寺の死者たちは、暇

 二度目の金剛輪寺に行ったのは、紅葉が途轍もなく圧巻の十一月だった。


 一度目の金剛輪寺に行った前年の冬、寺にはほとんど誰もいなくて、静寂と寂寥感と沈黙が支配していた。その具現化かのように、中くらいのサイズのつりがねがただ単にそこにあり、ただ単に、竹からぽたぽたしたたる水が黒灰色の水受けの水面みなもで波を立てていた。ただ単に階段を上っていく途中にお地蔵様が大量にいらっしゃって、ただ単に本殿の中が巨大な柱で支えられ、宇宙のような静寂の中で仏様がそこに座っていらっしゃった。

 私は本殿にいたおばあさんにいろいろ説明を受け、大黒柱に使われている木について説明を受けた。それで、まずケヤキ(うろ覚え)の大柱に抱きつき、滑らかな表面を堪能した。続いて杉の大柱に抱きつき、ケヤキより滑らかでないことを確かめた。おばあさんにそう伝えたが、どんな反応をされたか忘れた。

 続いて堂内の脇にいらっしゃった仏様と対話した。独り言を呟いたのではない、頭の中で仏様が言っているであろう内容を想像しながら、一人二役をして対話していた。

 続いて他の仏様を拝観した。

 冬であり、紅葉も全部茶色くなって地面に落ち、わびしさが波紋のように広がりわたっていた寺。私はドビュッシー作曲「沈める寺」を聴きながら、縁側に座って庭を見ていた。数枚の紅葉が落ちていく様と、「沈める寺」が調和し、風景に音楽が付加されていた。


 二度目、紅葉シーズンに訪れた秋、人が山のようにいた。静けさなど微塵もなく、代わりに賑わいがあった。私はシーズンを狙った多くの人間が集まって必然的に賑わう光景が好きではないので、賑わいは喧騒に近かった。大量の客がバスにすし詰め状態で全員入りきった際に、客たちが拍手喝采して、まあ私も引きずられる形で手を叩いて苦笑いしていたのだが、その拍手喝采が最も寺を「無視した」行為だと思った。

 それでも寺の紅葉は美しく、寺と紅葉は調和していた。燃えるような、爆発するような赤、紅、橙、黄。それらは、寺に生えていることによって、相反する「静けさ」を呈していた。単に「美しい」と表現できる光景は、この「静けさ」が必要不可欠であろう。


 寺に美を見出すためには、静けさが必要不可欠である。


 秋、大量の客と本堂への階段を上っているとき、一人がこう言っていた。


「こんなにいっぱい人が死んだということ」


 金剛輪寺の本堂へ至る階段、その脇には大量のお地蔵様が並んでいる。私はお地蔵様がずらずら並んでいることに特異なる美を見出していただけだったが、確かに、人がこんなに死んだという悲しき事実が裏にある。


 が、悲しいのは遺族や関係者にとってだけではないだろうか。


 日常、ずらずら並んだお地蔵様を見ることは無い。日常、ずらずら並んだ電車待ちの人間、ずらずら並んだカップヌードル、ずらずら並んだ本、ずらずら並んだ自転車や車、ずらずら並んだ会議室の椅子、ずらずら並んだ電柱、ずらずら並んだ住宅、ずらずら並んだ山、ずらずら並んだ雲を見ることはできても、ずらずら並んだお地蔵様を見ることは無い。日常、静かな電車内、静かな教室・講義室・会議室、静かな自分の部屋、静かなトイレ、静かな公園、静かな深夜のコンビニを体験することはできても、日常、ケヤキと杉の巨木が支える本堂で仏様と脳内対話しながら、軋む床をゆっくり踏みしめながら次の仏様に手を合わせてお願いを聞いていただき、静かに賽銭箱に五円玉を入れることは無い。


 悲しいどころか、楽しい。いや、楽しいなんて次元はとうに突き抜け、特異な感情がまた別の特異な感情を発生させる。その繰り返しだ。

 悲しいのは、寺を去るときであろう。無限に繰り返すと思えた特異な時間は、時間の流れという不可逆な自然の摂理によって否定されるのだから。


 *


 死者は、確かに死んでいる。が、遺族や関係者でなく、且つその場の雰囲気が極めて特異な場合、死者たちは私に神秘的な興奮をもたらしてくれる。くたびれた日常における、時間の流れという不可逆な自然の摂理の範囲内に、静けさをくれる。


 もし私が寺で悲しい気持きもちになるとすれば、特定のお地蔵様の前で、唯一の者が手を合わせ、しきりに何かを呟きながらその目に涙が溢れているのを目撃した時だろう。そんな場面に出くわすことがあるとも思えないから、本当にそんな場面が訪れたとしても、その人を無視して神秘的な興奮に浸るのかもしれない。あるいは一瞬悲しくなるだけで、ちょっと見てすぐ目を逸らし、本堂に向かうかもしれない。


 死者は、何時いつまで死者なのだろうか。私の感情を励起させるほどのエネルギーを持っているのに、本当に死んでいるといえるのだろうか。答えは「是」。死者である人間は、永遠に変わらぬ「死」という状態に飽き飽きし、または不満を抱き、または単にふざけて、暇を持て余しているのではないだろうか。通りがかった私のような生き物に、何やら面白い感情を植え付けたくなるほど暇を持て余しているのでは。そんな状態なのに、生者に「死んでかわいそう」「無念だわね」なんて思われたら、ますます暇になるのではないだろうか。


 普通、紅葉目的で観光に訪れた人が死者について考えることはない。上述の人は死者に関心を寄せた分、まだ死者にとってはマシなほうだろう。24時間365日、棒立ちしかできず同じ方向しか見られず、しゃべることもできない体になった死者たち。彼らにとって、無視されるのは、すなわち人々が「静けさ」を感じてくれないことは、ため息が出るほど暇だと思う。


 よって私は、寺に行ったときに興奮する。


 よらずとも、興奮する。


 死者よ。私が興奮しているのを見て、少しは暇つぶしできたか。

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