第9話 苦手

「香奈?」


俺の胸に顔を埋めたままで返事もない。

何かあったということは予想できるが、かなり気落ちした様子だ。


バイトから帰った俺を出迎えにきた香奈は、一目散に飛び込んで……こようとして踵を返してキッチンに戻って行った。コンロの火を消しに行ったんだろう。


再び飛び込んできたと思ったらすでに10分以上もこの体勢だ。どうしたものかと考えた俺は左手で香奈の背中を抱き寄せてから右手で頭を撫で続けた。


「くぅ〜」


沈黙を破ったのは我慢しきれなかった俺の腹の虫だった。香奈にもしっかりと聞こえていたらしく「ふふっ」と微笑して、


「ごめんね。バイトの後だしお腹すいてるよね。いま準備するから待っててね」


顔を上げた香奈は申し訳なさそうに言い、キッチンに向かおうと俺に背を向けた。


メシより香奈


本能よりも理性が働いた俺は背中から香奈を抱きしめた。


「ご飯よりも風呂よりも香奈だろ?」


名言を逆手にとると、香奈は身体を硬直させて顔を真っ赤にさせていた。


「じゅ、淳平?それってそういうことかな?」


おっとしまった。

そりゃ俺が悪かった、と言うべきなのかもしれないがそんなことを言える雰囲気ではない。すでに腕の中の香奈は甘い表情をしている。


「メインディッシュからになるけどいいか?」


正直なところ初めての俺は緊張している。たしか香奈には俺が入学してすぐくらいに別れた彼氏がいたから初めてってことはないだろう。

香奈の顔が驚きの表情になり赤べこのように頭をコクコクと上下させている。顔色もまさしく赤べこ。


「えっ?ほ、ほんとに?後悔しない?」


「いや、それ俺の台詞じゃね?」


なぜか男女の立場が入れ替わっていることに苦笑してしまう。


「なんで笑ってるのよ〜」


「いや、なんかおかしな関係だなってさ。普通は俺がリードしなきゃいけないのにな」


「なっ!わ、私がはしたないみたいじゃない。も、もう、じゃあご飯食べようよ」


香奈は俺の腕を振り解いてキッチンに向かおうとするが、もちろん俺の方が力は強いので、腕を解かれた瞬間にお姫様抱っこに移行してそのままベッドに香奈を横たえた。


「ちょ、ちょっと待って。お風呂、ううん、せめてシャワーだけでも浴びさせてよ」


「ん?もう無理」


香奈の意向をすげなく却下し、そのまま組み伏した。


♢♢♢♢♢


「で、何があった?」


赤い顔で俯きながらひたすらおかずを口に運んでいる香奈に声をかけると、箸からきんぴらがこぼれ落ちた。


「ん?」


「大学で何かあったんだろ?」


カチャと箸を置く音がして香奈が上目遣いをしている。


「うん、何かと言うよりも自分が情けないと思い知らされたって感じかな?」


「エレナか?というかあいつ絡みとしか考えられんな」


バツが悪そうな表情の香奈に、俺のできる範囲の優しい表情を向けた。


「ふふっ、宣戦布告されちゃった」


「はっ?それでなんでお前が落ち込んでるんだ?お前、俺の彼女だよな?」


「えへへへ。身も心も彼女だよ」


「それで十分じゃねぇか。あいつが俺のことをどう思ってるかなんて俺たちには関係ねぇ」


「うん。それはわかってるんだけどね。モデルとして成功してる人が相手だと思うと—」


「相手じゃねぇよ」


驚いたように目をパチクリさせている香奈はまだ俺を信用し切れてないみたいだ。


「相手じゃないって?」


「選択肢はねぇんだよ」


「選択肢?」


「何度も言わすなよ。お前以外考えられないって言ってんだよ。モデル?関係ねぇよ。ただの後輩じゃねぇか。お前は俺のなんだ?」


「……彼女です」


頬を染め俯く香奈は、俺にとってはその辺に売っている雑誌の表紙を飾るモデルにも負けてない。


「ただの後輩に言われたことに惑わされるなよ」


「はい」


「わかればよろしい。……おかわり」


「んっ!」


俺が差し出した茶碗を受け取ると、ご飯を山盛りにししゃもじで側面をペタペタ。


「はい」


両手で茶碗を差し出した香奈は満面の笑顔を見せてくれた。


「さすがに多いだろ」


あまりの盛りにそのまま香奈に一旦お返しした。


♢♢♢♢♢


「Renaちゃんラストね〜」


フラッシュが焚かれてカメラの画面に水着姿のRenaが写し出された。


「はいOK!お疲れ様」


「ありがとうございました」


エレナは脱ぎかけていたパーカーを肩まで羽織り、カメラマンのところに駆けて行った。


「どう?」


パソコンに写し出された写真を順番にチェックしていく。本来ならばモデルの仕事ではないのだが本人の希望もありチェックさせてもらっている。


「ワンピースはこれとこれとこれ。ノースリーブは……、これはちょっとアウトですね。屈みすぎて胸が見えすぎてる。水着はこれと……これがいいと思います」


一通り目を通したエレナはカメラマンに向かって一礼した。


「今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」


「こちらこそ。これはこっちが気付けなくてごめんね。ちゃんと削除しておくからね」


カメラマンは下着までバッチリ写ってしまっていた写真を素早く削除した。


「はい。ありがとうございます」


「Renaお疲れ様」


背後から声をかけられて振り返ると、そこにはスーツ姿の40代の精悍な顔つきの女性が立っていた。


「社長?現場にくるなんて珍しいですね」


エレナの所属する事務所「prismプリズム」の社長、大城麗子おおしろれいこ。自身もモデル出身であることからエレナもこれまでに多くのアドバイスを受けてきた。


「初の名古屋撮影だからね、環境確認したかったのよ」


撮影スタジオをグルリと見渡しながら不備がないかを確認している大城の眼光は鋭く、撮影スタッフには緊張が走る。


「社長がくるから現場が凍り付いちゃったじゃないですか」


場の空気を感じとったエレナが軽い口調で大城に話しかけた。


「あら心外ね。普段通りの仕事ができていれば問題なんてないはずよ」


エレナの真意に気づきながらも肩を竦めながらため息を漏らす。


「普段通り?私は社長が見てるならいつもの倍以上の力を発揮しちゃいますよ」


ケラケラと笑いながら大城に背を向けて控え室に戻って行った。


♢♢♢♢♢


「Renaちゃん、お疲れ様。麗子さん来てるわよ」


控え室に戻るとアキさんが迎えてくれた。


「知ってる。いま会ってきました」


アキさんの前の席に座りメイクを落としてもらう。


「相変わらず麗子がみたいね」


少しばかりオブラートに包まれたアキさんの言葉に思わず苦笑いしてしまう。


「そっ!いつまで経っても苦手なまま。たぶん一生好きになれないわ」


両手を広げてお手上げとアピールする。

私が社長をな理由をアキさんはよく知っている。私からじゅんくんを切り捨てさせたあのことを。

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