6.天使の祝福

 無数の星々が空を埋め尽くしている。

 私にはほとんど記憶がないけれど、こんなにも綺麗な星空を目の当たりにしたのは、人生で初めての経験だったような気がした。

 人の繁栄と星の瞬きは、反比例をする。

 人がその営みの範囲を広げれば広げるほど、ネオンの光は星の明かりを遮断して見えにくくしてしまう。

 空気の汚染だって、星が見えにくくなる理由の一つだ。

 この暗い天蓋の向こうに、星はいつだって瞬いて輝いている。だけどその美しさを見えなくしてきたのは、他でもない人間だ。

 人の繁栄が終息を迎え、人工の光のほとんどを失った今だからこそ、星の祝福は一層に美しく輝いて見えるのだろう。


「寒くはありませんか? マスター」

「ん、大丈夫。ありがとね、エン」


 パチパチと火花が上がり、ユラユラと陽炎が揺れる。

 そんな焚き火の前で私は体育座りをして、火に手をかざしていた。

 ちなみにこの焚き火だが、エンが数分の間にどこからともなく集めてきた大量の薪に、これまたエンが目から少量のビームを放って火をつけてでき上がったものである。

 巨大トカゲを一瞬で葬った時はあまりに強烈な閃光に思わず目を閉じてしまったけれど、今回は火をつける程度の最低限の出力だったので、ちゃんとこの目で見ることができた。

 エン、マジで目からビーム撃ってた。本当に人間じゃないらしい。わかってたことだけど。


「……あれ? エンは座らないの?」

「エンに疲労の概念はないため、休憩は必要ありません」

「や、私は座ってるのにエンが立ったままじゃね……私の方が気になるし。じゃ、私が隣にいてほしいって命令したら? もちろん座ってね」

「ご命令とあらば」


 ストン、と私の隣に腰を落とす。

 座り方までは特に指定していなかったが、エンのマスターであるらしい私がそうしているからか、同じように体育座りをしていた。

 その様子を擬音で表すなら、ちょこん、ってところかな。

 こうして見ると本当にただの可愛い小さな女の子にしか見えない。実態は目から巨大ビームを放つつよつよスーパーアンドロイドなんだけど。


「今日は大変だったなぁ」


 目覚めた場所はオンボロ日本家屋。記憶は欠片もなく、知識はどこまで頼りにしていいやらわからない曖昧な虫食い状態。

 最低限の衣類は見つけられたものの、外は廃墟の街で。かすかな希望を胸に探索しても当然誰もおらず、しまいには巨大トカゲに襲われた。

 と、そこまで思い出したところで、私はハッとしてエンの方を向いた。


「っていうかエン! なんでエンが言うトカゲがあんなにでっかいやつだったこと教えてくれなかったの!? 私の知識と全然違ったんだけど!」


 まあ教えてくれなかったもなにも、あの時点での私なら、教えてくれてたとしてもまともに取り合っていなかっただろうけど……。

 でも、それにしたって一番重要な部分が省かれて説明されていたのだから文句の一つくらい言いたくもなる。実際に命の危機に瀕したわけでもあるし。


「……申しわけありません。あのトカゲは、エンが想定していたサイズを大きく上回るものでした。事前に観測できていれば警告も可能でしたが……エンの性能が及ばぬばかりに、申しわけありません」

「あ、あれ? エンもあんなに大きいとまでは思ってなかったの?」


 もしかして私が今言った文句って筋違いだったりする?

 だったら謝らなきゃ……。


「はい。トカゲの平均的な全長は五メートルから一五メートルのはずです。その二倍以上もあるトカゲは、エンも今回初めて遭遇しました」

「いや、普通のトカゲは五メートルもねえですよ?」


 思わず乱暴な言葉づかいになりかけた、ことに途中で気づいて敬語で刺々しさを緩和しようとしたら、なんだか奇妙な言葉遣いになっていた。

 でもいきなりこんな意味不明なこと言われたらこんな混乱した話し方になるのもしかたがない。

 だってあれだぞ。私の中にある謎の豆知識によれば、世界最長のトカゲであるハナブトオオトカゲっていうのが五メートル届かないレベルなんだぞ。それより遥かに大きいとかおかしいじゃんどう考えても。

 私のツッコミは至極当然なものであるはずだったが、なぜかエンは不思議そうに首を傾げた。


「……エンとマスターの間で、無視できない認識の相違が懸念されます。情報の照合のため、マスターの知るトカゲのサイズの入力をお願いします」

「え? まあその辺にいるやつだったら、でかくても全長三〇センチとかそこらじゃないの?」

「……情報の不一致を確認。マスターの知るトカゲとエンの情報にあるトカゲは別物です」

「はい?」


 え、なに。別物?

 ……まさかエンって、マジで五メートルから一五メートルサイズが普通のトカゲだと思ってたの?

 えぇ、どういうこと……? なんでそうなったの?


「申しわけありません、マスター」


 私が疑問に支配されていると、エンが座ったままペコリと頭を下げた。


「エンは戦闘用のアンドロイドであるため、戦闘に不必要な知識の入力が不十分です。トカゲという爬虫類の生態の大雑把な知識は初期段階からありましたが、サイズなどの細かい特徴はエンが実際に記録したもののみを参照していました」

「えっと、そうだったんだ……?」

「はい。それによって、人類滅亡より以前の時代のマスターの知識と、滅亡と同時期に製造されたエンとの間で、情報と認識に齟齬が生じたものと推測されます……エンの性能が及ばぬばかりに気づくことが遅れ、誠に申しわけありません……」


 エンはペコペコと何度も謝ってくる。

 そんなアンドロイドとしての責任感たっぷりな健気な姿を見ていると、軽い気持ちでトカゲの大きさを教えてくれなかった文句を言ってしまったことに、ちょっとばかり罪悪感が芽生えてきた。

 どうせエンがよく見るというトカゲサイズを教えてくれていても、あの時の私は信じたりしなかった。

 それに最後には、エンはちゃんと私のことを助けに来てくれた。だからトカゲの大きさを教えてくれなかった程度のこと、ぶっちゃけそこまで気にしているわけでもない。

 むしろ、エンの言うことを妄想癖だと断じて、ぞんざいに扱っていた私なんかを助けてくれた感謝の気持ちの方が勝っている。

 そういうわけで、これ以上エンに謝らせるのは胸が痛かった。


「や、エンはなにも悪くないっていうか……こっちこそごめんね。私、実を言うとエンの言うことにあんまり真面目に取り合ってなかったからさ……」

「マスター。エンはアンドロイドであり、マスターの所有物です。謝罪は必要ありません」

「あ、はい」


 自分は謝るのに私には謝らせてくれないという……。

 SF作品においてはエンみたいに人間に近いアンドロイドは人権問題が付き纏ってくることが多いのだが、どうやら滅亡前の人類は、アンドロイドに人権を与えることはしなかったようだ。


「今後は認識の齟齬を考慮した上で発言を出力するよう対応を改善いたします。また、マスターに新たに知識を入力していただくことで情報の追加、修正が可能です。最適なサポートを行うため、不躾ながらどうかご協力をお願いいたします、マスター」

「うん。わかった。こっちこそよろしくね、エン」


 要するに、まだわからないことがいっぱいあるだろうから教えてねってことである。エンは本当に真面目なアンドロイドだ。

 それくらいなら是非もない。二つ返事で了承する。

 ……けどこのぶんだと、エンもトカゲがなぜあんなに巨大化したのかは知らないみたいだ。

 なにせ大きいのが普通だって思ってたくらいだし。

 私の中にある知識がいつ頃くらいのものかは、まだわからないけど……エンの言っていることが本当なら、記憶を失う前の私が生きた時代からエンが作られるまでの間に、トカゲと呼ばれる生物のほぼすべてが五メートル級の巨大生物に成長したということになる。

 それほどまでの生態系の変化、普通に考えて数十、数百、数千……あるいはもっと年月を経ないと、できるはずもない。

 ……いろいろと疑問点が残るけど、とりあえず、トカゲの他にもなんか変な進化してる生物がいる可能性も否めない。

 エンも言ってるように、今後は注意しておかないといけない。

 もうあんな目に遭うのはごめんである。


「……というか、エンに教えるのもいいけど、私もエンに教えてほしいこといっぱいあるんだよね」


 私がそう言って、ずいっと顔を寄せると、質問を待つようにエンが小首を傾げた。

 その仕草がなんとも可愛らしくて、気がつくと彼女の頭を撫でてしまっていた。

 エンは特に抵抗するでもなく、無表情でされるがままになっている。


「なにから聞くべきかな……」


 聞きたいことは、数え切れないほどある。

 戦闘用のアンドロイドのため知らないことが多いとさっきエンは言っていたが、少なくとも私よりは断然この世界について知っているはずだ。

 この世界とはすなわち、人類の文明が終末を迎えた、今の時代のこと。

 ――人類の文明の終末。

 ……それを思えば、まず初めに聞かなければいけないことは、決まっていたも同然だ。


「……ねえ。エンが言ってた、人類が滅亡してるって……本当なんだよね?」


 イエスかノーか。どちらかなんてわかりきっている。すでに私は一度、その答えを彼女から聞いているのだから。

 エンは私の予想通り、こくりと首を縦に振る。


「肯定します。エンが今まで観測した限り、もはやこの地上にマスター以外の人類は残存していません」

「……まあ、そうだよねぇ……」


 どうして人類が滅亡したのか。

 それを聞きたい気持ちもあったが……今はそれよりも、目の前の現実を受け入れることで手一杯だった。

 人類が滅亡してるなんて、もうとっくにわかっていたことではある。だけど改めてエンに言葉として突きつけられると、思っていたよりも衝撃が大きかった。

 これまではずっと話半分に受け入れていたから、なんてことないように振る舞うことができていたのだと理解する。

 ……私以外、誰も人間が生き残ってない……かぁ。

 ……あいにくと私には記憶がない。だから、ろくに感傷に浸ることもできない。

 愛してくれた両親がいた。仲がよかった友達がいた。

 それは確かな事実として知っているのに、しょせんそれは知っているだけ。

 その顔も、声も、交わした言葉も、私はなにも覚えていない。実感なんてなにもない。

 私自身のこともそうだ。

 私という人間にはなにか将来の夢があったのかもしれない。それに向かって努力だってしていたかもしれない。

 なりたいものが、やりたいことがあったのかもしれない。

 ……かもしれない。かもしれない。そんな推測でしか、私は過去の私を語れない。

 私は両親のことをどう思っていたのかな。友達のことを、どう思ってたのかな。

 私の夢って……なんだったんだっけ。

 なにも覚えてなんかいないのに、私はまるで物思いに耽るみたいに両の手のひらを地面につけて、星空を見上げた。

 ああ、本当に綺麗だ。

 人の営みが途絶えた希望のない世界を象徴する光だというのに、空の向こうで数多に光るそれらを、私はこの上なく美しく感じる。

 だとしたら、私の記憶のほとんどが破壊されてしまったことは、あるいは一つの幸運とも呼べるものだったのかもしれない。

 この絶望に満ちた世界で、悲しむこともなければ苦しむこともない。そういうものに私はなれたのだから。

 だからきっと、胸の内にぽっかりと穴が空いたようなこの虚しさは、気のせいだ。

 ……気のせいなんだよ。


「……マスター? どうかいたしましたか?」


 私から次の質問を待つばかりだったエンが、急に私の顔を覗き込んでくる。

 私の表情の機微でも読み取ったのだろうか。

 エンはアンドロイドだから、そういう微妙な変化が人間以上にわかるのだろう。


「平時と比べ、少し顔色が悪いようです。表情筋の動きにもぎこちなさが見受けられます」

「……それ、暗いからそう見えるだけじゃない?」

「エンは暗闇の中でも問題なく視覚情報を確保することが可能です。それにここは焚き火の前ですので、明るい方かと」

「ああ、うん。そうだったね」


 考えなしに返答しすぎた。そういえばエンには、スーパーで暗い中を探索してもらったばかりだった。

 上の空な私をエンは一層気にしたように、じっ、と見つめ始めた。

 たぶんエンは、トカゲの件で私を危険な目に合わせてしまったことを、彼女なりに気にしている。

 微妙な変化やすれ違い。そういったものが、後に大きなトラブルを引き寄せるという可能性を『学習』したのだ。

 様子がおかしい今の私をここで見逃してしまえば、また同じことの繰り返しになってしまうかもしれない。

 そう思って、エンは健気に私のことを気にかけてくれている。

 だけど今だけは、どうにもそれが煩わしく感じてしかたがなかった。


「……マスター。視覚の精度、並びに解像度を上げて再確認しましたが、やはり見間違いではないと進言します。体調が優れないのでしょうか?」

「……」

「今日一日の疲労の蓄積が原因である可能性もあります。マスター。症状の自覚がなくとも、念のため少し横になった方がよろしいかもしれません。そうすれば、きっと少しは回復を――」

「うるさい」


 ピタッ、とエンが動きを止めた。

 ――違う。こんなことを言いたいわけじゃない。

 心では確かにそう思っているはずなのに、どうしてか私の口は、それとは真逆の言葉を勝手に紡いでいた。


「どうせエンにはわかんないでしょ。私の気持ちなんて……感情なんかないアンドロイドなんだから」


 まるで鋭い刃物を突き刺すように。刺々しく、拒絶する言葉だった。

 そしてそれが自分の口から出てきた言葉だということに、心の中で愕然とする。

 エンはただ私を心配してくれただけだ。そんなエンに、私はなにを言っている?

 謝らなきゃ、と思った。早く撤回しなきゃ、否定しなきゃ。

 嘘だよ、本当はそんなこと思ってない、って。

 でもなぜか、思うように口が動いてくれない。

 ……違うか。

 思ったように動かないんじゃなくて、ただ単に、私が怖くて動かせなかっただけだ。

 心の中でいろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。まるで私の中に別の知らない私がいるみたいで、正しい判断ができずにいる。

 こんな状態でなにか口にしようとすれば、またエンを傷つける言葉を吐いてしまうかもしれない。

 そんな臆病な恐怖心から、エンに謝ろうとすることもせず、私は身勝手に口を閉ざしたのだ。

 ……ああ、もう。最低だな、私。

 がしがしと頭をかく。

 人は心に余裕がなくなると、誰かに優しくすることが難しくなる。

 大切なはずの人に、心にもない暴言を吐いてしまうようになる。

 大事なはずのものを乱雑に扱ってしまう。守りたかったはずのものを、自分から傷つけてしまう。

 どうして自分がこんな目に合わなきゃいけないのか。どうして自分だけが。

 そうやって、理不尽な怒りや憤りで自分のことしか考えられなくなって、段々と人への優しさを忘れてしまうんだ。

 でもそんなもの、下手な言い訳にもならない。

 私はただ、私の気を晴らすためにエンに当たり散らしただけだ。

 理由も出どころもわからない、正体不明の虚無感への苛立ちの矛先に、ちょうど近くにいたエンを据えたに過ぎない。

 そして今も、エンを傷つけるかもしれないことを言い訳に、エンと向き合うことから逃げている。

 どうしようもない……本当に最低だ。

 エンはただ顔色が悪い私を純粋に心配してくれただけだったのに、私ときたら……。


「……」

「……え……?


 せめて次に口を開く時にはエンに言葉の刃を向けることがないよう、瞼を閉じて必死に自分の心を鎮めようと努めていると、ふと、なにかが肩に触れる感触がした。

 驚いて横を見ると、エンが私に寄りかかってきていた。

 ピッタリと横にくっついて、離れようとしない。


「……エン……?」


 私が名前を呼ぶと、それに反応してエンは私を見上げる。

 けれど、その唇が動くことはなかった。じーっ、と私と上目遣いで見てくる以外、なにもしようとしない。


「……き、急にどうしたの? 私、エンに酷いこと言ったのに、なんでこんな……」


 質問を投げかけても、やはり彼女は口を開かない。

 いささかエンの言動が理解できず困惑する私だったが、はたと、さきほど「うるさい」と言ってしまったことを思い出す。


「だ、大丈夫。もうしゃべっていいよ、エン」


 どうやらあれを命令と認識してしまっていたようで、私がそう許可を出すと、彼女はようやく口を開いてくれた。


「申しわけありません、マスター……」

「え。い、いや、エンは悪くないっていうか……悪いのは全部私だし」

「それは違います、マスター。エンはマスターの肉体的な問題ばかりに注視し、精神面への配慮の一切が欠如していました。それはエンの性能が及ばなかったゆえのものです。誠に申しわけありません、マスター」


 彼女はまた謝罪をした。なんにも悪くなんてはずなのに、頭を下げる。

 謝らなきゃいけないのは私のはずだ。なのにエンは、まるで自分が悪いみたいに……。

 本当に、アンドロイドに人権なんてものはないらしい。

 なにをされても、どんな目に遭っても、きっとエンは自分が悪いと言うに違いない。


「マスターのおっしゃった通り、エンには感情がありません。心と呼ばれるものに関しては、どれだけ学習を重ねても完璧な対応は難しいでしょう。このような出来損ないのアンドロイドでは、マスターに愛想をつかされてもしかたがありません」

「……それは、違う。エンほど完璧なアンドロイドなんていないよ」


 性能云々ではない。

 ただただ人に尽くす。そういうアンドロイドとして、彼女は完成されている。

 だけどエンは、ふるふると首を横に振って私の言葉を否定する。


「マスター、エンはエンを正しく認識しています。エンは現状においてマスターに多大なる迷惑をおかけしており、おそらくそれは今後も続きます……求められるがままの結果を出せないエンは、きっと、マスターの所有物としてふさわしくないのでしょう」


 淡々と、彼女は自分を卑下する。

 主人に一切の不満を抱かせず、主人の肉体的、精神的な負担をすべて察知し、あらゆる要求を速やかに、忠実に遂行する。

 おそらくそれこそが、エンが思い描く理想のアンドロイド像だ。

 でもそんなこと、エン以外のどんなアンドロイドにだってできるはずがない。完璧なものなんて、この世界には一つとして存在しないのだから。


「……なら、どうして? ふさわしくないって思うなら……どうしてまだ、私のそばにいてくれるの?」


 私は一度、うるさい、とエンを拒絶した。彼女の理論で言うのなら、私の意思を汲み取って、私から離れるべきであるはずだ。

 それなのにエンは今も変わらず、私の隣に寄り添ってくれている。

 それはいったい、どうしてなのか。


「……マスターがおっしゃった通り、エンには感情がありません。そしてそれゆえに、離れるべきかどうか正しい判断がつけられませんでした」

「それって……エンの中にはこんな風に私のそばに残る選択肢があったってこと?」

「はい。『隣にいてほしい』、と。少し前に、マスターはそう言ってくださいましたから」

「あ……」


 最初に焚き火を前にした時、確かに私はエンにそう言った。

 自分だけ座ってるのもなんだか居心地が悪いので、命令でエンを隣に座らせたのだ。

 ここでエンは、少し自信がなさそうに顔を伏せる。


「……申しわけありません。黙するよう言いつけられたため、マスターの隣にいるべきか、離れるべきかの確認を行うことができず、エンが独断で判断いたしました」

「独断……エンの意思で?」

「はい。エンは至らぬ部分が多く、マスターの所有物としてはふさわしくありません。しかしこんなエンでも……マスターが望んでくださるのなら、いつまでもおそばにいます」

「……」

「……お気にさわりましたか? もしそうなら、エンはマスターの意に沿って、今すぐにでも離れ――」


 気がついた時には、立ち上がろうとしたエンを引き止めるように彼女の手を握っていた。

 エンは言葉を止めて、不思議そうに目をパチパチとさせて私を見上げてくる。

 私にもその時、なぜ自分がそんなことをしてしまったのか、よくわからなかった。

 自分の心なんてものは、ともすれば自分が一番わからなかったりもする。

 ……ただ、なんとなく。

 寄り添うか、離れるか。その二つの選択肢の中から、エンは誰も命令されるでもなく、自ら寄り添うことを選んでくれた。

 そう思った途端、ぽっかりと穴が空いたようだった胸の内になにか温かな感情が溢れてきて、急に泣きそうになってしまったのだ。

 さすがに本当に泣くことは、恥ずかしくて我慢したけど。

 ……でも……。


「……ごめんね、エン。ひどいこと言って……本当にごめん」


 今度は私の方から、エンの方に体を寄り添わせた。

 エンは目をパチパチとさせながらも、私の意向を汲み取ってくれたようで、離れようとすることをやめる。


「マスター……? 何度も言うようですが、エンはアンドロイドです。謝罪は」

「私が謝りたいだけだからいいの。エンはただ、素直に受け取って」


 そう言うと、エンにしては珍しく、対応に困った様子だった。

 だけど謝るだけじゃ足りない。まだ彼女には、伝えたい言葉がある。


「それから、もう一個。そばにいるって言ってくれて、ありがとね。エン」

「マスター。お」

「お礼も必要ありませんっていうのもなしね。これ、命令だから」

「む……むぅ…………しかし……」


 アンドロイドに人権なんてものがないとすれば、こんな回答は想定外のものなのかもしれない。

 ずっと鉄面皮だったエンの困り果てた様子は、そのちんまりとした見た目も相まって非常に愛らしく、ついつい頭を撫でてしまっていた。

 この頃にはもう、胸の内にあった虚しさは完全に消えていた。


「ああ、そっか。私、寂しかったんだなぁ」

「寂しい、ですか?」

「うん。いい? エン。人間とウサギはね、寂しいと死んじゃう生き物なんだよ」

「なるほど……そうなのですね。新たな知識を獲得。エンは一つ賢くなりました」


 エンは大真面目に頷いて、情報を蓄積している。

 それがなんだかおかしくて、くすりと笑みがこぼれた。


「エンは自分から私の隣にいる選択をしてくれた。それが私は嬉しかった。だから私、寂しくなくなったんだよ」

「……それは、エンがマスターのお役に立てたということでよろしいのでしょうか」

「うん。心から、エンがいてくれてよかったって思えた。エンに出会えてよかった、って。ふふ。エン以外だったら、こんな気持ちにはなれなかったかもね」


 こんなセリフを口にするのはこっ恥ずかしくてしかたがなかったが、エンは見ての通り真面目なアンドロイドなので、きっとこういうことは正面から言わないと伝わらない。

 エンは私の言葉に、最初はなんの反応も示さなかった。

 けれど、ふと。ほんの一瞬、ほんのわずかだけれど、彼女の頬に笑みが浮かんだような気がした。

 見間違いかもしれない。いや、たぶんその可能性の方が高いだろう。

 でも、たとえ幻かもしれなくとも。

 一瞬垣間見えたその微笑みは、見惚れるくらいに美しく――。

 私にはまるで彼女が、本物の天使のように見えたのだった。

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