尽くしてもらうほどのことなんてしてないし」

「いいえ、マスター。マスターはこの地球上に唯一生き残った人類であり、エンのマスターです。それだけでエンの全権を委ねるに値します」

「……私が唯一の人類だから、かぁ……じゃあさ、もしここにいるのが私じゃない別の誰かでも……その人が私と同じ人類最後の一人だったなら、エンはその人にも私にしてくれたのと同じようにしてた?」


 ほんの少しだけ間を置いて、エンは答えた。


「はい。それがエンに与えられた役割ですから」

「あはは……そっか」


 エンがそう答えることはわかりきっていたけれど、それでも一瞬、私の胸がチクリと痛んだ。

 ここにいるのが私じゃなくても、エンにとってはきっとなにも変わらない。

 その人に、ただ仕える。ただ尽くす。

 エンにとって重要なのは生き残った最後の人類という存在であって、私という個人ではないのだ。

 そんなこと、最初から全部わかってる。

 ……でも……。


「ねえ、エン。エンの開発者の人はさ、エンに人類を守ってほしいって命令したんだよね」

「はい」

「それでエンはそれを守るために、一〇〇年以上もさまよってきた」

「はい」

「じゃあさ……私も、エンに一つだけ命令してもいいかな」

「命令、ですか?」

「うん、命令。この先、誰になにを言われても破棄しないでほしい……そういう命令」

「ふむ……わかりました。どのような内容の命令でしょう」

「……私のことを、ずっと忘れないでいてほしいな」

「マスターのことを?」


 ここにいるのが私じゃなくてもよかった。

 だとしても……いや、だからこそ、私は私らしくエンに接したいと強く思う。

 他の誰でもない私という存在を、エンに覚えていてほしいと感じた。


「私、エンがいなきゃろくに生きてくこともできないからさ、急にぽっくり死んじゃうこともあるかもって思うの。もしそうなっても、私と話したこととか、私にされたこととか……私の顔、声、体温……そういうの全部、エンにはずっと覚えててほしい。エンのメモリに残しててほしいんだ」


 エンは真剣に語る私をしばらく見つめた後、こくんと頷いて、私の命令を受け入れてくれた。


「了承しました。ご安心ください、マスター。命令されるより前から、稼働中の記録は常にすべて保存しています。メモリにも多く余裕がありますので、エンがマスターを忘れるようなことはありません」

「えへへ、そっか。ありがとね、エン」

「お礼は……いえ、違いますね。どういたしましてです、マスター」


 エンは私がエンに教えたお礼を言われた時の返し方を実践し続けてくれている。

 ここにいたのが私じゃない誰かだったなら、エンはこんな返し方をしなかっただろう。

 それを思うとなぜか無性に嬉しくなって、私はその感情の赴くままにエンの頭をよしよしと撫で回した。


「よーし。じゃあエン、そろそろ寝よっか。夜ふかしは体によくないからね。あ、エンもスリープモードになってちゃんと寝なきゃダメだからね。いい?」

「はい。心得ています、マスター。しかしながら、スリープモードは今回が初の使用となります。なんらかの不具合が生じる可能性も捨て切れません」

「んーと、つまり?」

「僭越ながらマスターには、エンがスリープモードへの移行が完了するまで、エンの監視をお願いしたい所存です……よろしいでしょうか?」

「ちゃんと寝れるかわからないから、寝るまで見ててほしいってことかな? それくらいなら全然いいよー」

「ありがとうございます。では、スリープモードへの移行を――」

「あ、ちょっと待った!」


 早速とばかりに瞼を閉じかけていたエンには申しわけなかったが、どうしてもやっておきたいことがあったのだ。


「こうやって寝る時にはね、お互いに『おやすみ』とか『おやすみなさい』って言うんだよ」

「おやすみ、ですか? では目覚めた時にも、そのようになにか言葉を交わし合うのでしょうか?」

「そうだよー。朝起きた時は『おはよう』とか『おはようございます』って言い合うの」

「わかりました。新たな知識を獲得。エンは一つ賢くなりました」


 賢くなりましたって言い方自体がちょっとアホっぽい感じがあるんだけど……言わぬが花か。

 新しいことを知ってご満悦なエンは可愛いし、うん。このままが一番だ。


「ではマスター……おやすみなさい、です」

「うん。おやすみ、エン」


 何気ないやり取りかもしれない。

 だけどその何気ないやり取りは、決して一人ではできないことだ。

 人類はもう滅んでしまったけれど、私はまだ一人じゃない。

 こうやってエンと他愛もない挨拶を交わすだけで、それを実感できる。


「……ちゃんと寝れた、かな?」


 エンがきちんと寝息を立て始めたことを確認する。

 ものすごい馬鹿力だったり、目からビームを撃ったり、人の目に映らないほど小さなナノマシンを使いこなしたり、エンが人間ではないことは明らかだ。

 だけどこうして見ると、人間となんら変わりなく見える。

 気持ちよさそうに寝ている、ただの一人の女の子に過ぎない。

 眺めているうちにこちらにも眠気が移ってきたようで、私の意識もうつらうつらとし始めた。

 かすかな虫の鳴き声と川のせせらぎが、眠気を助長するようだった。

 水も食料も解決しちゃったけど、明日はなにをしようか。

 ぼやけてきた頭では、なにも思いつかない

 だけどどんなことだろうと、エンと一緒ならすべてうまくいくような気がした。


「……けほっ……」


 ……眠りに落ちる間際、小さな咳が出る。

 石切りの時にずぶ濡れになっちゃったから風邪でも引いちゃったのかな、と。

 一抹の不安を覚えながらも、私の意識は闇に包まれていった。






 また、夢を見ていた。

 どこもかしこも靄がかかった景色の中、誰か知らない女の人に謝られ続ける、不可解な夢。

 いや……知らない女の人という表現は、少し語弊があるかもしれない。

 正しくは、私が忘れてしまった女の人とでも言うべきなのだろうと思う。

 そうでなければ、こんなにもたくさん謝ってこない。こんなに涙ぐんで、私の手を握ったりしない。


『――FGE細胞――――遅すぎ――――あなた――衰弱に瀕し――――どんな手を使っても――する』


 以前は際限なく繰り返される謝罪の言葉がかろうじて聞こえるくらいだったけれど、今回は少し違うようだった。

 なにか、言っている。

 なにか……よくわからないけれど、なにか忘れてはならなかったことを言っているような気がした。


『ごめ――ね、ごめ――――よりも――が大切――人類は――――こで終わり――』


 ノイズばかりだ。全然聞き取れない。

 必死に聞き耳を立てるけれど、元が一〇〇年以上前の錆びて剥がれかけた記憶だ。

 どんなに頑張っても、今耳にしていること以上を思い出すことはできなかった。


『どうせ――手に渡って――治療薬なんて――ない――――か……あな――――生き残っ――』


 治療薬……?

 それだけじゃない。その前にも、衰弱……エンの開発者の人が亡くなった時の症状と同じ単語を口にしていた。

 それこからさらに続いて、人類……終わり……。

 ……私は、人類が滅びた今、昔のことなんて気にするだけ無駄だと思っていた。

 でも、これは……これはなにか、今の時代にも続く重要な問題を彼女を言っているのではないか。

 下手すれば私にも降りかかりかねない問題を。

 人類が滅びた原因。もしかしたら、それはまだ今もこの世界に蔓延って――。


『……愛してるわ。さようなら』


 最後のその言葉だけは、はっきりと聞き取ることができた。

 もっと詳しいことを知りたいのに、そんな思いに反し、私の意識は浮上していく。

 もしも……もしも人類が滅びた原因が未だこの星に残っているというのなら、突き止める必要がある。

 私はまだ、エンと一緒にいたい。そのためには、人類が滅びた原因に私も巻き込まれないようにしなければならない。

 ……せめて、もう手遅れではないことを願いながら。

 そうして私は完全に眠りから目覚め、


「おはようございます、マスター」

「……うん。おはよう、エン」


 不安を隠すような作った笑顔で、先に起きていたエンと朝の挨拶を交わしたのだった。

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