強欲と寺

 今日、とある大きな寺に行った。本当は昨日行く予定だったけれど、行けなかったためだ。


 行きたい行きたいと思ってやまなかった理由があった。その寺は私が初めてまともに願い事をした寺で、ここのところ廃れる一方の自分がこの思い出の地に赴けば何か変わるかもしれないと思っていた。

 

 が、それは二番目の理由だ。

 一番の理由は、ただ、紅葉を見たいというもの。この寺は紅葉の名所であるため、多くの人が訪れる。私は「美」を貪ろうと強欲のまま寺へ向かった。


 確かに、素晴らしい赤を呈したイロハモミジがあった。太陽の光がパーッと照ったときなど、青空に輝くように、紅葉の名所たる風情を拝観者に見せていた。


 だが、私の目には(おそらく他の人の目にも)、色あせ始めてシワが入った茶色っぽい赤のモミジが多かったように映った。



 寺の仏像様に、以下のお願いをした。


「これ以上、頭が悪くなりませんように」


 あとから、この願いでも何でもない言葉を悔いた。これは仏像様を侮辱している。なぜならこんなもの、願いでも何でもないからだ。無病息災でもなければ学業成就でもない。単に、自分の欲だ。願いというのは、どうしようもなくなった人が最後にすがりつく行為とも言えるだろう。非科学的・非論理的な天の上の、畏怖を覚えてやまない存在に、どうかどうか、お願いします、と縋る。そのかっこわるくも熱心で、信心深くて本気な心に、仏様は心を打たれるのではないだろうか。しかし仏様も、タダでは聞いてくれない。この世にタダなんて無いのだ。


 タダじゃなければいい、紙幣をたくさん賽銭箱の隙間にねじ込めばいい、というものでもないだろう。仏様はきっと見ている、目の前で浄財している人が何かに縋りたくてしゃあないか否かを。


「これ以上、頭が悪くなりませんように」


 これのどこが、縋る態度だろう。やっぱり侮辱的だと思う。仏様は怒り、これからもますます頭が悪くなるようにしてくださるであろう。




 寺は、欲を持って行くべき場所ではないと思った。持つべきものは、当然のことかもしれないが、願いだ。寺は、願いを(引きずるように)持参して畏れ多く足を踏み入れる場所だったと、かつての自分はちゃんとそう思っていたのに、いつの間にか忘れてしまっていた。

 寺は欲を満たしてくれる場所ではないということを認識した。

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