第9話

ここのところ丘之城は賑わっていた。町の人々は新聞を持ち寄り笑みを浮かべて話をしている。この光景はどこへ行っても見られた。その要因が丘之城高校野球部である。2回戦、3回戦と僅差ながら勝ち進み、丘之城野球部始まって以来の快進撃だった。しかし、ここで更なる壁にぶつかる事になった。ベスト16に入る事になったのだが、次の相手は甲子園の常連校であり、かつて日本一にもなった桐生ヶ丘第一高校であるからだ。駿がオファーを断ったのはまさにここであった。

駿がいつしか「あの学校を倒すのが本望だ。」と高らかに宣言していたが、対戦が現実になると駿はますます集中していた。正直な話、美久でさえ余計な事を言わずに気を使うようになる程だった。

「プロ野球選手の奥さんってこんな心境?」などと言い出す始末だった。

「真司ー。」

休み時間になると、廊下で後ろから駿に呼び止められた。思えば最近は駿と話をした時間がどれほどあっただろうか、と思うほどの短さだったと思う。


俺達は階段下の少し空いたスペースに移動した。ここは女子が数人で密会をしたり、時々男女が告白の場として使用したりと活躍している。男二人でいる光景は見かけた人は足を止める事だろう。

「なんか‥わりいなあ。」壁に背を付けたまま、駿が口を開いた。主語は無いが恐らくゴッチ達を含め俺達が駿に気を遣っている事に対してだろう。ゴッチ達は毎年の事だが俺に対しては初めてだから、という駿なりの気遣いなのだと思う。

「今は試合に集中しなよ。俺達は駿の応援が仕事だから。駿はその期待に応えてくれよ。なんて言ったらプレッシャーか。」駿は一瞬だけこちらを見た後少し笑った。「この時期はどうも気が高まってさ。ピリつかせるつもりは無いんだけどな‥わりいな本当に。」

駿は初めて弱々しい口調を聞かせた。ただ駿らしい明るさを少しだけ覗かせた。駿も複雑なのだろう。自分は部活、そして学校の為に精一杯の力を出して強豪校と闘っている。常にプレッシャーと期待を背負う分、やはり感情のコントロールは難しいだろう。

「大丈夫だよ。皆ちゃんと解ってるからさ。」

「サンキュー。最後まで応援してくれや。」駿はいつもの笑顔を見せた。

「おうよ。ただ、ショートバウンドの処理してからの送球が遅いなあ。」俺は意地悪な笑顔を送った。駿はキョトンとしてから大笑いした。廊下を歩いてた女子はこちらを不思議そうに見ている。

「お前ちゃんと見てるなあ。監督にも言われた!」

チャイムが鳴り響き俺達はこのスペースから離れた。

「またな!」駿は早歩きで教室に戻って行った。


教室に戻ると優里と村上佳菜が話をしていて、俺に気付くと手招きされた。

「駿君どうだったの?真司君に謝ってた感じだったらしいけど。」優里が小首を傾げながら尋ねた。

「さっき通りかかったらそんな話が聞こえて。聞き耳立てた訳じゃないんだけどさ。」村上佳菜が申し訳なさそうに言った。女子のこの表情に俺は弱いかもしれないと、自分の欲の一つに気付かされた。

「うん。駿も自分のせいで皆が気を使ってるのを気にしてるみたい。それは当たり前の事だし、今はその分野球に集中してくれって話をしたよ。」

「やっぱり気にしてたかあ。まあ私達は精一杯応援あるのみだね。」優里が言うと村上佳菜も頷いた。

駿はいい奴だ。自分の事でいっぱいなのに、友達の事もちゃんと考えている。だから周りは駿を気遣い、応援している。暗黙の了解のようにこの時期は彼らなりに距離をとり集中させてやる。そうさせるのは駿の人柄と友情の深さ。俺はあの頃から更に深みを増した輪の中に入っているみたいだ。今ではすっかり心にも馴染みができていた。


いつもと変わらない帰り道。隣には優里がいた。たまたま道端で知り合いと思われるおばさんと話をしていたところに俺が通りかかり、一緒に帰ろうという流れになった。優里の家は途中で左に曲がり坂道を登る道を、曲がらずに真っ直ぐ進んだところにあるみたいだ。いや、記憶にも薄っすら残っている。

「あー夏休みが来るねー。甲子園で過ごす事になるかもねえ。」優里の言葉で夏休みが近づいている事を改めて実感した。東京に帰る時間はあるだろうか。それとも自然が豊かなここで皆と過ごすのか、贅沢な悩みだった。都会の街並みが恋しかった3カ月前と比べて、今はこの遠くまで見える奥行きのある風景に居心地を感じている。トラウマを抱えている事実を忘れてしまうほどだった。遠ざけがちだった彼らとの交友も、いつしか東京の一馬達と同じ気持ちで接する自分がいた。そう、俺は馴染んだのだ。この丘之城という環境に‥。


「あ!」隣で優里が大きな声を出し、俺は我に返った。優里の目線の先には優里の絵がアスファルトに散らばっていた。

「あーあやっちゃったよー。」と言いながら優里が慌てて拾うのを俺も自転車を停めて手伝った。どうやら描き終えた絵を束ねずに手さげ袋に入れてたようで、それが落ちて散らばったようだ。俺は自転車から降りて一緒に拾うのを手伝った。相変わらずの出来映えの作品に俺は「おお‥。」と声をあげながら拾った。

「相変わらずお上手ですねー優里先生は。」と茶化す言い方だが本心の褒め言葉を述べると優里は俺の口調が可笑しかったのか笑いながら感謝を述べた。

「はい。これで全部のはず。」

「ありがとう真司君ー。ごめんね助かった。」

優里は大事そうに絵をしまった。

「じゃあ俺はここでね。気をつけて帰ってね。」

「うん。じゃあまた学校でねー。」


優里と別れると家がある坂道を登って行った。家には珍しく庭に祖父の姿が見えなかった。玄関の横にいるマルは寝そべりながらこちらを見ている。

「ただいまーマル。」と言いながら自転車を降りると「真司君ー。」と後ろから声が聞こえた。

「え?」俺は振り向くとそこには優里が立っていた。

「真司君これこれ。さっき絵を拾ってくれてた時に鍵落としたみたいよ。」と優里の右手には俺の家の鍵があった。ポケットを探ると確かに鍵が無かった。

「わりい、落としたみたい。」

優里を見て一声吠えるマルを注意し、優里のもとへ向かった。

「ほい。」優里は鍵を投げてそれを受け取った。

「サンキュー。」

「真司君の家、庭広いんだねー。ボンボン?」

「いやいや、爺ちゃんが畑仕事しててさ、家でもやってんさ。」

「なるほどなるほどー。」優里は周りをキョロキョロ見渡した。

「ありがとうねわざわざ。」

「うん。じゃあまたねー。」優里が手を振り自転車に跨った。俺も優里に背を向けて玄関へと歩く。マルの頭を撫でた後、玄関に手をかけた。

「斎藤‥?」

俺は玄関に手をかけたまま、ピタリと動きを止めた。いや、止まってしまった。ゆっくり後ろを振り返ると表札を見る優里が立っていた。優里は目をこちらに向けて「じゃあ、また学校でねー。」と言うと、自転車を漕ぎ姿が見えなくなった。忘れていた心の中のアイツが元気に飛び回っていた。そこに優里はいないのに、しばらく優里がいた辺りを見ているしか頭が働かなかった。マルは不思議そうに俺の顔を下から見上げていた。夏の夕暮れが立ち尽くす俺をオレンジ色に染めていた。

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