第18話

幼い2人が互いの身をくっつけ、恐る恐る斜面を下って行く。自分達の先には普段の流れとは違う勢いで水を走らせる川の水。ただ斜面側、脇の方は流れが奥より早くはないように見えた。それでも危険な事に変わりはない。

「川にだけは近寄っちゃあ駄目だからね。」

祖母の優しいながらも気持ちのこもった忠告が頭をよぎった。俺は足を止めた。


「しんじくん?」

「あのさ‥やっぱりやめない?あぶないし。」

「でも‥」

しかしその優里の悲しさをそのまま表現した表情に、俺はこれ以上の静止はやめようと思ってしまった。優里は本気で取り戻したかったのだろう。その俺の絵に対する気持ちが何よりも嬉しいし、この時ばかりは何とかしてやろうと思う気持ちが強かった。幼い俺たちには危険回避の思考より、目の前の絵の救出への想いが強く、引き返す判断の選択はしなかった。結局また、ゆっくりと斜面を下り、枝に引っかかる絵の救出へと向かった。

あと5メートルの距離まで近付いてきた。俺は優里の腕を掴む手を少し強めた。ちょっと顔を上げると流れる川が目に入る。近付けば近付くほど、その流れは恐怖を増させた。思ったより速い。でも手前は奥より速くはない。大丈夫。きっと大丈夫だと言い聞かせていた。優里の足取りもますます慎重に感じた。


「もうちょっとだよ!」

振り返る優里の笑顔に力強く頷いた。そしてついに優里が枝に引っかかる絵に手を懸命に伸ばし、俺はしっかりと優里支えた。

「やった!しんじくーん!とれたよほら!」と無邪気な笑顔で振り返る優里を見て、一安心した自分がいた。優里の心に刺さった俺がプレゼントした絵を失くさずに済んだ、という後悔の念が綺麗に取り払われていくのが目に見えたからだ。


「よかったー。ほんとによかったよー。」

優里は何度もそう言った。そして優里から絵を受け取り、今度は俺が先頭になり、斜面を登る事になる。見上げると、思いのほか急だ。だけど途中途中に掴める木々があり、正直道のりとしては案外大丈夫そうだった。

「あーちょっとやすむ。」と優里が枝を掴み、身体を先程の木の隣の木に預けた。俺も足に疲れを感じていたので賛成した。俺が体を預ける木の後ろに優里がいる状況だ。2人共、顔は見れないまま話をした。俺が描いた絵は優里にとって本当に嬉しかったようで、顔見えなくても声でそれは判断できた。優里の話を聞きながら、俺は少し顔を上げて、これから登るべき斜面を見た。これは行きの下りより息が上がりそうだ。そう思いながらも優里の話に返事をした。


「しんじくんは‥ずっとこっちにいるんだよね?」

「え?」

突然の質問に身体が少し硬直した。

「もちろん!」と返事がすぐに出なかったのは母の状況がすぐに頭に浮かんだからだった。母はここから出て行く、なんとなくそれに気付いていたから余計だった。俺は、ここに残りたい。できれば両親と一緒に。そう思いながらもそれが難しい事に気付いていた。


「いるよ。」

「ほんと?よかったあ!ずっとみんなとなかよくできたらいいなあって。」

優里の願い通りになるには、俺がこの先どう決断するかにかかってくる。ただ幼い俺には荷が重い選択だ。両親どちらかを選ぶ、そんな事はしたくなかった。

「よし、いこっか!」

明るく振る舞い背もたれの木から体を離した時だった。

バキバキ。

まさにそんな音がすぐ近くで聞こえた。とっさに手を広げて背中から強く後ろの木にもたれかかった。

自分の木の枝か何かが俺地に違いないとすぐさま上を見た。しかし代わり映えない姿がそこにある。後ろの幹は太い。こうやって俺の体を支えている。そんな脳内でのやり取りが瞬時に行われていた。

ドボン。

そんな音が少し後ろから聞こえてきた。俺はこれが意味する事を理解したのは、脳内に現れた最悪の考えを強引に引き出し最前へと引っ張り込んだ時だった。

勢い良く体を反転させ後ろを見た。後ろには笑顔のまま話を続ける優里が一瞬見えたように思えたが、それは俺がそうであってほしいと願ったものが創り出した一瞬のイメージだった。

優里がいない。

バキバキ、ドボン。この音から連想される事は今自分がいる環境では一つしか考えられなかった。


「ゆりちゃん!」

叫ぶ声も川の音には及ばず、姿が見えない優里に届くのか難しいほどだった。俺は慌てて木々に手を付きながら移動し、水面のすぐ近くまで来た。右を見て優里の姿を探すが見当たらない。それでも優里の名前を叫びながら川の先を見渡し姿を探した。手前の流れは速くない。この流れに沿っていてほしい、と願いつつ手前の流れを目で追った。しかしあるのは流れを止めない川の水、それ以外見えない。そう思った時、俺の目は100メートル先の光景を捉えた。

水面に向かって頭を下げるようにしている木の枝に両手で捕まる小さな体を見つけた。なんとか捕まるも体は先に流されそうな優里の姿があった。


「しんじくん‥」

かすかに耳に届いた優里の声は、先ほどまでの明るさは無く、怖さとパニックに染まった弱々しい声だった。

慌てて木々を伝いながら優里の元へと急いだ。自分も落ちては助けられない。木々にしっかり手を付けながら移動した。近くにつれ、水面に向かって頭を下げているあの木が無ければ優里の姿はもう見れなかったと、改めて恐怖した。


「しんじくん‥たすけて。」

「なにかつかまるもの!それでひっぱるから!」

辺りを見渡し長くて丈夫な物、優里を助けられる物を探したが見当たらない。焦りが自分の思考を乱す。目に映るものは頼り甲斐のない枝や葉ばかり。しかしそこに少し太くて長い枝を見つけた。で拾い上げ、水面へと更に近づく。優里の元へその枝を伸ばした。優里がなんとか片手でそれに捕まる。軽く引っ張ってみるとなかなか丈夫そうに感じた。

「ゆりちゃんひだりても!」

「うん‥!」

優里が両手でしっかり掴み、俺が引く。これなら大丈夫。俺は体重を後ろにかけながらゆっくり引いていく。もう少し、もう少しと慎重に慎重に下がって行く。しかしまたしても、今は本当に聞きたくない音が響いた。

バキ。


俺は後ろに倒れて尻もちをついた。それと同時に恐怖が上から覆いかぶさってきた。そして体を起こした時には優里の姿は目の前には無かった。


「しんじくん!」

すぐさま首を捻り右を向くと水面へと陸から伸びる草に捕まる優里がいた。とっさに掴んだのだろう。俺は心の底からホッとした。しかしまだ呑気にしている場合ではないと自分に言い聞かせ、再び方法を考えた。だが先ほどの失敗が頭を支配しますます思考回路が狭まるっていく。そんな俺を優里は見つめている。優里の目をじっと見た後、俺は体を反転させた。


「しんじくん‥?」

「たすけをよんでくる!だれかおとなのひと!」

それしか考えられなかった。幼い俺には救えない。大人の力を借りるしかないと判断した。

「ひとりこわいよ!しんじくん‥」

「すぐくるから!まってて!」

俺は急ぎながらも慎重に斜面を登った。後ろから優里の恐怖と哀しさが混じった視線を感じつつ、俺はなんとか登りきり辺りを見渡した。こんな時に限って姿が見当たらない。橋の方へと目を凝らしたが走る車しか視界に入らない。絶望感という行き詰まりが俺の周りを取り囲んだ。その時だった。

「あ!」

急いで拾い上げたのは工事などで使うコーンとコーンを繋げ、仕切りの役目にもなる黄色と黒の縞模様のバーだった。近くにはコーンも倒れている。もうこれしかないと思い、再び斜面を慎重に下りた。足元に集中して片手は木を伝い、片手にはバーをしっかり握りしめ、優里の元へと急いだ。下りきり、足元から前へと顔を上げた。


「え‥」

優里はいなかった。優里が掴んでいた草は川の流れに沿ってゆらゆら動いていた。思わずバーを落としてしまった。俺が近くにいれば、この近くで方法を探していれば、こうはならなかったかもしれない。俺は呆然と川を眺めるしかなかった。

ゆっくり右を見ても優里の姿は無い。このまま消えてしまいたいほど、どうしていいのかわからないでいた。すると右耳に、やや遠くから男の人の声が入ってきた。大人の声だった。


「大丈夫か!おい、救急車呼べ早く!」

俺は再び斜面を登り、声の方へと走った。土手道に出ると、下の水面の方から声が聞こえた。誰かがいる。すると下から男の人が斜面を登ってくる。背中にいるのは、優里だった。


「ゆりちゃん!」

俺は思わず叫んだ優里の姿が再び見れたのと、大人の人が優里を助けてくれた事の嬉しさが溢れんばかりに飛び出した。

「君はお友達?」

息を切らしながら男の人が言った。はいと答えると女性の人が走ってきた。この人の奥さんだろうか。

「その子は?」

「駄目だ意識が無い。救急車は?」

「すぐ来るみたい!」

俺は幼いながらもこのやり取りから優里が大変な状況から脱していない事に気付いた。何故なら優里が目を開けていないからだ。


「この子、その下の水の中の岩に引っかかるようにいたんだよ。君はこの子といたの?」

「あの‥かいた絵をあげて、かぜでとんじゃって、ふたりでとりにいって‥そしたら‥ごめんなさい‥おとなのひとみつからなくて‥」

俺はもう耐えきれなかった。込み上げてくるのではなく、溢れ出した。それも徐々にではなく、勢い良く溢れ出した。男の人と女の人は俺をなだめるようにしてくれた。やがて遠くからサイレンが聞こえてくる。優里は意識こそ無いが、体は少し動いている。しかし深刻な状態である事は一目瞭然だった。やがて人だかりは増えていき、ますます俺は怖くなった。救急隊が到着し、速やかに優里を担架に乗せた。声を振り絞り優里の名前を教えた。そして事情は男の人が説明してくれた。

俺は気付くと人だかりの外にいた。付き添いとして男の人と女の人が救急車に乗ったのだが、俺は何も優里に声をかけられなかった。


サイレンを鳴らしながら救急車は走り去り、やがてざわざわしていた人だかりもその場を徐々に去っていく。

「うちの子にも注意しとかなくちゃ。」

そんな声がちらほら聞こえてくる。俺は再び泣きながら走り出した。人だかりの横を全速力で駆け抜けた。息切れなど関係ない。涙が止まるまで走りたかった。祖父母の家へと繋がる坂道の手前で力尽き、膝に手を当てた。家に入る前に泣き顔を戻さなくては、そんな考えがあった。両親、祖父母に気付かれてはいけないと、表情をなんとか戻すように努めた。何度も目を拭い、顔を上げると同時に、自分の表情がいつも通りだとわかった。

俺は隠す事にしていたのだ。本当なら正直に言うべきだった。今でもそれは罪に思う。最低であり、最悪の決断だ。


家に入ると居間に両親、祖父母がいた。一同がこちらを見た。鼓動が高鳴り、表情を崩さずなんとか保った。よく見ると、両親と祖父母の方が悲しそうな顔をしていた。俺は思わず言葉を発する。

「どうしたの?」

全員が下を向き、しばらく沈黙が続くなか、父が静かに口を開いた。


「ママな、東京に帰るんだ。」

「え‥。」

母は申し訳なさそうに下を向き、少し俺を見た。

「パパとママは、別々に暮らすんだ。真司は‥ここにいるか?それとも、ママと一瞬に東京に行くか?」

すぐに返事ができるはずなんてなかった。なんとなく察していた事が、こうも早く確信に変わるなんて思っていなかった。今日1日で何故こんな目にあうのか、神様には是非とも加減というものを覚えていただきたい。


翌日、俺は公園、橋、今まで彼らと遊んだ場所に足を運んでいた。しかし彼らの姿はどこにも見当たらず、優里の事を話す機会が無い状況だった。

もしかしたら親にしばらく大人しくするよう促されていたのかもしれない。しかし俺はそう考えつかなかった。きっと俺を恨んでいる。俺が一緒にいた事をみんな知っている。何故、優里が溺れなくてはならなかったのか、何故お前は救えなかったのか、など気付いたら俺は道に立ち尽くしていた。みんなに会ったら何を言われ何をされるかわからない。きっと良い事はない。そして俺は気付いた。小学校に行けば嫌でもみんなと会うことになる。きっとその前にもどこかしらで遭遇もするだろう。間違いなく、俺は悪者になるに違いない。頭に浮かぶ事の全てが俺を責め立てた。


泣きながら走り、勢い良く玄関の戸を開けた。あまりの勢いに驚いた祖母が少し速歩きで玄関に近づいてきた。

「どうしたの慌てて。」

俺は乱れる呼吸を落ち着かせて、様々な両親との思い出が蘇り、優里やゴッチ達との出会い、この地での思い出も頭を駆け巡ったが、俺は言葉を振り絞った。


「ママについてく!」

この決断は、父や祖母だけでなく、母をも驚かせた。理由は誰にも言えず、母と共に俺はこの地を離れたのだった。

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