9.謎の生命体G

 結果がどうあれ、エンに水切りを経験させてあげられたのはよかったが、服が濡れてしまったのが少々まずかった。

 外の風が肌寒く、ぶるりと体が震える。

 水気を含んだ布地が肌に張りついて、少し気持ち悪い。

 そもそも私は今、インナーの上に外套一枚というかなりの薄着だ。そこに冷たい川水が加われば、そりゃあ寒気も感じるってもんである。

 病院も薬局も年中無休ならぬ年中有休なこの世界で風邪を引いてしまうのは、非常によろしくない。

 すでにエンが飲んで川水は回収できたことだし、とりあえず風を凌げるところに場所を移動したかったので、川から離れて近くの廃墟に移動する。

 植物が絡みつき、建物に多少罅は入っているが、倒壊する危険はなさそうな民家だ。無論、民家の頭には元とつくけれど。

 干すために外套を外で適当な棒に吊り下げた後は、少しでも体を温めるために屋内に入り、部屋の隅で縮こまって外套が乾くのを待つ。


「本当に申しわけありません……マスター……」

「あはは……大丈夫だから。そんなに気に病まないでってば、エン」


 私を濡らしてしまったことでさきほどからしょんぼりしっぱなしなエンの頭を、私は幾度となくよしよしと撫でてとにかく励ます。

 だけど残念ながらあんまり効果はないみたいで、私の隣で体育座りをしているエンは、あいかわらずしょぼぼーんとしている。


「しかし……元はと言えばエンが水切りを失敗したせいで……」

「元はと言えば、なんて言い出したら水切りをやろうって言い出したのは私だよ。エンはただ全力で私の期待に応えようとしてくれただけなんだから悪くないって……」

「しかし……エンはマスターの状態の変化に気づけませんでした。エンはまた、マスターにご迷惑を……」


 エンはアンドロイドなので暑さも寒さもへっちゃらだ。病気の概念もない。

 だから最初こそ、エンは私の服が濡れて私が寒いと感じていることに気がついていなかった。

 ……というか、できる限りエンに心配をかけたくなくて、私がわざと平気そうなていを装っていた。

 それで、少し疲れたから休憩しようという感じに適当な廃墟に向かって移動していたのだが……ふとした拍子にくしゃみをしてしまったことで、ハッとしたエンに、このようにずいぶん気に病ませてしまったというわけだ。


「エンに気負わせないよう変に黙ってた私が悪いんだよ。もし言ってたら、エンはすぐに対応してくれたでしょ?」

「それは、必ず」

「ならそれでいいんだよ。エンに心配をかけさせたくないと思ってたけど……余計心配させる行動を取っちゃった私が悪い。それだけなんだから」

「しかし……」

「あーもう、しかしもなにもなーい! そうやってエンが私のこと考えてくれるだけで私は嬉しいし、今回の件は私が悪い! それで終わり! いいっ?」

「し、しかし」

「これは命令です!」

「む、むぅ……」


 察するに、エンの価値観において命令というものは絶対だ。

 だからこう言ってしまえば、きっとエンは納得せざるを得なくなる。

 ちょっと強引だけど、これくらいしないとエンは引いてくれないので、きっとこれくらいがちょうどいい。

 エンはなにか抗議したそうに口を開くものの、命令されたからか、直前で踏みとどまった。

 そして何度か唇を震わせて散々逡巡したのち、渋々と言った感じに口を閉じる。

 私の思惑通り一応は納得してくれたみたいだが、その様相には「私、不満です!」と言った内心がありありと浮き出ていた。

 そんなエンのどことなく子どもっぽい反応に苦笑しながら、私は再びよしよしと彼女の頭を撫でた。


「……この家のどっかに、ちょうどよさそうな服とか残ってないかなぁ」


 乾かすために外套を脱いでいる関係で、今は最初から着ていたインナースーツくらいしか身に纏っていない。

 ここは建物の中だからまだいいが、こんな格好では外なんか肌寒くて出歩けたものではない。

 元々まともな服が欲しいと思っていたし、外套が乾くまでの間にこの家の中を探索してみるのもいいかもしれない。


「エン。ちょっと手分けして押入れとかタンスとか漁ってみたいんだけど、手伝ってもらってもいいかな。それでもし私が着れそうな服とか役に立ちそうなものとかあったら教えてくれる?」

「了解しました」


 汚名返上の機会の到来と捉えたのか、びしっ! と気合いじゅうぶんな様子だ。その割に表情や声音は平時と変わらないものだから、なんだかちょっとへんてこだ。

 ついくすりと笑ってしまいつつ、二人で手分けをしての探索を開始する。

 私がこの時代で最初に目覚めた地下室があった日本家屋には、なにやら家探しをされていたような跡があった。

 いかにもお金持ちって感じの伝統のありそうな広い屋敷だったし、人類滅亡の危機みたいな大事件の真っ只中ともなれば、そういう火事場泥棒的なことをしでかす輩がいてもなんら不思議はない。

 幸いなのは、私が眠っていた地下室がその火事場泥棒に見つかった形跡がなかったことだ。

 地下室への入り口は隠し部屋みたいに畳の下に隠されていたから、きっとそのおかげだ。

 もし見つかっていたら、今みたいにこの時代まで無事にコールドスリープできなかっただろう。

 もっとも、そもそもなんで私だけがコールドスリープさせられてたのかがわかってないけど……記憶が戻ったらわかるのかな?

 うーん……まぁ、今はそんなこと気にしてもしかたないか。私以外の人類が全員滅んだ今、わかったところで結局どうしようもないんだし。

 閑話休題。あの日本家屋と違って、この民家は家探しされた様子はなく、多くの物が残されていた。

 人類滅亡から一〇〇年が経っているだけあって劣化が著しいが、中にはその劣化がそこまでひどくない衣服もそこそこ見つけられた。

 とは言え長い間放置されていた影響で、やはりカビの付着などの汚れがひどい。

 着れないこともないが、無理に着て変な病気にでもかかってしまったら大問題だ。

 あの日本家屋で見つけた、今は外に干してある外套もそういう汚れが多少はついてたけど、まだ許容できる範囲だった。


「外套が乾いたら、あとでまた川に戻って洗って、乾かして……使えるとしたらそれからかな」


 そうと決まれば何着か持っていこう。元現代人として、同じ服を洗わずに毎日着るのは抵抗がある。

 大荷物になるのは問題なので、せいぜい数着程度になってしまうけれども、そこはしかたがない。


「あとはとりあえず入れ物かなー。服を入れるのもそうだけど、それ以外にも持ち歩かなきゃいけないものも増えてくるだろうし。鞄……よりはリュックサックの方がいいか。たくさん入るし、両手が空いてた方が便利だしね」


 ガサゴソと押入れの奥の方を漁る。

 初日こそこういう家探し行為には少々後ろめたさを感じていたが、今はもうそんな気持ちはこれっぽっちもない。

 そもそも、人類が滅んでいるのならどっちにしたって関係ないのだし。

 どうせ誰にも使われず朽ちていくだけなら、せめて完全に使えなくなる前に私が有効活用する所存だ。


「お、あったあった」


 そこそこのサイズのリュックサックが最奥に眠っていた。

 やはり多少埃をかぶってはいるが、幸いなことにそれ以外の汚れはほとんど見受けられない。そのまま使うことができそうだ。

 使われた形跡もあまりなく、汚れを除けば状態そのものは新品も同然に見える。修学旅行で一度きり使ったとか、そのレベルだ。

 早速とばかりにショルダーベルトに手を通してみる。


「よしよし、良い軽さだね」


 これなら私の貧弱な体力でも持ち歩けそうだ。

 まぁ、まだなんにも入ってないんだから軽いのは当然なんだけど。

 問題なく使えそうなので、一度下ろして、さきほど見つけた衣服の中から汚れが比較的マシな物を何着か拝借し、リュックサックの中に詰めていく。

 ついでにちょっと背負い方が不安定だったので、ショルダーベルトの長さを適当に調整しておく。

 もう一度背負ってみれば、調整の甲斐あって今度はしっくりきた。


「後はもう特にめぼしいものはないかなー……エンの方はどうなってるんだろ」


 もしかしたらなにか見つけてくれているかもしれない。

 善は急げということで、一度エンと合流すべく二階へ向かうことにした。


「っとと、忘れてた」


 部屋を出て階段の方へ向かおうとしたところで、押入れのふすまを閉じ忘れていたことを思い出して引き返す。

 別に誰も住んでいないのだからそのままにしておいてもいいと言えばいいんだけど……なんかこういうのって気にならない?

 私は気になる!

 というわけで、ふすまの前に戻ってきた私は、早速それに手をかけてスーッと閉じる。

 些細なことだが、かすかにかかっていた心の靄が晴れたような気がして、私は機嫌よく頬を緩ませた。


「……ん?」


 さあ今度こそ合流だ! と部屋を立ち去ろうとして……不意に視界の端を小さな黒い影がよぎって、私はピタリと足を止めた。

 それはどうやら私がふすまを閉じる寸前に、その中から這い出てきたもののようだった。

 ……な、なんか嫌な予感がする……。

 ギギギ、とぎこちなく首を動かして、その小さな黒い影に目の焦点を合わせる。

 ……それは二億年以上前から存在していたとされる、伝統ある最古の昆虫だった。

 黒光りする不気味な体。見ていると鳥肌が立ってくるような、細かい毛がいくつも生えた腕と足。不気味な触覚に、飛行にはあまり適していないだろう閉じた翅。

 地上を移動する際の擬音には、カサカサという表現がどんな生き物よりも似合いそうな見た目をしている。

 ……いや、訂正しよう。今私の視線の先にいるそいつの足音は、カサカサなんて軽い音じゃ収まりそうもなかった。

 その昆虫は私の知識ではせいぜいが全長四センチメートルという程度だったが、今ここにいるのはその五倍ほどの大きさの、およそニ〇センチメートル。

 ここまで来ると、もはやカサカサよりガサガサと表現した方がよさそうだった。


「……」


 ……その昆虫を刺激しないよう、口に手を当てて声を抑え、足音を立てたり床に振動を与えたりしないよう、少しずつ後ずさる。

 決して視線は外さないようその昆虫に固定して、恐怖で震えそうになる体を必死に制御して、あくまでゆっくりと後ろに下がる。

 …………ピクッ。


「ひっ」


 ヤツが一瞬動いたせいで跳ねかけた体を、全力で自制した。

 た、耐えろ私、耐えるんだ……! 一気に動いちゃいけない……。

 大丈夫……行ける……頑張れ、頑張れ私!

 ……よし……。

 あと、三歩……ニ歩……そこまで行ったら一気に扉を閉めて、階段に――と、思ったところで。

 一瞬安心した隙を突くかのように、ヤツが突如として突進してくる!


「ひ――ひゃぁあああああっ!?」


 ガサガサガサガサガサガサッ!

 迫りくる黒光りする昆虫――通称ゴキブリを前に、私は一目散に逃げ出した。

 後ろを振り返ることなく全速力で階段を駆け上がると、まるで華麗なドリブルで敵を躱すプロサッカー選手のようにすでに開いていた扉の中へ一瞬の判断で駆け込み、光の速さで扉を閉める。

 そしてクローゼットの前で驚いたように目を見開いているエンを見つけると、恥も外聞も捨てて自分より小さい彼女に情けなく飛びついた。


「た、たたた、助けてエンーっ!!」

「マ、マスターっ? ど、どうかいたしましたか?」

「ごごごごごき、ごっ、ごき、ゴキブリぃっ! すっごいでかいゴキブリが追ってきてるのぉっ!」


 エンにしがみついてプルプルと震えたまま、指で後ろを指差す。

 エンは私が指差した方向を確認し、困惑するように小首を傾げた。


「なにもいませんが……」

「そんなはず……! ……あ、いや……うん、まあ、そっか……」


 あまりに衝撃的すぎる出会いのせいで冷静さを見失ってしまっていたが、私は後ろも振り返らずに階段を駆けのぼってきた。加えて扉も閉めている。

 あのゴキブリが私だけを狙って追いかけでもしてきていない限り、ここまで入ってきているはずもなかった。

 そんな当たり前のことに気がついただけで、切羽詰まっていた心が一気に弛緩して、ほっと息が漏れた。


「……あっ。ご、ごめんエン。急に引っついたりして……」


 パッと離れて頭を下げると、エンはふるふると首を横に振る。


「問題ありません。エンはマスターの所有物です。マスターには、エンの体を好きに使う権利があります」

「う、うん。そう言ってくれるのは嬉しいけど……」


 ちょっとその、言い方が……。

 エンはアンドロイドではあるが、その容姿は決して機械的なものではなく、人間の女の子と変わらない。

 それもただの女の子ではなく、滅茶苦茶可愛いという注釈がつく。

 そんなエンに自分の体を好きに使っていいなんて言われるのはなかなかに犯罪チックで……思わず、ゴクリと生唾を飲み込んでしまう。

 い、いや、もちろん本人の許可もなくエッチなこととか絶対しないけどねっ?

 あ、本人の許可は出てるんだった……ってそういう問題じゃなくて!

 そもそも体を好きに使う云々って、エン的には浄水機能とかそういうアンドロイドとしての機能を好きに使っていいって意味なんだろうし!

 とにかく! 私はエンの教育に悪いことはいたしません!


「……マスター? 体温と心拍数の上昇が見受けられます。どうかいたしましたか……?」

「な、なんでもないなんでもないっ! なんでもないから大丈夫!」


 そう、なんでもない。

 別にエンのえっちな姿をつい妄想してしまってドキドキとかしていないのである……!


「しかし……」

「なんでもないんだって! そ、それよりどうしよう。私もう下に降りたくないんだけど……」


 心配してくれるエンにちょっと悪い気はしたが、体温や心拍数の上昇の理由なんて正直に話せるはずもない。強引に話題を変える。

 階段の下では、まだあの巨大ゴキブリがその辺を徘徊しているだろう。

 また鉢合わせしてしまう可能性を考えると、もう一度下に降りる気分にはなれなかった。


「……では、エンがマスターを抱えて、この二階の窓から飛び降りるのはいかがでしょうか? その後、玄関に置いてあるマスターの靴はエンが回収します」

「い、いいの? そんな至れり尽くせりで……」


 至れり尽くせりは今更だけど……私たぶんエンがいないと生きていけないし。


「エンはアンドロイドですから。マスターに尽くすのは当然です」

「……そっか。ありがとね、エン」

「お礼は……いえ。なんでもありません」


 お礼は必要ありません、と言いたかったのだろう。

 だけど、それを言うことを昨日私が禁止したものだから、彼女は律儀にそれを守ってくれている。

 少し困ったように頭を振ったエンに、私は一つ新しい知識を教えてあげることにした。


「あのね、エン。こういう時は、どういたしまして、って言うんだよ」

「どういたしまして……?」

「そうそう。誰かにお礼を言われた時、そうやって返してあげると、相手も嬉しくなるものなんだよ」

「嬉しい……? ……なるほど。では、マスター」

「んー?」

「どういたしまして……です」


 早速活用してくれたことが嬉しくて、くすりと笑みがこぼれる。

 そんな私を見て、いつも無表情なエンの口元も、少しだけ緩んでくれたような気がした。

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