5.トカゲの脅威

「これは旅行雑誌……こっちはゲーム雑誌で、あれはファッション誌……」


 棚から落ちて床に散らばっている雑誌類を、あれじゃないこれじゃないと放り投げながらガサゴソと物色していく。

 ジャンルごとに並べられているわけでもないので、目的の雑誌類を探すのも一苦労だ。


「これは……料理雑誌かぁ。こんなゴーストタウンで呑気に料理の勉強なんかしてもね……ならこっちはー……んん!? こ、これ、あだると雑誌っ? なんでスーパーにこんなのが……!?」


 あわあわと他の雑誌の下に慌てて隠す。

 い、いや、私以外誰もいないから、別に隠す必要ないんだけどね?

 こう、こんなの読んだことないから、なんか気まずいというか……なんと言いますか。

 ……えっちな写真がいっぱいだった……。

 と、とにかく!

 エンがここにいなくて本当に、本当によかったっ。

 教育に悪すぎるって! あれは!


「き、気を取り直して……えーっと、次はこれかなー……?」


 アクシデントはあったが、このままおめおめと引き下がるわけにはいかない。まだなにも有用な情報が得られていないのだ。

 さっきみたいな事態に直面しても冷静に対処できるよう心構えをして、さらなる雑誌を手に取ってパラパラとページをめくった。


「んー……医療系の情報雑誌かぁ。またマイナーなものを……このスーパーちょっとおかしいんじゃない? こういう変わった品揃えを売りにしてたのかな……」


 いっそ呆れるくらいジャンルがとっ散らかっている。


「まあとりあえず、これもちが――……待った。今のって……」


 これも違うと放り投げようとした直前、あるページに載っていた写真と単語を数瞬遅れて脳が認識し、ピタリと手が止まった。

 見えたものを今一度確かめるため、さっき目に留まったページを再度開く。


「……新たな医療用アンドロイドの開発に着手……アンドロイドが統括する新型ナノマシンでFGE細胞のさらなる可能性を追求……?」


 なんだこれ……?

 医療用アンドロイドに……ナノマシン? FGE細胞?

 雑誌を裏返して、表紙を見てみる。

 ゲーム雑誌でもSF関連の雑誌でもない、本当に医療関連の雑誌だ。

 ふと、私の頭の中に、エンに出会った時の会話の一つがよぎる。

 私が全生活史健忘や逆行性健忘――いわゆる記憶喪失に陥っていると知ったエンは、私にこう言っていた。

 すなわち「医療用のアンドロイドではないエンには人体への直接的なナノマシンの投与は許可されていません」と。


「……まさか、本当に?」


 エンの発言の裏付けが取れてしまったような気分だった。

 よもやこんなところにまで来て、わざわざ自分の脳内の設定に沿った自作の雑誌を置いていったりなんかしないだろう。

 そもそもこの雑誌は他の例に漏れず文字もイラストもかすれており、かなり長期間に渡って放置されていたのは誰が見ても明らかだ。

 ……私の中にある知識によれば、アンドロイドはまだしもナノマシンなんて、実現の「じ」の字もできていないような、完全なSF、ファンタジーの領域である。

 だから、ありえないと一蹴してしまうことは簡単だ。

 だけど……。

 ……私はエンと初めて会った時から、エンの言うことを信用できないと常々思っていた。

 だけどそれは本来、逆にも言えることだったのではないだろうか。

 記憶をなくし、知識も完璧ではない今の私の認識は、本来なら私自身が一番疑ってかかるべきだ。

 記憶喪失のうち逆行性健忘と呼ばれる症状には、多くの場合、時間勾配が認められる。

 時間勾配とはつまるところ、近い出来事ほど忘却しやすく、遠い出来事ほど思い出しやすいというものだ。

 だとしたら……私の頭の中に残っているこの知識は、いったいいつ頃のものを基準にしているんだ?

 私は自分の年齢も、名前すらも覚えていない。

 アンドロイドも、ナノマシンも……エンがおかしなことを言っていたわけじゃなくて、実現したという事実を、私が忘れてしまっているだけじゃないのか?

 ……まだ、エンの言っていたことへの疑いが完全に晴れたわけじゃない。

 だけどこれが医療関連の雑誌だというのなら、コールドスリープについての記述もあるかもしれない。

 人体を保存する技術である以上、医療とコールドスリープは切っても切れない関係だ。

 もしコールドスリープに関しての記述があって、その理屈が私の納得のいくものであれば……その時はきっと私も、エンの話をまともに聞いてあげる必要がある。

 そう思い、真実を確かめるためにも雑誌をさらに読み込もうとすると、不意に奇妙な音が聞こえてきて、私は思わず顔を上げた。


「……? なに、この音?」


 スーパーの外から、ズルズルと、なにかが引きずられているような音が聞こえてくる。

 よく聞いてみると、ドスン、ドスンと、なにか重いものが地面を叩く音も混在している。


「なんだろう……なにか乗り物とか、機械の音、なのかな……?」


 エンは、人類は絶滅したって言ってたけど……。

 もしかしたら、本当は私以外にも誰か人がいるんだろうか?

 ここに来るまでエン以外に人っ子一人見かけなかったから、なんだか少し妙な感じはするけど……。

 誰か他に人がいる可能性がある以上、音の正体を確かめずにはいられなかった。

 雑誌コーナーで情報を得ることを一時中断し、読んでいた医療系の雑誌を脇に抱えて、出入り口の方へ足を進めた。

 外に出ると、広い駐車場が私を出迎える。

 ……どうやら、スーパーの側面の方から音が聞こえてきているようだ。

 誰か他の人に会えるかもしれない。

 そんな期待が、無意識のうちに私の心を急かしていたんだろう。

 音がする方向に足早に向かうと、私は、なんの警戒もせずに建物の角から飛び出してしまった。


「あのー! すみませーん! 誰かいるんです、か……」


 飛び出した勢いのまま上げた言葉が、途中から力なくしぼんでいく。

 目の前に広がっていた光景が、私が予想し望んでいたものからは、ずいぶんとかけ離れたものだったからだ。

 ああ、エンが言っていたのはこれのことかぁ、と一瞬でわかった。

 短く太い前足と、後ろ足。鱗に包まれた太い巨体を地面スレスレな位置で支えているそれらは、強靭な肉質と強度を誇っているのが一目でわかる。

 さきほどのズルズルという音は、この生物の尾が地面を擦っていた音だったようだ。コンクリートの地面に、尾を引きずっただろう跡が残っている。

 尾も胴体に負けず劣らず巨大で、両方合わせれば全長三〇メートルほどはあるだろう。

 巨体相応の太く長い頭部に備わった無機質な瞳孔が、突如現れた私をまっすぐに捉えていた。


「…………でかくね?」


 そこにいたのは紛れもないトカゲであった。

 ただ一つ、やばいくらい巨大であるという一点さえ除けば、普通のトカゲである。

 チロチロと舌を出しながら、まるで獲物を見るような目で私を見据える、巨大トカゲ。

 そんな光景を目の当たりにして、私はあはははと乾いた笑いを上げながら、くるりと体を反転させた。

 そして迷わず全力ダッシュする。

 巨大であることさえ除けば普通のトカゲ――要するに、巨大ですので普通じゃありませんって意味である!


「っ――」


 ドスンドスンドスンドスンッ!

 走り出して間もなく、背後から鈍く重い音が連続的に響き始めた。

 同時に、地面になにか巨大な物が何度も打ちつけられているかのような振動が足元から伝わってくる。

 後ろの方でなにが起きているのか、私はほぼ確信を持って理解していたが、それが間違いであるという一縷の望みに賭けて、ちらりと一瞬だけ振り返ってみる。

 そこにあったものは、そんな私の淡い願望を粉々に打ち砕くかのように、元気いっぱいの赤子のごとく全速力で迫りくる巨大トカゲの姿だった。


「わ――私おいしくないからぁあああああっ!?」


 どんどん距離が近くなる巨大トカゲの恐ろしい顔面に、脳がけたたましい警報を鳴らす。

 やつの全長は目測で、およそ三〇メートル。

 三〇メートルと言えば、大体一〇階建てのマンションくらいだ。

 想像してみてほしい。一〇階建てのマンションが横たわったような肉食の怪物が、背後から猛スピードで迫りきているのである。

 はっきり言って怖い! めっちゃ怖い! 死ぬほど怖い!

 っていうか追いつかれたらマジで死ぬよねこれ!?

 とにかく死にものぐるいで必死に足を動かす。

 エンは確かにトカゲの脅威があると言っていた……言っていたけれどもっ!

 こんなにでかいとか、一言ひっとこっとも! 聞いてないんですけど!?


「はぁ、はぁっ、はぁっ!」


 とにかく体格差が絶望的すぎた。

 あちらの三〇メートルに比べ、こちとら良いとこ全長一.五メートルってところである。しかも二足歩行だ。

 チーターみたいな四足歩行の動物が生物史上最速と呼ばれることからわかるように、二足歩行よりも四足歩行の動物が走ることは得意なのだ。

 尋常でない生命の危機を感じ、今までにない速度で走れている感覚があったが、それを加味してもあちらの方が断然速い。

 お互いの距離は見る見る間に縮まって、どんどん余裕がなくなっていく。


「ぜぇ、ぜぇー……!」


 さらには、まだほんの数十メートルしか走っていないはずなのに、もう息が切れてくる。

 過去の私は普段から運動を全然していなかったのか、はたまた長い時を眠って過ごすコールドスリープの悪い副次的効果なのか。

 真偽のほどは定かではないが、いずれにしても絶望的な状況であることに変わりはなかった。

 唯一希望があるとすれば、追いつかれるよりも先にスーパーの中に逃げ込んでしまうことだろう。

 あの巨体では、スーパーの中にまでは入ってこれないはずだ。

 そういうわけで、とにかく出入り口を目指して走る――が、こういう時に限って不運というものは重なってしまうようだった。

 逃げることで頭がいっぱいで、足元にまで注意が回らなかった。

 ひび割れで欠けていたアスファルトの地面に足を引っかけ、転んでしまったのだ。


「へぶっ! ……あ……」


 すぐさま立ち上がろうとするが、それより早く真上に影が差した。

 ゾッと冷たい予感が背筋を駆け巡り、咄嗟に体を横に投げ出す。

 ――ドゴォンッ!

 一瞬遅れて、凄まじい衝撃と風圧を伴い、トカゲの前足が一瞬前まで私がいた地面にめり込んだ。


「ひっ、ぁ……」


 あまりの恐怖から、ブルブルと震えることしかできなかった。

 ゆったりと、仕留め損なったかと言わんばかりにトカゲが振り下ろした前足を上げていく。

 いくら年月の経過で脆くなっているとは言え、仮にもアスファルトの地面に、前足の形をした巨大なくぼみができ上がっていた。

 その中央には、私が体を投げ出した際に落としてしまった医療系の雑誌の無残な残骸が転がっている。

 もし回避する判断があと一歩遅れていれば、私もあの残骸と同じ末路をたどっていただろうことは想像にかたくない。

 そして間近であんな恐怖体験を味わって、私みたいな普通の女の子が平常心でいられるはずがなかった。


「っ、早く逃げ……あ、あれっ? なっ、なんで……?」


 生き残りたい一心で立って逃げ出そうとして、ストンと尻もちをついた。

 どれだけ立とうとしても足はガクガクと震えるばかりで動いてくれない。

 完全に、腰が抜けてしまっていた。

 今すぐにでもここから逃げなきゃいけないことは誰よりも私が一番わかってるのに、立てない。体が強ばって、まったく言うことを聞いてくれない。


「ひっ……!」


 無様に尻もちをついたまま動けずにいる私を見るトカゲの眼は、捕食者のそれそのものだった。

 それでもまだなんとか立ち上がろうと四苦八苦するけれど……実際のところ、今更立ち上がったところで無駄だということは、火を見るよりも明らかだった。

 ここからスーパーの出入り口までは、まだ距離がある。一方で、私と巨大トカゲとの距離はもう二メートルとない。こんなもの、巨大トカゲにとってはゼロにも等しい距離だ。

 元々、私と巨大トカゲとでは絶望的な体格差があった。

 一度転んでしまった時点で……あるいは最初に出会ってしまった時点で、なにをどうしようとも追いつかれてしまう運命だったのだろう。

 私にはもう、ここでこの巨大トカゲに大人しく食べられる未来しか残されていない。

 ……そんなどうにもならない現実を認識してしまうと、これまでの日々が走馬灯のように私の頭をよぎった。

 これまでの日々というか、記憶失ってるから一日分すらないんだけど、とにかく頭の中に浮かんだのだ。

 エンの顔が。

 私がこんな目に遭ってしまったのも、きっと私がエンのことを少しも信じようとしなかったからなのだろう。

 エンはきちんと危ないと警告してくれていた。こんなにトカゲがでかいとは言ってなかったけど……最終確認なんて言って、念入りに確認してくれていた。こんなにでかいとは言ってなかったけど!

 だからなのか、最後の最後で、私はこれから自分がどうなるかなんてことよりも、エンのことばかり考えてしまっていた。

 もっとエンにちゃんと構ってあげればよかった、とか。

 エンは私と違って無事なのかな、とか。

 もし無事なら、どうか私が食べられているうちに早く逃げて、だとか。

 そんなことをつらつらと思考しているうちに、巨大トカゲが前足を振り上げるさまを目前にして、私は自分の人生の終わりを予感した。

 半ば反射的に両手を顔の前に交差させ、涙で滲んだ目をぎゅっと閉じる。


「ごめんね、エン――!」


 ドゴォンッ! ……と、強烈な破砕音が駐車場に鳴り響いた。

 あぁ、私、今死んだんだなぁ。

 どうか、エンだけでも無事でいてくれればいいんだけど……。

 漠然とそんなことを思い……しかし数秒後、ふと我に返った。

 今の音を、私は巨大トカゲが私に向かって前足を振り下ろした音だと認識したけど……本当に死んでたら、そんな音を認識することも、こうして思考なんてできなくないか?

 痛みもなかったし……というか今、音はトカゲの方からではなくて、すぐ横のスーパーの方から聞こえた気がした。

 ……もしかして私、まだ生きてる……?


「……エ、ン……?」


 状況を把握するためにも恐る恐る瞼を開けてみると、予想だにしない光景がそこに広がっていた。

 いつの間にか私の近くのスーパーの壁が粉々に破壊されており、その奥の店内で、エンが拳を突き出した体勢で静止していた。

 私に前足を振り下ろそうとしていたトカゲは、その衝撃に反応して咄嗟に足を引っ込めていたらしく、幸いなことに私の体には傷一つない。

 どうやら今しがた聞こえた破砕音はトカゲが前足を振り下ろしたからではなく、スーパーの壁がエンによって粉砕されたことが原因のようだった。


「エ、エン……?」


 正直、脳の処理がまったく追いつかなかった。

 エンがスーパーの壁を壊したのは見ればわかる……わか、うん。わかるけども!

 これ、どう見ても殴って壊した感じだよね?

 えぇ……? エンって私よりちっちゃいんだよ? どうなってるの?


「……人類種への脅威を確認。第二マイクロブラックホール生成機稼働。小型縮退路と連結。出力上昇」


 少し前まで私に向いていた巨大トカゲの視線は、今や突如乱入してきたエンの方へと向いていた。

 なにやらぶつぶつ独り言を呟くエンに好機と見たのか、巨大トカゲが不意打ち気味に前足を振りかぶる。

 危ない! と声をかける暇もなかった。

 巨大トカゲの前足は、避けようともしないエンに直撃する。

 だけど、なんというか……それは私が危惧したような結果には至らなかった。

 トカゲの前足は確かに、無防備なエンに当たったはずだった。

 だけどエンは不動の二文字を体現するかのごとく突っ立ったままで、ほんの少しも吹き飛ばされていない。

 衝撃の余波でエンの周囲の壁や床が無惨に破壊されたりはしたが、エン本人はなんともないような涼しい顔で無傷を貫いていた。

 ……あの……その前足、さっきそこのアスファルトにすごい大きい穴空けてたよ?

 エン、なんで耐えられてるの?

 なんかもう状況についていけないんですが……。


「戦闘モード移行。脅威を排除します」


 エンがぽつりとまたなにか呟いたかと思うと、突如彼女の瞳から、カッ! と強烈な光が放たれた。

 この場を覆い尽くすほどのそれに、半ば反射的に目を閉じる。

 が、状況が状況だ。すぐに瞼を開けた。

 そしてその時にはすでに、事態は完全に終息を迎えていた。


「……はい?」


 さきほどまで恐怖を振りまく権化だったはずの巨大トカゲが、いつの間にか絶命していた。

 それも死に方が尋常ではない。頭から胴体にかけて、直線状に半径一メートルほどの大穴が二つ。

 その大穴の断面は、凄まじい熱線でも通り抜けたかのように赤く焼き焦げている。

 無論、その発射地点だろう位置はエンが立ち尽くしている場所である。

 エンの両目が普段のの青空みたいな色から夕焼け色に変わっていることを鑑みるに……おそらく、目からビームを撃ったんだろう。

 巨大トカゲからプスプスと上がる煙からは、場違いだが、焼き鳥にも似た、少しだけおいしそうな匂いがした。


「あ、はは……あは、あははは……」


 感じていた生命の危機から思いがけず逃れることができたからか、急に全身の力が抜けて、へなへなと崩れ落ちてしまった。


「標的の沈黙を確認。第二マイクロブラックホール生成機の連結解除、稼働停止……無事ですか? マスター」


 あんなことがあったというのに、エンは普段と変わらない軽い足取りで、とてとてと近づいてくる。

 あの巨大トカゲはとんでもないくらい怖かったのに、その巨大トカゲを歯牙にもかけず文字通り殲滅したエンには、なぜか全然恐怖を感じない。

 たぶんその違いは、可愛いからなんだろうな、なんて思う。

 もしこれが機械じみた見た目だったり、人間っぽくても大男だったりとかしたら、きっと少なからず怖いと感じていた。

 でも、エンは可愛いから怖くない。

 もしここまで計算していたのだとしたら、エンを可愛く設計した開発者は紛れもない天才だ。間違いない。


「あはは……うん、大丈夫。守ってくれてありがとね、エン。私はちゃんと無事……とは、ちょっと言いがたいけど……」


 ちょっとした被害はあるが……まあ、命の危機と比べたら大したことじゃない。


「……お怪我を負いましたか? 申しわけありません。エンの性能が及ばぬばかりに……」


 あれで低性能ならそれはそれでやばい。高性能どんなだよ。

 どことなくしょぼくれているエンの頭を励ます意味も込めて撫でてやりたかったが、あいにくと腰が抜けて未だ立ち上がれず、手が届かなかった。

 だから代わりに精一杯の笑顔を顔に張りつける。


「エンは悪くないよ。それに心配しなくても、怪我とかそういうのじゃないから」

「では、いったいどのような被害を?」

「……いや……それは、その……」


 言葉に詰まる私を見て、こてん、とエンは可愛らしく小首を傾げた。


「……うん、と……すごく、言いづらいこと、というか……えぇと……」


 これ、言わなきゃいけないのかな……言わなくてもいい気がする……。

 でも、エンは純粋に心配してくれているんだろうし、一度言い始めてしまった手前「やっぱりなし!」と取り消すのもはばかられる。

 もしそんなことしたら、私に気を遣われたと判断して、余計に気に病んでしまうかもしれない。

 だから、しかたがない……しかたがないのだ。

 もじもじと内股気味になってしまいつつ、私は私を見つめるエンからサッと視線をそらして、モゴモゴと小声で呟くように言った。


「その……ちょっと漏らした……だけなので……」

「…………」


 ……エンがアンドロイドであることは、もはや疑いようもない。アンドロイドとは、つまり機械だ。

 だから今感じている気まずさとかは、私が勝手にそう感じてしまっているだけで、私が認識を改めれば関係などないはずだ。ないはずである。

 そんな風に心の中で言い訳をしながらも、私は襲い来る羞恥の波に耐え切れず、真っ赤になった顔を伏せて縮こまったのだった。

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