11.水と食料
「んぅ……!?」
その行為は、エンが顔を近づけてきた時から、もしかしたらと半ば予想したことでもあった。
だけど実際にされてしまうなると、驚愕に目を見開かざるを得なかった。
キス。口づけ。接吻。言い方はなんでもいい。
とにかく私は今、エンと唇と唇を重ね合わせている。
意識してしまうと、顔が熱くなるのを止められない。耳まで真っ赤に染まって、自分の激しい心臓の鼓動が聞こえてくるかのようだった。
「エ……ンっ……!」
「……」
「むぐっ……」
エンの真意がわからず、少し抵抗するように体をもぞもぞとさせると、エンがお互いの唇の隙間を埋めるように、ぐっと唇を押しつけてきた。
息苦しくて少し涙目になって、問いただすように間近にあるエンの目を見つめる。
けれど、ただその青空のような瞳に迷いがないことがわかるだけで、どういう意図でこんなことをしてきているのかまではわからなかった。
エンの舌が、私の唇をつつく。もっと大きく開けてと言うように、唇の内側をそっと舌先で舐めてくる。
くすぐったくて口の入り口を広げてしまうと、もう閉じさせないとばかりにエンの舌が私の中に入ってきた。
舌と舌を絡ませるまではしてこなかったし、私も恥ずかしすぎてできなかったけれど、時折お互いの舌と舌が触れたりして、頭が沸騰しそうなくらい熱かった。
頭と視界がクラクラする。胸の鼓動が止まらない。
もうエンの顔を見ているのも気恥ずかしくなって、ぎゅっと目を閉じる。
そうしてもはや抵抗すらせずにエンのされるがままになっていると、なにか、液体のようなものが私の中に入ってくる。
最初はエンの唾液かと思って顔から火が出る思いだったけれど、それにしては粘性がなく、量も多かった。
まだほんの一日二日の付き合いだけれど、私はそれなりにエンについて理解しているつもりだ。
エンは優秀なアンドロイドだ。いつだってその役目の忠実で、意味のないことはしない。
こうして唇を重ねる行為にも、エンにとってなにか重要な意味があるはずなのだ。
……もしかして……。
一つの可能性が思い浮かんで、私は、エンが送り込んできた液体をゴクンと飲み込んだ。
すると、またエンがさっきと同じように液体が送り込んでくる。
ああ、やっぱりそうかと確信して、同じようにまたそれを飲んだ。
私はエンが浄水機能を持っていることまでは聞いていたけれど、体内で清浄化した水をどうやって外に出すのかまでは聞いていなかった。
口から体の中に取り入れたのなら、同じように口から外に出す。至極単純で、道理が通った答えだ。
「んっ……ごく、ごく……」
エンが送ってくれる水分を、私はゴクゴクと飲み干していく。
まるでエンの唾液を飲んでいるみたいで背徳感やらなんやらで心臓がバクバクだったが、なるべく意識しないよう努める。
飲んで飲んで飲んで……もうじゅうぶんだというところでエンの背をポンポンと叩くと、彼女はゆっくりと唇を離した。
「……申しわけありません。少し、服の上に垂れてしまいました」
エンの視線を追うように視線を落とせば、落ちた水滴でスカートに少しシミができていた。
それが私の口の端から顎を伝ってこぼれ落ちたものだと気づくと、私は慌てて手首で口元を隠した。
「だ、大丈夫。こ、これくらいすぐ乾くし……」
「お気遣いありがとうございます、マスター。次はこのようなことにならないよう気をつけます」
「つ、次っ?」
「はい。現在の水分残量、約一.五リットルです。続けて供給が可能ですが……お飲みになりますか?」
「い、いい! 大丈夫っ、もう大丈夫だから!」
ブンブンと首を横に振って私が答えると、わかりました、とエンは素直に引いてくれた。
それから近づけていた顔と体を離して、ちょこんと女の子座りをする。
……今の行為はただ単に、私に水分を補給させるためだけのものだった。
それはわかってる。わかってるけど……。
エンを見ていると、どうしても桜色の唇に視線が行ってしまって、少し前の光景と感触がフラッシュバックする。
唇と唇が重なって、舌と舌が触れ合って、私は、エンが送ってくる水をまるで彼女の唾液を貪るように飲み干して……。
ボンッ、と頭が爆発してしまいそうだった。
きっと今の私は、ゆでダコのようになっているに違いない。
「マスター……? ……今までと比較にならないほどの、著しい体温の上昇が見られます。大丈夫ですか……?」
「みぁいっ!? あっ、だ、だ、だいひょ、いじょ、だひじょぶだよ!?」
「……? 申しわけありません、マスター。よく聞き取れませんでした。もう一度お願いしてもよろしいですか?」
「ひぁ……!?」
エンの顔が近づいてくる。
私が言うことを聞き逃さないようにしたかっただけなんだろうけど、さっきのようにまたキスをされるかもと思うと、まともに顔も見ていられなくなって、慌てて視線をそらした。
「あ、あのっ……ご、ごめんねエン。その、えっと……ち、ちょっと、ちょっとだけでいいから、は、離れててもらっていい……?」
「……マスター?」
「あっ、き、嫌いになったとかそういうわけじゃなくて! えぇっと、ど、どっちかと言えば役得だったんだけど、あの……や、役得すぎたっていうか……」
「……?」
「……うぅ。と、とにかく、お願い……こ、こっち見ないで……わ、私がいいって言うまで……」
「……わかりました。マスターがそれをお望みなら」
エンが不思議そうに、それでいて心配そうにこちらを見てきていたことには気づいていたが、残念ながら今の私には彼女を気遣ってあげられるだけの余裕はなかった。
うぅ、ごめんねエン……で、でもこれ以上はもうなんか、熱すぎて気絶しちゃいそうだったから……。
心の中で申しわけなく思いつつ、胸の前に手を置いて深呼吸を繰り返し、少しずつ胸の鼓動を落ちつけていく。
とりあえず……水筒を使えるようにしてもらうのは、最優先でやってもらわないといけなさそうだ。
あれから数分かけて、なんとかエンと顔を合わせても大丈夫な程度に心を落ちつけることができた私は、エンと一緒に街の外を歩いていた。
ひとまず、最優先で確保すべき水分については解決した。衣類も手に入れた。夜の寒さをしのぐための、毛布や寝袋も手に入った。
だとすれば次に必要なのは、食料だ。
ただ、この食料という問題がなかなかに厄介だ。
確かな記憶はないけれど、私は発達した文明の中で生きてきたはずだ。
食料なんてスーパーマーケットでもコンビニでも、加工済みのものがどこでだって手に入れられた。手に入れるために苦労することもなかった。
人に飼い慣らされた犬や猫が、獲物を狩る感覚を失い、野生の中で生きていけなくなるように、私もまたこの文明が崩壊した世界で食料を確保することは容易なことじゃない。
どの動物や昆虫、植物が食べられるのか。どうやって捕まえるのか、見分けるのか。どういったところに生息しているのか。
文明に頼り切っていたせいで、知識も技術も経験も、なにもかも足りなすぎる。
「うーん……確かバッタは食べられたはず……あんまり食べたくないけど、そうも言ってられないし……」
ぶつぶつと呟きながら歩を進める。
一応、私の頭の中にサバイバル関連の知識はさわり程度にはあるみたいだけれど、しょせんはさわり程度。あまり当てにはならない。
第一、私がコールドスリープする前と今の時代とでは生態系が違う。
トカゲやゴキブリ、あるいはもっといるかもしれない。巨大化した生き物が跋扈し、虹色の花弁を咲かす花が自然に生息する。
一部、私の知識とまったく同じ見た目をした生き物もいるみたいだけれど、その中身まで私が生きた時代と同じだという保証はない。
たとえば……毒を持っていたりだとか。
そんなものを食べてしまったら、最悪そのまま野垂れ死んでしまいかねない。
哺乳類や鳥類なら、毒を持っている可能性は少ないはずだけど……。
毒を持つことは、捕食されやすい弱者の立場にある生き物が自然界で生き抜くための手段の一つだ。
武器を持たず、体が小さく、逃げる手段も持たない。主には、そういう生き物が毒を持つ進化をたどる。
哺乳類や鳥類は、どちらかと言えば捕食する側の立場にある。牙や爪などの武器を持ち、捕食対象に比べて体も大きい。
ネズミやスズメなどの小型の哺乳類や鳥類なら捕食されることもあるだろうが、だからと言ってわざわざ毒に頼る必要もないのだ。毒を持ち捕食されるよりも、捕食されないよう走って逃げた方が断然いいのは明白だ。
体の構造的にも、毒を持つことは賢い選択だとは言えない。
その体の大きさに見合う毒を生成しなければならなかったり、毒を生成することにエネルギーを割かねばならなくなったり、毒を持つことで様々な問題が発生する。
ゆえに、哺乳類や鳥類は毒を持たない。だから最悪、その二種類ならなら焼きさえすればとりあえず食べられるとは思う。
「巨大トカゲはわかんないけど……」
体は哺乳類以上に大きいけど爬虫類だし。そもそもなんであんなに巨大化する進化をする必要があったのかも全然わからん……。
わからない以上は食べない方がいいだろう。
狙うならやはり、哺乳類か鳥類だ。
とは言え……さっき言ったように、その二種類は逃げることに特化した進化をたどっている。捕まえるのはかなり骨が折れそうだ。
ああいや、エンがいるから無理矢理捕獲もできるかな。
結局なにもかもエンに頼り切りになっちゃうけど、何度も言うように今更だし。
まあ血抜きや解体の知識がないから、おいしくは食べられないし保存もろくにできないだろうけど……。
「……保存……保存か。保存食って、どこかに残ってたりしないかな」
人類滅亡から一〇〇年以上もの時が経ってはいるが、もしかしたら食べられる状態で残っている保存食が、どこかに残っているかもしれない。
食料が腐るのは菌や微生物が原因だ。だから理論上、それらがまったく存在しなければ常温だろうと食料が腐ることはない。
だけど、腐らないだけではダメだったりする。
冷凍保存を例に上げよう。極度の低温下では菌や微生物は活動を停止する。だから低い温度を常に維持しておけば腐ることはない。
しかし腐らなくとも、酸素がある以上は酸化が発生する。冷凍化で起きるそれを冷凍焼けと言い、これが発生するとその食品はパサパサになり味も栄養も抜けていく。
だからただ単に冷凍保存するだけでは、栄養を残した状態で一〇〇年以上保存し続けることはできない。
一応食べることはできるだろうけれど、栄養がないのだから食べること自体が無意味だ。
食料保存の仕方が重要になる。一〇〇年以上経っても食べられて、なおかつ栄養を残すことができる保存状態……。
「缶詰と……あとレトルトの食品は、確か中のものは腐食も酸化もほとんどしなかったはず……」
缶詰とレトルト食品は食品を中に密封した後、加熱し菌や微生物を死滅させる工程を経て完成する。
空気を抜いて密封されているからほとんど酸化することはなく、菌も微生物もいないから腐敗することもない。
もちろん、永遠というわけではないけど……。
そのままの状態を維持できるなら中の食品が腐ることがなくとも、缶やレトルトパウチと言った容れ物は違う。容れ物自体はいずれ腐食し破損してしまう。
そうなれば当然、中にある食品にも影響を及ぼす。
今の時代、腐食が生じていない金属の方が少ないから、あまり期待はできないが……世界には、一〇〇年以上前の缶詰を食べても大丈夫だったという記録もあったりする。
案外探してみれば、まだ食べられる状態の保存食がどこかに転がっているかもしれない。
「探すなら、災害時の避難所になりやすい場所がいいか……なら小学校か、中学校かな」
学校は大人数を収容できたり、炊き出しができたり、避難所に適した条件が整っていることから避難所に選ばれやすい。
そして避難所なら、非常食を備蓄しているはずだ。
私が求める、無事な状態で残っている保存食が残っている可能性は十二分にある。
「よし」
ひとまず次の目的地は決まった。
あとはその小中学校をどうやって見つけるかだけど……うーん……。
「ね。エンってさ、この街の学校ってどこにあるかとか知らない?」
「学校……ですか?」
困った時はエンに頼る。もはやルーティーンと化した作業を私が行うと、エンは可愛らしく小首を傾げた。
「そ。学校、知ってる?」
エンは戦闘用のアンドロイドだから、そういう情報が入力されていないことも普通に考えられる。
「人類種の子どもを教育する施設だと、知識としては備わっています。しかしどのような場所が学校という施設に該当するのかまでは判断がつきません」
「ああ、そういう感じね」
多少の知識はあっても、実物を見たことがないということだ。
けれどエンには一〇〇年以上も人類を探して世界中をさまよってきた過去がある。学校を見たことがない、というパターンはあまり考えられない。
エンの中にある知識と、見たことがある実物とが、うまく結びついていないに過ぎないだけだと感じた。
「学校っていうのはね……大きい建物と広いグラウンドが隣接してて、周りが塀で囲まれてて――」
どういう場所を学校と呼ぶのか教えてあげればエンならすぐにわかってくれるだろうと思ったので、できるだけ具体的に説明していく。
ふむふむと頷いていたエンは私の説明を一通り聞くと、それならばと一つの方向を指し示した。
「あちらにそれらしき施設があったと記憶しています。ナビゲートが必要ですか?」
「うん。お願いしていい?」
「了解しました。誘導を開始します」
食料の問題さえ解決できれば、この崩壊した世界でも当面は問題なく生きていけるようになる。
保管されているであろう非常食がどうか食べられる状態で残っているよう祈りながら、私はスタスタと歩き出したエンの横に並んだ。
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