三章 - 作品は在るが見えない2

 目を覚ますと部屋が暗くなっていた。這うようにベッドから下り、電気をつけるとすでに深夜二時をまわっていた。身体が他人のモノみたいに疲労している。志穂は携帯を拾って充電器につなぎ、ベッドを整え、歯を磨き、シャワーを浴びる。


 意識的に生活することで、志穂は自分自身を取り返すことができる人間だった。顔を洗い、腫れた目を化粧水で押さえた後に携帯を見ると、真山からメッセージがたくさん入っていた。寝てた、もう平気だから、ありがとう、と短く返信すると、志穂はアトリエに向かった。


 これが自分のアーティストとしての最後の作品になる。しかし、最後に何を遺せばいいのか、志穂にはまだ何も浮かんでいなかった。とりあえず、日本から持参したロールの和紙にアクリル絵の具で色を引く。身体の半分が、まだ自分に戻ってきていないようで、とにかく身体を動かして自分自身を感じられるようなことがしたかった。

刷毛にいろんな色をつけて線を引く。色が重なり合い、刷毛から零れ落ちた色のしずくと混ざり合っていく。見た目は美しい。でもそれは、見栄えだけよい「他人の絵」だった。


 志穂は刷毛を床に捨て、倒れるように音を立ててテーブルに顔を伏せる。長い間、誰かに気に入られるための作品を模索し続けて、自分が気に入るものが分からなくなっていた。髪の毛を使った作品がつくりたいはずだった。でも、誰にもいいと言ってもらえなかった。

 

 髪の毛は線になり色になり紙になり空気になった。髪の毛だったものは髪の毛ですらなくなった。概念のようなものになって、それはもともと存在しなかったのだと気づいた。


 志穂は顔を上げる。

志穂は、自分がアーティストとして生きていなかったことに気づいた。いや、一度も生きたことなどなかったのかもしれない。


 翌日、志穂がキッチンに行くとアルコがパソコンでネットニュースを見ていた。

「志穂ちゃん、見て―。やばくない、これ?」

 パソコンの向きを変えて志穂にニュースの画面を見せる。画面の左上にヨンジャの顔が映し出され、キャスターがなんか言っている。

「恋人の浅倉を娘に盗られたって供述してるらしいよ」

 話が変わってきている。娘の遺作を浅倉に奪われたと考えていたわけじゃないのかと志穂は思った。

「彼女が浅倉と先に出会って、娘がアートをやってるからって浅倉を紹介したみたい。そしたら浅倉が娘に手を出しちゃって、それで嫉妬したみたいね」

「そんな…、そんなこと、本当にあるんでしょうか」

 カフェで会った浅倉は、ソヨンの作品に惹かれているように見えた。しかし、それも志穂の思い込みかもしれない。

「浅倉ならそういうことしてそうってあたしは思うけどね」

 アルコはパソコンの向きを変えて、調べものを始める。タイピング音が響き、検索した画面を再び志穂に向ける。

「実はさ、ソヨンと同じアパートに住んでて事故で死んだっていうアーティストが、あたしの彼氏なんだよね」

 動画サイトに映し出されたのは、チェーンソーを振り回しながら木彫をつくる作家の姿だった。

「死んだ時の映像はないけどさ。その話はけっこう出回ってるから、見てこの再生回数、すごいでしょ?」

 全てではないが、百万回以上再生されているものもあるようだ。一番新しい動画のアップ日が一日前になっている。しかし、バッド数が千以上だ。

「あれ、亡くなったのって、いつ頃ですか?」

「ん? 七年くらい前かなぁー」

「動画って、アルコさんがアップしてるんですか? 最新の動画がけっこう新しいから」

「うん、そうだよー。あたし、パフォーマーだけど、ビデオアートもやるんだよね。だから彼のもけっこう撮ってたの。弔いのつもり」

「一日前っていうことは、昨日アップしたんですね」

「うん、毎日やってる」

「毎日?」

「こういう動画サイトってさ、毎日更新しないと見に来る人いなくなっちゃうんだよねー。すぐ飽きられちゃうし」

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