第一章 玄武編

第1話 日常

 二月十四日。

 世界は何もなかったかのように回っている。ただ一人、少女以外は。

 朝、自室で目が覚めた少女は昨日のことを思い出していた。

 突然現れた先輩と死。そして、受け継いだ力とその意味。けれど、壁にかけられている制服を見ると、血で赤く染まっていたはずなのに、その様な汚れは一切見られなかった。

 だから、最初は悪い夢だと思った。昨日はチョコを買って、家に帰って、いつも通りの生活であったと。

 しかし、それを否定するように頭の中に存在する不可思議な力とその使用方法。それが夢ではなく、現実であったと理解させていた。



 自室を出て、リビングへと向かうと母親のみがいた。普段なら、父親が新聞でも読みながら待っているはずなのに。朝食も三人分ではなく、二人分しか用意はされていなかった。

「おはよう。今日は起こす前にちゃんと起きたね。えらいえらい」

「おはよ。私だって高校生なんだし、一人で起きることくらいできるよーだ」

「そうなの?じゃぁ、明日からもお願いね?」

「え?あ、うん……」

 本当は今日はたまたまであり、毎日は無理だと少女は思っていた。けれども、前の一言が肯定以外の返答をなくしてしまっていた。

 そんな他愛ない日常そのものの会話をしている内に母親は食卓についてしまった。

 いつもの家族三人揃っての食事。それが一人抜けているだけで、それが少女には非日常に思えてしまった。そして、その事が昨日の非日常を強く思い出させた。

「あの、お父さんは?」

「今朝早くに会社から連絡があって慌てて飛び出していっちゃった。何か大きなトラブルでもあったのかしらね」

 母親はいつも通りに返してきた。だから、まぁ、そんな日もあるのかな、と少女は思い、それ以上は父親については聞かなかった。


 そして、朝食の最中ずっと、少女は気になっていたことを尋ねようとしていた。

 それは、昨夜のことだ。先輩の血で染まっていたはずの制服。それが起きた時には綺麗になっていた。少女には帰宅した時の記憶がない。それどころか、先輩から力を受け継いだ以降の記憶が全くなかった。

 普通ならば、母親は何かを聞いてくるはず。心配をされてもおかしくないはず。にも拘わらず、普段通りなのが昨日何があったのかを聞くことを躊躇わせていた。

「あの、お母さん……?」

「何?」

「その、私、あまり覚えていないんだけど、昨日って……」

 しかし、朝食を終える頃、意を決して口を開いた。母親の反応は最初は普通だった。それが、昨日、と言った瞬間に空気が変わった。

 それは、娘を心配して、と言うものではない。そんな優しいものではなく、厳しい、少女が経験をしたことのない程の緊迫したものだ。それ故、少女はただ黙ることしかできなかった。

 そして、そんな空気に耐えられなくなった少女は

「ごちそうさま」

 と言い、自室へと戻ろうと立ち上がった。その時、母親が口を開いた。

「昨日のことは忘れなさい。何もなかった。今まで通り、普通の生活を送るの。分かった?」

 少女はその場の空気に押され、ゆっくりと頷いた。すると、空気は一気に弛緩し、母親もいつも通りの優しい表情へと戻っていった。まるで、さっきまでの空気が嘘であるかのように。


 先程の母親の様子が気になりつつも、少女は学校へと向かう支度を始めた。それは言われた通りに、今まで通りの生活を送るためではない。それが今までの生活のルーティンであるが故、無意識の行動であった。

 昨日の事が嘘のような綺麗な制服に袖を通し、鞄を持って家を出ようとする。

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

 その時、普段は言われないような母親の言葉に一瞬、戸惑うも「行ってきます」そう返し、いつもの道を通って学校へと向かった。

 それを見送った後、母親は小さく呟いた。

「何で、あの子が……」

 その場に崩れ落ちると、声には出さず、しかし、はっきりとこう言った。


「……上書リライト




 学校へ向かう途中、少女は突然頭の中に何かが入ってきたのを感じた。それは、自らの一部となった。最初から自分の中にあったかの様に自然に。

 それは、昨日の記憶。学校の帰りに寄り道をして、を購入した記憶。

 けれども、同時に先輩と会った、あの不思議な記憶も確かにあった。だから、確かめようと鞄の中を見てみると、そこには買ったはずのない自分で買ったチョコレートが入っていた。

「これは、どういうことなの?」

 少女は訳も分からず、その場に立ち尽くしてしまった。

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