二章 - 痕跡はあらゆるところにあって消えずにいる3

 浅倉は少しの沈黙の後にうなずく。

「まだ今みたいに売れる前から、彼女の住まいを提供してたんだけどね、そこで」

「住まい?」

「うん、若手のアーティストを五人住まわせてたんだ。知り合いが持ってた古いアパートに。当時は彼女のほかにも四人のアーティストがそこで暮らしてて。住む家さえ確保できれば、作家がもっと作品づくりに没頭できるかなって思って始めたんだけど」

「その家、今もあるんですか?」

「あるけど、閉鎖になってるね。壊すお金がなくて、放置されてる」

「そうなんですか」

「…先に話を始めてしまいましたが、お名前を伺っても?」

「あっ、はい、すみません」

 志穂は持ってきていた名刺を出して両手で浅倉に渡す。

「蒼伊志穂です」

「珍しい漢字使うね」

「これ、アーティスト名で、本名は青井なんです」

「そうか」

 浅倉は目を細めて笑い、

「志穂さんの彼氏がつくったっていう『手と骨』について聞いてもいいかな?」

「はい、七年前なんですけど、イタリアで賞を獲った作品のタイトルが『手と骨』だったんです」

「彼氏の名前は?」

「真山です、真山俊介。フォトグラファーです」

 浅倉は携帯で名前を入力して志穂に見せる。

「この字かな?」

「はい、そうです」

「作品は見たことある?」

「いいえ。でもインスタレーションだって」

「イタリアのなんていう賞か知ってるかな?」

「分かりません」

 志穂は今さらになって、真山のことを話したことを後悔していた。これでは告げ口しているみたいだ。

「あの、もしかしたらもとのは、日本語タイトルじゃないかもしれなくて。関係ないかもしれないです」

「そうだね、でもなんでも情報があるだけありがたいよ」

「『手と骨』って、ソヨンさんの遺作って聞きました」

「うん、そう。彼女が何を遺したかったのか、どうしても知りたくてね。七年間、ずっと探してる」

「なんでその作品が遺ってるって分かったんですか?」

「ソヨンが死の間際に母親にメールをしてるんだ。やっとできた。タイトルは『手と骨』これでダメなら、もうアートはやめようかと思う、って」

「やめる? やめるって本当に言ってたんですか? 彼女が?」

「本当だよ。母親からメールの文章が転送されてきた」

 志穂は店内の作品にもう一度目を向ける。ヒトの体と文字が混ざり合ったようなドローイング。ソヨンの体全部が言葉になったような写真と、表情のない顔立ち。作品から感じられる強さとは裏腹に、彼女自身は自分の作品には満足していなかったのだろうか。

「作品が見つかったら、どうするつもりですか? ここで飾って販売に出す?」

「いや、まだ考えてないな。ただ、純粋に彼女の最期の声がなんだったのか知りたくてね」

 浅倉の唇に苦いような感情がわずかに浮かんだ。この人は本当に、ソヨンの死を悲しんでいるのだ。それは嘘じゃない。

 店内に数人のグループ客がやってきて、笑い声がカフェの匂いに混ざり始めた。浅倉は席を立って自分の名刺を持ってくると、志穂に渡す。

「なんでも、彼女や作品に関することで分かったことがあれば、連絡して欲しい。あと、日本語話せる人は多いけど、一応ここも海外だから、なんか困ったことがあればいつでも気軽に連絡してくれていいから」

 浅倉は目じりにしわを寄せて志穂に言う。志穂は名刺を受け取り、お礼を言ってカフェを出た。

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