二章 - 痕跡はあらゆるところにあって消えずにいる4
自分のアトリエに戻った志穂は、丸ペンでケント紙に線を引き始めた。揺れるような平行線をただ紙に引きつづける。線はところどころ重なり、インクが溜まって広がった。四十センチの紙の半分ほどを線で埋めた後、手首が痺れるように重くなって志穂はペンを置く。小さなスピーカーから流れていた音楽を止めると、志穂は二階にコーヒーを淹れに行く。
キッチンにはアルコがいて、アート雑誌をめくっていた。
「あー、志穂―。調子どう?」
「はい、まぁ」
ポットに水を入れながら、志穂はアルコに声をかける。
「コーヒー淹れますけど、いります?」
「いいねー、お願い」
お湯が沸くまでの間に、志穂はカップと豆を用意する。
「家で淹れるなんてちゃんとしてるね。あたしだいたい買っちゃうからさぁ」
「クリーム入れます?」
「なしで大丈夫。ブラックのほうが好きだから」
志穂は淹れ終わったコーヒーをアルコの前に置く。
「ありがと」
自分の分のコーヒーをハンドドリップで淹れていると、アルコが話しかけてくる。
「あんま言いたくはないんだけどさ。志穂って今、なんか仕事してる? アートで食べられてる?」
「今は、アルバイトだけ。アートでは食べられてないです、ぜんぜん」
「だよね。まぁこう聞いちゃうあたしもアレなんだけどさ。アーティストやってるって、ぶっちゃけニートの言い訳みたいな感じだよね。アーティストですって言ってても、そうなんですね、それで普段は何を? 仕事は? って聞かれるのが日本だし。アーティストなんだから、作品つくってるに決まってるでしょって」
「アートで食べていけるって思われてないですよね」
「まぁ、実際、食べていけてないから、あたしも別でお金稼いでるけどさ」
コーヒーを淹れ終わった志穂は、アルコの向かいに座る。コーヒーを持ってアトリエに戻る予定だったが、なんとなく会話を終わらせにくかった。
「ニューヨークで個展とかやれる身分になってみたかった!」
「過去形で言わなくても、まだチャンスはあるんじゃないですか」
「あると思う? 本当に?」
「…さぁ」
志穂はニューヨークに行ったこともない。ネットで見るニューヨークが現実に存在しているという実感すら、志穂にはもてなかった。
「仕掛けるならヤバイこと仕掛けないとね、浅倉みたいに」
アルコが両腕を頭の後ろで組んで体を伸ばしながら言う。
「浅倉さん?」
「あいつさぁ、囲ってるアーティスト、これまでに何人か殺してるんだよ」
「ええっ」
志穂はカップに口をつけようとしたところで思わず声をあげた。
「ソヨンもその一人」
「そんな…、信じられません」
志穂は昼間の浅倉の表情を思い出す。彼がそんなことをするだろうか。
「そういう風に見えるやつが一番ヤバイんだよ。だってさ、ソヨンみたいに若いアーティストがいきなりそんなに高額で売れるようになると思う? 餓死するほど貧乏してたんだよ?」
「まぁ、そう、なのかも」
「若いのに餓死だよ? この時代に。ありえなくない? その死の後から作品が売れ出した。売れた利益はソヨンの母親ではなく、浅倉に入ってる。猟奇的な死のおかげで作家の異常性が際立つ。天才ってどっかおかしい感じするでしょ。そういう民衆心理に付け込んで作品価格を上げようとしてんだよ、あいつ」
「そんなこと、本当にあるんでしょうか」
「あるよ。これまで世界で名の知れたアーティストの何人が自殺、中毒死したと思ってんの。それに浅倉の場合はソヨンだけじゃない」
「だけじゃない?」
「そう。浅倉が若いアーティスト数人を囲ってたアパートで、もう一人死人が出てるの」
「ええ…。どんな…?」
「電ノコでおなか切ってそのまま失血死」
「ウソ…」
「今は削除されたけど、一時、動画サイトにも上がってたらしいよ、それ」
「死ぬところがですか?」
「パフォーマンスアートとしてやってたみたい。電ノコで木彫してたんだけど、振り回しながらなのに、かなり繊細に作品つくる様子が動画で人気だったんだよね。でも手元が狂って自分のおなかを切っちゃって、取り乱した様子とかがそのまま映っちゃったみたい」
「そんなの、事件の後にアップされたんですか?」
「浅倉がやらせたんでしょ。そういう話題づくりの仕方をこれまでもやってきてるってこと」
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