二章 - 痕跡はあらゆるところにあって消えずにいる5

 コーヒーを飲み終わった志穂は、カップを片付けてアトリエに戻る。レジデンスでの展覧会の企画書を来週末までにまとめないといけないが、何から始めればいいか思いつかなかった。志穂は文章をまとめるのが苦手だった。深い意味がありそうな抽象的な言葉の羅列からは、何一つ志穂の真実は込められていなかった。

 考えるのをやめると、志穂はアトリエの広い机で、髪の毛のような細い線を引き続けた。一日中、同じ体勢で線を引き続け、志穂の身体はぶざまな形に固まり、アトリエには線だけが積もっていった。

 深夜、線が敷き詰められたアトリエの床に寝転がり、志穂は天井を見上げる。水道管がむき出しになったパイプ。二階から落ちる水音が反響してアトリエ中に響く。長い黒髪を周囲に散らして、口を少し開いたまま水音を聞いていた。

 志穂は寝転がったまま、急に大声を出す。

「あー! あー! あー!」

 空気を呼び止めるみたいに。

「もう最後なんだから、いいや、どうだって。どうだっていいやー!」

 レジデンスのプログラムでは批評家と話す機会もあった。このレジデンスが終わったらアート自体もやめるつもりなのに、まだ評価など気にしているのか。どうしたらよりウケるのか、もしかしたらやめなくて済むかも? いつまでもそんな堂々巡りをつづけている。

 最後なんだから、他者の視線なんて気にせずに、思いっきり自分のつくりたいものをつくって終わりにしよう。そう、今度こそ。

 志穂は髪をイメージしたインスタレーションをつくることに決めた。部屋に戻ってパソコンを開き、展覧会の企画書を書き始める。展覧会のコンセプトのところに「巨大カツラをつくりたい」と入力し、タイトルを「手と髪」にした。作品点数やサイズなどをまとめた後、コンセプトをそれっぽく書き直しメールを送る。


「ソヨンが住んでたアパート、見に行かない?」

 昼過ぎにコーヒーを淹れているとアルコがキッチンに入るなり言う。

「アパートって、まだあるんですか?」

「誰も住んでないまま放置されてるけど、あるんだって。それからソヨンのお母さんに会いに行ってみない?」

「お母さんってこの間の?」

「そ。実はもう一回会っててさ。娘の遺作について相談受けてんだよね」

 ソヨンの母はアーティストではない。もしかしたら作品はアートっぽい見た目をしていないのかもしれず、娘の部屋を探してほしいと依頼されたのだと言う。確かに現代アートの中には、作品とは分かりにくい見た目のものもある。

「二人で探したほうが見つかりやすいかもしれないからさ、どう?」

「行ってみたい、です」

 彼氏の真山との関係も分かるかもしれない。志穂はソヨンの母に会いに行くことに決めた。

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