第10話

長い夢を見ていた。眠りの中で見る夢はいきなり夢の世界が始まるものと、だらだらと長い夢の二つのパターンを経験してきたが、今回は長く、そしてだらだらではなく随分と現実に近く夢とは言えないような夢だった。目が覚めると汗だくでパジャマ代わりのTシャツはびしょ濡れになり、体にへばりついていた。顔を背けると扇風機はしっかり仕事をしている。中の強さにしていたので、割と強い風を体に吹き付けていた。


嫌な夢を見ていたのだ。昨日の出来事はここ最近しばらく迎えていた清々しい目覚めを一変させる出来事だったようだ。優里と別れた後、しばらく玄関に立ち尽くし、晩御飯の時も黙り込み、祖父や祖母や父親には勝手に夏バテと診断された。部屋に戻ると東京の友人達から届いたメッセージにも目をくれずに塞ぎ込んだ。心配した亜美から個別に電話が来たが、風邪という事にして電話には出ずにメッセージアプリを通じて返事をした。


【夏バテにはレバニラだよ!笑】と咲からも夏バテの診断をもらった。俺は何も知らない友人達への自分のこの振る舞いに不快の念を感じたが、どうにもならない気持ちに勝手に理解を示した。自分の弱さがあきらかに浮き彫りになっている。情けない男として今は部屋にいるのだ。ただ、重い腰を上げ準備をしなくてはならなかった。理由は今日、丘之城高校野球部の大一番である桐生ヶ岡第一高校との試合があるのだ。これの応援をすっぽかすわけにはいかない。俺は立ち上がるとまずシャワーを浴びに一階へ降りた。祖父と祖母は畑に出かけたらしく、誰もいなかった。シャワーを浴びながら夢を振り返った。ゴッチ達にいつも通り声をかけると無視される。めげずに声をかけると振り返り「よう、今まで騙してたんだな。斎藤真司よー。」

と、言われる。美久や登にも冷ややかな目で見られて優里にも呆れた顔で見られる。そして俺の周りには誰もいなくなるという内容だった。優里が気づき皆に話をしているかもしれない。「木村真司は、あの斎藤真司だったんだ。」って。既にそう言われてるかもしれない。


制服に着替え水筒に氷と水を入れ、タオルを二枚にうちわを一つ持ち、俺は出発した。風が気持ち良かった。ただ集合場所の学校に向かうペダルは重く感じた。頭に一応残してある「言い訳」を頭の中で確認した。

ただ、今更無理だというマイナスの思考も加わり、尚更ペダルが重くなった気がした。なんて考えているうちに、学校に到着してしまった。既に待機しているバスには吹奏楽部が荷物を詰め込んでいる最中だった。

もちろん登の意中の相手、西条さんの姿もある。気品のあるいかにも女子、というタイプだ。まだゴッチ達は来ていないか、さてどうする。俺はとりあえず駐輪場に向かった。


「あ、おはよう。」駐輪場には優里の姿があった。早速遭遇してしまった。それも優里にだ。俺は額に汗が浮かび上がるのを感じた。

「優里、おはよう。昨日は、その‥ありがとうな。」言葉がうまく出ない情けなさがより鼓動の高鳴りを加速させた。どうしていいか完全に見失っている。

「ううん。どういたしまして。」優里が少し微笑む。この微笑みがまた恐怖を煽る。俺は逃げ出したくなった。いつ来るかわからない質問に怯えながら今日を過ごす事になるのを覚悟するしかなかった。暫く沈黙が続いた。この沈黙の時間が長くなる程、余計に疑惑の現実味が増していくのに俺の口は開かない。恋の相手の隣にいるようだ。心臓は忙しく高鳴り口の中は渇く。額には汗が滲みいよいよ苦しくなってきた時だった。


「真司くんは東京から来たんだよね?」

優里が口を開いた。今更聞いてくるという事は疑念がある証拠だ。俺は間隔を空けてからゆっくり口を開いた。

「そう。東京から来た。」そしてもう一つ間隔を空けて再度口を開いた。

「表札でしょ?」優里がこちらを見たのが視界に入った。

「うん。木村‥じゃないんだね?」

俺はこの地で得たもの全てが崩れるのを覚悟して重い口を開いた。

「母親の実家が東京でさ、親父が母親の親、まあ俺の爺ちゃんの会社に入る事になったんだよ。親父の会社の関連会社みたいな感じだったんだけど。割と大きい会社だったみたい。」

優里が頷いた。


「それで親父が母親と結婚と同時に婿に入った。だから木村って苗字になったんだ。で、離婚した時にさ、母親が俺を引き取った。親権は母親のが有利だったんだ。で、結局母親が駄目で親父のところに来たんさ。」噛まずに言えたことが何よりだった。ただ、自信はもちろん無いのだが。

「親父の旧姓は斎藤だから。当然親父の実家の表札は斎藤だよね。」初めて優里の方を見た。優里と目が合った。もう疑念は薄くなっている。

「びっくりした。」優里が笑った。俺は立ち上がり叫びたくなるほど歓喜したかった。

「何がびっくり?」まだ油断はできない。かつての斎藤真司を思い出した可能性があるからだ。

「ううん。なんか知られたくない事あるんかなってさ。でも大丈夫そう。真司くんは紛れもなく東京からの転校生でしょ。偽名使ってたら怪しい人だもん。」優里がますます笑顔になった。

「FBIのスパイかもしれないぞ?」

「この平和な田舎に何の潜入?」

「んー。人ん家の犬を逃す奴を捕まえるとかー。」

優里がゲラゲラ笑った。俺も一緒に笑った。ただ優里の言葉がひっかかった。多分思い出したのだろう。かつての友人、斎藤真司を。俺は当時斎藤を名乗ったかどうかはわからない。ただ東京から来た東京生まれ東京育ちという生い立ちはインプットされたに違いない。それだけで良かった。


「おっはよーお二人!あれ、ラブラブ?」後ろから背中を叩かれびっくりする。美久が太陽の様な眩しい笑顔で立っていた。大きなあくびを浮かべるゴッチの横で耳にイヤホンを入れてクールな登もいた。ただ登の視線の先には意中の彼女がいた。乗り込んだバスはクーラーが冷風を俺達に吹きかけた。車内は同じみの応援組の面々のため、段々と親交の深まりがあった。俺も他クラスの男女達と会話を楽しみ最初の頃と比べると美久の声以外も聞こえ、賑わいが増していた。美久は他クラスの男子と話をしていて、美久の容赦ないイジリに対して優里が横でクスクス笑うという流れだった。ゴッチはもともと友人が多く、隣のクラスの賑やかなグループに交じり談笑していて、登が隣で迷惑そうにイヤホンで聞いている音楽の音量を上げているのが分かった。


賑やかなバスは球場に到着すると、中の面々は降りるとすぐに口を閉じた。皆が唖然としている様子だ。後方の席にいた俺はバスから降りて皆の目線の先を追った。俺も同じく唖然とするしかなかった。なるほど、これが強豪校か。目の前には自分達の5倍はいるであろう応援組。応援団は発声練習、吹奏楽部もこちらの比じゃないオーラが出ていた。

「なにー凄い!怖い!優里ートイレ行こ。」と美久の一声に皆が急に安心したように身体の硬直を解いた。優里は美久に着いて行き、それぞれは準備にかかった。


スタンドに着くとご機嫌な太陽が照らした座席の熱に跳ね上がった。これは油断できない暑さだとタオルを首にかけて覚悟を決めた。グラウンドには丘之城高校野球部が声をかけ合い練習している。駿の姿もあった。豊丸先輩と話をしている表情に笑みがあった。この重圧を笑える駿は本物かもしれない。自分なら今頃トイレの中だろう。球児達の汗をこれまで吸い続けたグラウンドで今日はどんな試合をするのだろう。丘之城高校が桐生ヶ岡第一高校に挑むこの一戦は、国の名誉を賭けた世紀の一戦でも世界が注目する一戦でもないが、本人達には青春、努力、絆、経験を詰め込んだ大一番に違いない。少なくとも学校を背負った代表である。10代の彼らにはその重みの感じ方はそれぞれだが、駿はどうだろうか。


やがて両校は整列し向かい合う相手に「宜しくお願いします!」の言葉をぶつけた。スタンドの我々もスイッチが入るように声を出した。

試合は初回から動く。予想は反しなかった。桐生ヶ岡第一高校が何故強豪校なのかをさっそく実演で教えてもらった。初回からの猛攻で4失点、打線に穴が無いとはこの事かと思い知らされたのだ。

なんとか切り抜けて反撃といきたかったが、あっさり三者凡退。駿も見逃し三振と全く手が出なかった。応援席は誰もが頭に良からぬ二文字を浮かべていたに違いない。懸命な選手には申し訳ないが、圧倒的過ぎた。回を重ねるごとに失点し、エースは下を向く回数が増えた。5回を終えて10対0。相手の応援団も容赦ない大声援を送り続けていた。確信の意味もあるのだろう。


「コールドもあるぜこりゃあ。」汗だくのゴッチが眉間にシワを寄せながら言った。首に回したタオルで顔を忙しげに使うほど確かに熱い。そして確かにそうだ。このままではコールド負けだ。それでは少しやるせないだろう。なんとか反撃してもらいたかった。ベンチ前で円陣を組む駿の表情が見えた。そこに諦めは無かった。誰一人そうだった。俺は自分を少し責めたくなった。丘之城高校の負けを悟ってしまった事を後悔した。俺は声援のボリュームを上げた。全員の声援のボリュームが上がったのは、その表情を見たからだろう。それはあまりにも必然の事だった。


6回の丘之城高校の攻撃。それは胸が踊るような展開だったが目の前で起こった。駿がヒットで出塁すると、4番の豊丸先輩が甘く入った相手エースの球を逃さなかった。打球はスタンドに飛び込むツーランホームラン。相手エースは四球などで乱れると手も足も出なかった丘之城打線は逃さずに捉え続ける。これには桐生ヶ丘ナインも動揺した。余裕で勝てると思っていた小動物にまさかの反撃に退くライオンのように強豪校らしからぬミスも飛び出した。この味方の反撃に一番良い意味で答えたのはここまで全く良いところが無かったエースだった。ここで乗らなくてはというエースのプライドもあったのだろう。やはり波というものは存在したのだ。6回、7回を無失点とし、味方は7回にも1点をもぎ取る。10対7まで追い上げて来たものだから流石に焦りも目に見えた。この相手エースはプロも注目していると事前に聞いた。サウスポーで最速148キロとこれからも充分期待が持てる投手であり、ここまで目立った敗戦も無かった。ただ高校野球というものは不思議な力が湧くもので、3年生は引退の二文字を背負い戦う。後輩も先輩とのプレーを終わらせまいと奮起する。相手エースは今それを体感しているのだから並々ならぬ焦りではないはずだ。


試合はついに9回、最終回を迎えた。下位打線から始まる丘之城高校の最後の攻撃は9番バッターの三振から始まった。相手エースは冷静を取り戻した。試合開始時のようなピッチングに戻った。1番バッターとなっている椎葉氏もこの復調したエースと対峙する事になる。簡単に追い込まれたが椎葉氏はギリギリのところを粘るバッティングで相手エースを揺さぶる。丘之城高校応援団の声援が最高潮を迎えた頃、俺のいる席の隣から耳を疑う声が鼓膜を刺激した。

「絶対打て!しーいーばー!」

俺はこれでもかという勢いで隣を見た。同じく美久、優里、ゴッチが同じ方向を驚いた表情で見ていたので目が合った。そこには汗だくで恋のライバルである椎葉氏に声援を送る登がいた。登のこれほど大きな声量にはさぞゴッチ達も聞き慣れないのだろう。ただ、登の声援に美久が無邪気に笑い「絶対打て!しーいーばー!」と登を真似て声援を送った。優里、ゴッチもそれに続く。もちろん俺も、そして吹奏楽部の演奏も不思議と力が入った時だった。ついに椎葉氏のバットが相手エースの速球を捉えた。打球は物凄い速さでファーストの頭上を越えてフェアゾーンへ。椎葉氏は快速を飛ばして三塁まで辿り着いた。

「よっしゃー!」とゴッチが雄叫びを上げると同時に登は静かに下を向いていたが、両手の拳は固く握られ身体は震えていた。吹奏楽部を見ると、登の意中の相手、西条さんの目には光るものが見えた。登には辛い西条さんの涙だろう。その涙の意味は色々な感情が混ざっているのだろう。おそらく登はその意味には含まれない。ただ登はそれでも椎葉氏に声援を送った。登という男は良い奴なんだと改めて感じた。

続く2番バッターの当たりはセンターへの浅いフライだった。椎葉氏は犠牲フライを期待して走る体勢に入るが、浅すぎた。しかし高校野球は本当にわからない。だからこそ人々は夢中になり、いつしか夏の風物詩として扱われるようになったのかもしれない。センターの手前にポトリと落ちた打球、時間差で大歓声が起きた。まさかの出来事に桐生ヶ丘第一ナイン、応援団は呆然とするしかなかった。あの桐生ヶ丘第一が弱小と言われた丘之城高校にここまで追い上げられ、打席にはオファーを蹴った駿が立つ。まさに舞台は整ったと言えるかもしれない。相手エースは明らかに先ほどより焦りがある。初球は大きく外れたボール球、当然降るわけがない。キャッチャーがやっとマウンドのエースに近づく。内野陣も集まり、駿は素振りをしていた。

「やば!鳥肌だよー。」と美久が腕をさすりながら興奮する。

「駿くん良いところで出番が来るねー。」

優里も釣られて腕をさすりながら言った。

「おい駿!決めちまえよ!」ゴッチがそう叫ぶと駿は聞こえたらしくこちらにバットを掲げた。俺は拳を上げると駿が同じく拳を上げて笑った。


一呼吸入れた相手エースは駿に再び球を投げると良い球がミットに収まる。再び自分の感覚を取り戻したようだ。だが駿も懸命に喰らいつくのだから相手エースもたまったもんじゃない。カウントはフルカウントになった。四球を出したくない相手エースは大きく深呼吸をした。二塁にいるランナーを返せば1点差。ますます流れがこちらに傾く。球場のボルテージはますます上がる一方だ。他県で行われているであろう予選の中でも一番ではないかと思うほどだ。

俺は自然と身体に力が入る。背筋を伸ばし息をできる限り吸い込んだ。もちろん恥じらいはない。友達の為だから。

「かっとばせー!駿ー!」

優里が一瞬こちらを見たのがわかった。そして同時に微笑んだのもわかった。駿は懸命に粘る。相手エースも必死にアウトを奪いに行くもなかなか空振りを奪えない。何球投げただろうか。駿のバットが相手エースの素晴らしい球をことごとく当ててファウルにしていく。丘之城高校応援団、桐生ヶ丘第一高校応援団と共に顔を赤らめ必死に声援を送り続ける。真夏のグラウンドに闘志がぶつかり合い互いの力を存分に発揮する光景に涙する人もいた。

相手エースが駿に投げた13球目が二人の対決に終わりを告げた。12年前、駿が俺の目の前で素振りをしながら話した夢や野球に対する想いも未だに色褪せない。12年前の駿の姿が浮かんだ。その姿が今、バッターボックスにいる駿と綺麗に重なった。

「やりやがった!」

ゴッチの歓喜の叫びで目の前の光景に俺もやっと確信が持てた。駿の打球はレフトの頭上の越えて落ちた。爆発音の様な歓声が俺の周りで起きた。俺は遅れて歓喜の叫びをあげた。二塁ランナーはホームインし、駿は二塁へ滑り込んだ。ついに1点差まで追い上げたのだった。満を持して4番バッター豊丸先輩が立つ。もう勝つ流れにしか感じられない。誰もがそう思うはずだ。野球の神様は今、丘之城高校に間違いなく微笑んでいるのだから。どっしり構えた豊丸先輩は相手エースの投球を待つ。そして相手エースが投げた初球をフルスイングした。金属が弾ける音が心地よく響いた。メガホンをぶつけ合う音が丘之城高校応援席で激しく起こった。打球はセンター方向へ伸びていきスタンドまで届く。そう思っていた。俺達は誰一人疑わなかった。まさかセンターが流れを断ち切るファインプレーを見せるなど誰一人思っていなかった。


「おい駿!戻れ!戻れー!」

ゴッチの叫びと共にすでに三塁を少し回っていた駿が慌てて足にブレーキをかけ、二塁へと戻る。

そして二塁へと頭から滑り込み、砂埃が包んだ。やがて審判の手が上から振り下ろされた。親指が立てられていた。その瞬間、マウンドの相手エースは空を向き力の限り叫んでいた。そしてキャッチャー、内野陣、外野陣が駆けつけて自軍のエースを讃える。そして、二塁には滑り込んだまま、身体も地面に付けたままでピクリとも動かない駿の姿があった。

駿の今年の夏が、終わりを迎えた。そしてこの日、もう一つ終わりを告げたものがあった。

それは登の恋だった。

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