三章 - 作品は在るが見えない1
「意識不明の重体だって、韓国のネットニュースに出てたよ。日本語版もあるかも」
アルコがパソコンで浅倉のニュースを調べて、志穂に見せる。犯人は五十代後半の女性。経営しているカフェで浅倉を刺し、駆け付けた警官に取り押さえられたとある。
「これ、ヨンジャさんですよね」
「だろうねー、昨日の今日だし。すごい実行力。動画もあるみたい、これかな」
画面に映ったのは唾を吐き叫びながら暴れるヨンジャ。複数人の警官が周囲を押さえ、カフェから出てくる。服全体が血のせいか黒ずんでいた。ニュースキャスターが事件の様子を伝えている。アルコは口元を押さえながら、笑っているようだ。
「ばっかみたい、笑える」
笑いながら画面を見るアルコを残して、志穂はキッチンを出て部屋に戻り、ネットニュースを調べ始める。ヨンジャは家にあったカッターナイフで浅倉の顔を刺し、顔に手を当てたところで胸を複数回刺したようだ。ナイフは自宅にあったもの。娘がアート制作の時に使っていた遺品だと伝えているニュースもあった。
志穂は引き出しの中にあったナイフを思い出す。角度が通常のカッターよりも鋭角になっているデザインナイフがしまわれていた。しかし、あの母親がナイフの存在を分かっていたとは思えない。それに、たとえ恨んでいたとして、人を実際に刺すなんてことが簡単にできるだろうか。
アルコが、あのナイフを使って顔から刺すように事前に助言したんじゃないだろうか。
志穂は真山に連絡を入れる。真山の仕事は不定期だが、すぐに返信がきた。
「電話できる?」とメッセージを入れると、真山からかかってくる。
「志穂、元気? 展示の企画はまとまった?」
「うーん、なんかあんまりうまくいかなかったけど、無理やりまとめちゃった」
「いいの? 最後って言ってなかったっけ。悔いないようにやりなよ」
「うん、そうなんだけど…」
「まだ時間あるだろうから、じっくり考えたらいいよ。相談したいことあれば聞くし」
「ありがとう」
「韓国料理はどう? 辛すぎない? 自炊してるんだっけ?」
近況や食べた物などの話をしながら、会話に気持ちがついていかなかった。てきとうに相槌を打ちながら、ソヨンと『手と骨』のことを考えていた。
「ねえ、イタリアの作品ってさ」
志穂は唐突に切り出す。
「賞獲ったやつ、覚えてるよね? 『手と骨』ってタイトルで」
「あぁ、てかなんで急に?」
「韓国人の女の人がね、こっちで死んでるの。餓死してる。その人が最期に遺した作品のタイトルが『手と骨』なんだって」
真山は答えない。呼吸音だけが電話越しに伝わってくる。
「彼女の名前、ソヨンって。キムソヨン。知ってるよね? 大学の時とか付き合ってたんじゃない?」
言葉が強くなる。
「志穂、落ち着いて、志穂。何があったの」
「なにっていうか、私に隠してることあるよね? どうして隠すの。言えないことがあるの?」
志穂の目から涙がこぼれ、大きく息を吐いて志穂はつづける。
「彼女のお母さん、今朝、ギャラリストを刺したって。娘の復讐だって。餓死って普通じゃないよね、ほんとに餓死なの? 『手と骨』は本当に俊介の作品?」
「志穂、落ち着いて。聞いてくれる?」
志穂の高く早い呼吸が携帯にぶつかる。声を押さえようと息を止めると唇から短い音が漏れる。
「ソヨンは元カノだけど、卒業して割とすぐに別れて、その後は連絡取ってなかったよ。死んだっていう話だけ聞いてた。賞を獲った『手と骨』は間違いなく俺の作品だよ。彼女が最期の作品として同じタイトルの作品を遺したっていうのも後から人づてに聞いた。でもそれとは別だよ、関係ない」
志穂はしゃくりあげながら真山のゆっくりした声を聞く。
「志穂、本当だから。信じて欲しい」
長い沈黙の後、志穂の呼吸が静かになり、空気をちゃんと掴むように機能を取り戻していく。
「志穂?」
「うん…」
呼吸を交わすような時間が流れ、志穂は「休みたいから切るね」と震えの残る声で告げる。
「分かった。明日も連絡するから。何かあったら必ず連絡して。いい?」
「うん…」
電話を切ると志穂は携帯を床に放り投げ、ベッドの上に倒れ込んだ。枕に顔を伏せて大声を上げて泣く。心臓が鉛に変わってしまったように身体が重い。泣きやんで眠り、また起きて泣くを繰り返すうちに、志穂は死に近いような眠りに落ちた。
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