二章 - 痕跡はあらゆるところにあって消えずにいる1
十一時の開店とほぼ同時に店に入ると、カウンターに浅倉がいた。店員に注文を聞かれ、志穂は「ホットコーヒー、スモールサイズ」と答える。店員が韓国語で話しかけてくるが分からない。つたない英語で「韓国語は話せません」と返す。
「日本の方ですか?」
コーヒーマシーンの様子を見ていた浅倉がやわらかい笑顔で志穂に声をかけてくる。
「あ、はい、そうです」
「お持ち帰りか店内かっていうのを聞いてたんですが、どうされますか?」
「店内で、お願いします」
「はい、ありがとうございます」
浅倉は韓国語で店員にオーダーを伝える。志穂に会釈をしてカウンターから出て行こうとする浅倉に、志穂は話しかける。
「あのっ、浅倉さんですよね?」
浅倉が振り返った。
「そうです、なにか?」
「もしご迷惑でなければ、作品を見ていただきたいんですがっ」
浅倉に会えた時の言い訳として、志穂はポートフォリオをタブレットに入れて持ってきていた。しかし、浅倉は丁寧な口調で断る。
「申し訳ありませんが現在、作品の持ち込みは受け付けておりませんので」
「あと、『手と骨』っていう作品について聞きたくて」
志穂の言葉で明らかに浅倉が動揺したのが分かった。口元に緊張が走り、黒目が開く。
「どこでそれを?」
とっさに発してしまった自分の言葉に、志穂自身が動揺した。それでも震える声を押してつづける。
「そこ、座ってもいいですか」
志穂が店の奥の席を指さすと、浅倉はうなずいて志穂を席へと誘導する。ソファ席に座ってカバンを横に置いてから、志穂は上目遣いに浅倉を見る。浅倉は志穂の向かいの席に座り、腕を組んでテーブルの上に乗せた。
店員が呼ぶ声がして、浅倉がそれに応える。コーヒーが志穂の前に運ばれてきた。
「手と骨について、何かご存じなんでしょうか」
「あの、あんまりすごく知ってるっていう感じじゃないかもしれないんですけど、私の彼氏が、えと、昔、おんなじタイトルの作品をつくって、賞を獲ったことがあって」
「なるほど」
浅倉は黙って志穂の話に耳を傾けている。
「なんか、ほんとごめんなさい。急に来ちゃって。私、ほんとこういうことしないんです。でもなんか、すごく気になっちゃって、作品のこととか。ソヨンさん自身にもなんか惹かれるっていうか」
「大丈夫ですよ。僕はどんなことでも聞きたいんです。ゆっくりでいいので、分かることを話していただけませんか。僕が喜びます」
浅倉の声は意外なほど優しかった。目線を泳がせていた志穂が顔を上げると浅倉と目が合う。浅倉は目じりにしわをつくって笑顔をつくった。
志穂はコーヒーを一口、口に含んで息を短く吐くと、浅倉に向き合うように顔を上げた。
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